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殻を剥く指、塩を待つ唇  作者: あずきまんま


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第1話

ちりとりの上で、白い破片がカサリと音を立てた。


指先についた微小な殻の粉を、白石渚しらいし なぎさはそっとティッシュで拭い取る。

胸の奥にすっと広がるのは、満ち足りた充実感……ではなく、ずっしりとした不完全燃焼感だった。


ダメだ。今日も失敗した。


目の前の小皿には、表面がクレーターのようにボコボコに削れ、あちこち白身が欠けた無残なゆで卵が鎮座している。


渚が欲しいのは、こんな惨めなものじゃない。

滑らかで、ツルリとしていて、どこにも傷ひとつない完全無欠の白球だ。

薄皮ごと「ツルン」と一気に剥がれ落ちたときの、あの脳髄を痺れさせるような快感。

それだけを求めているのに、この数ヶ月、満足のいく剥き心地には一度もお目にかかれていなかった。


ちなみに言っておくが、渚はゆで卵が好きではない。

むしろ、口の中の水分を根こそぎ奪っていくあのパサパサした黄身は、どちらかといえば苦手な部類に入る。


「はぁ……またこれか」


溜め息をつきながら、ボコボコになったゆで卵をラップで包み、冷蔵庫のドアポケットへ押し込む。

これで冷蔵庫の中には、昨日と一昨日に生み出された「失敗作」を含めて四つの歪なゆで卵が転がっていることになる。

食べたくもないのに、ただ「キレイに剥きたい」という抑えきれない衝動のせいで、我が家の冷蔵庫はゆで卵の墓場と化していた。


「誰か……誰かこれ、代わりに食べてくれないかな……」


一人暮らしの小さなワンルームで、渚はポツリと呟いた。



渚が勤務する文具メーカーの企画開発部は、いつもどこか慌ただしい。

デスクの周りには試作品のペンやメモ帳が乱雑に積み上がり、締め切り前の社員たちが殺気立ったオーラを放っている。


そんな戦場のようなオフィスの中で、隣の席に座る先輩・佐々木葵ささき あおいだけは、いつだって涼しげな顔をしていた。


「ねえ、白石さん。また手袋して通勤してきたの?」


「あ、はい……日焼け対策です」


渚は苦笑いを浮かべ、そっと右手の指先を隠した。

嘘だ。日焼け対策などではない。

昨夜、ゆで卵の殻に指先を押し当てすぎたせいで、親指と人差し指の腹がじんじんと赤く腫れているのだ。

爪の間に薄皮が挟まったような、変な違和感がまだ残っている。


「ふうん。まあいいけど。……あ、そうだ。今日からうちのチームに助っ人が来るの、聞いてる?」


「助っ人、ですか?」


「そう。他部署から期間限定で手伝いに来てくれるんだって。ほら、あそこ」


葵がアゴでしゃくった先、フロアの入り口付近に、背の高い男性が立っていた。


パリッとしたスーツを着こなしているが、どこか疲れを絵に描いたような男だった。

黒髪は短く切り揃えられているものの、少し寝癖が残っている。

そして何より印象的なのは、その空腹そうな目だった。


「初めまして。今日からこちらでお世話になります、たちばなです」


男——たちばな かおるは、丁寧だがどこか力なく頭を下げた。


彼が挨拶を終え、指定された席へと歩いてくる。

ちょうど渚の斜め前のデスクだ。

橘は椅子に腰を下ろすと、はぁ、と小さく息を吐き、ポケットから何かを取り出した。


それは、小さな塩の瓶だった。


マイ塩瓶。

渚は思わず目を丸くした。


橘はデスクの上にその塩瓶を置くと、愛おしそうな、それでいて切ないような目でそれを見つめている。

そのお腹から、ぐうぅ、と小さく虫の鳴くような音が響いた。


「……あの、橘さん?」


思わず声をかけてしまった渚に、橘はビクッと肩を跳ねさせ、気まずそうに振り返った。


「あ……すみません、お腹の音が聞こえましたか?」


「いえ、それは全然いいんですけど……その、塩?」


「ああ、これですか」


橘は塩瓶をそっと撫でながら、心底困り果てたような、情けない笑顔を浮かべた。


「なんか……無性に、ゆで卵が食べたくて」


「……はい?」


「急に、無性に食べたくなるんです。ここ最近、ずっと。別に生卵でもスクランブルエッグでもダメなんです。固ゆでの、シンプルなゆで卵に、ちょっと塩を振ってかぶりつきたい。……でも」


橘は自分の大きな手を悔しそうに見つめた。


「僕、不器用すぎて。自分で剥くと白身が半分くらい殻に持っていかれて、ボロボロになっちゃうんです。それが悲しくて、コンビニで買おうとしても売り切れてたりして……最近、満足にゆで卵を食べられてないんです」


渚の心臓が、跳ね上がった。


自分は「食べたくないのに、キレイに剥きたい」。

目の前の男は「不器用で剥けないのに、無性に食べたい」。


目の前に、奇跡のピースが転がっていた。


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