第1話
ちりとりの上で、白い破片がカサリと音を立てた。
指先についた微小な殻の粉を、白石渚はそっとティッシュで拭い取る。
胸の奥にすっと広がるのは、満ち足りた充実感……ではなく、ずっしりとした不完全燃焼感だった。
ダメだ。今日も失敗した。
目の前の小皿には、表面がクレーターのようにボコボコに削れ、あちこち白身が欠けた無残なゆで卵が鎮座している。
渚が欲しいのは、こんな惨めなものじゃない。
滑らかで、ツルリとしていて、どこにも傷ひとつない完全無欠の白球だ。
薄皮ごと「ツルン」と一気に剥がれ落ちたときの、あの脳髄を痺れさせるような快感。
それだけを求めているのに、この数ヶ月、満足のいく剥き心地には一度もお目にかかれていなかった。
ちなみに言っておくが、渚はゆで卵が好きではない。
むしろ、口の中の水分を根こそぎ奪っていくあのパサパサした黄身は、どちらかといえば苦手な部類に入る。
「はぁ……またこれか」
溜め息をつきながら、ボコボコになったゆで卵をラップで包み、冷蔵庫のドアポケットへ押し込む。
これで冷蔵庫の中には、昨日と一昨日に生み出された「失敗作」を含めて四つの歪なゆで卵が転がっていることになる。
食べたくもないのに、ただ「キレイに剥きたい」という抑えきれない衝動のせいで、我が家の冷蔵庫はゆで卵の墓場と化していた。
「誰か……誰かこれ、代わりに食べてくれないかな……」
一人暮らしの小さなワンルームで、渚はポツリと呟いた。
◇
渚が勤務する文具メーカーの企画開発部は、いつもどこか慌ただしい。
デスクの周りには試作品のペンやメモ帳が乱雑に積み上がり、締め切り前の社員たちが殺気立ったオーラを放っている。
そんな戦場のようなオフィスの中で、隣の席に座る先輩・佐々木葵だけは、いつだって涼しげな顔をしていた。
「ねえ、白石さん。また手袋して通勤してきたの?」
「あ、はい……日焼け対策です」
渚は苦笑いを浮かべ、そっと右手の指先を隠した。
嘘だ。日焼け対策などではない。
昨夜、ゆで卵の殻に指先を押し当てすぎたせいで、親指と人差し指の腹がじんじんと赤く腫れているのだ。
爪の間に薄皮が挟まったような、変な違和感がまだ残っている。
「ふうん。まあいいけど。……あ、そうだ。今日からうちのチームに助っ人が来るの、聞いてる?」
「助っ人、ですか?」
「そう。他部署から期間限定で手伝いに来てくれるんだって。ほら、あそこ」
葵がアゴでしゃくった先、フロアの入り口付近に、背の高い男性が立っていた。
パリッとしたスーツを着こなしているが、どこか疲れを絵に描いたような男だった。
黒髪は短く切り揃えられているものの、少し寝癖が残っている。
そして何より印象的なのは、その空腹そうな目だった。
「初めまして。今日からこちらでお世話になります、橘です」
男——橘 薫は、丁寧だがどこか力なく頭を下げた。
彼が挨拶を終え、指定された席へと歩いてくる。
ちょうど渚の斜め前のデスクだ。
橘は椅子に腰を下ろすと、はぁ、と小さく息を吐き、ポケットから何かを取り出した。
それは、小さな塩の瓶だった。
マイ塩瓶。
渚は思わず目を丸くした。
橘はデスクの上にその塩瓶を置くと、愛おしそうな、それでいて切ないような目でそれを見つめている。
そのお腹から、ぐうぅ、と小さく虫の鳴くような音が響いた。
「……あの、橘さん?」
思わず声をかけてしまった渚に、橘はビクッと肩を跳ねさせ、気まずそうに振り返った。
「あ……すみません、お腹の音が聞こえましたか?」
「いえ、それは全然いいんですけど……その、塩?」
「ああ、これですか」
橘は塩瓶をそっと撫でながら、心底困り果てたような、情けない笑顔を浮かべた。
「なんか……無性に、ゆで卵が食べたくて」
「……はい?」
「急に、無性に食べたくなるんです。ここ最近、ずっと。別に生卵でもスクランブルエッグでもダメなんです。固ゆでの、シンプルなゆで卵に、ちょっと塩を振ってかぶりつきたい。……でも」
橘は自分の大きな手を悔しそうに見つめた。
「僕、不器用すぎて。自分で剥くと白身が半分くらい殻に持っていかれて、ボロボロになっちゃうんです。それが悲しくて、コンビニで買おうとしても売り切れてたりして……最近、満足にゆで卵を食べられてないんです」
渚の心臓が、跳ね上がった。
自分は「食べたくないのに、キレイに剥きたい」。
目の前の男は「不器用で剥けないのに、無性に食べたい」。
目の前に、奇跡のピースが転がっていた。
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