3. 破られた真実
詩織は貪るようにページをめくった。
日記は、日を追うごとにその狂気と純度を増していくようだった。
筆者は自らを実験台にしているらしく、満月の夜にどれほどの時間、月光を浴びたか、その結果として自分の記憶にどのような変化が起きたかが克明に記録されていた。
『3年前の旅行の記憶が、全く見知らぬ異国の風景に変わっている』
『母の顔が思い出せない。代わりに、見たこともない美しい女性の顔が浮かぶ』といった、背筋が凍るような記述が並ぶ。
だが、筆者はそれを恐れるどころか、むしろ歓喜しているように見えた。
『記憶とは、個人の所有物ではない。月という巨大な図書館に保管されるべき、世界の断片なのだ。私は間もなく、その真理に到達するだろう』
日記の後半に進むにつれ、文字は乱れ、殴り書きのようになっていく。
そして、詩織が結末はどうなったのだろう。と、一際ページをめくる速度を上げたときだった。
パサリ、と不自然な感触が指先に伝わった。
「え……?」
日記の最後の方のページが、根元から乱暴に破り取られていたのだ。
ギザギザになった紙の断面が、ランプの光に照らされて白い歯のように覗いている。
残された最後のページ。そこには、ただ一言だけ、掠れた文字でこう書かれていた。
『だが、すべてを失う前に、残さねばならない。
欠片は――』
文章はそこで途切れていた。その先は、破り取られたページへと続いているはずだった。
詩織は落胆の溜息を漏らし、ノートを閉じようとした。
しかし、そのとき。
カサリ。
静まり返った倉庫の中に、小さな、本当に小さな音が響いた。
それは、ノートの隙間から何かが床に落ちた音だった。
詩織はランプを床に近づけ、落ちたものを拾い上げた。
それは、四角く折りたたまれた、1枚の古い紙の切れ端だった。ノートと同じ、あのバニラのような匂いが微かに漂う。
折り目を慎重に開いていくと、それは日記から破り取られたページの1部、その切れ端であることがわかった。
切れ端には、たった1行だけ、あの美しい筆跡でこう書かれていた。
『――私を呼ぶ声がする。月光の落ちる、あの場所で。』
その文字を見た瞬間、詩織の視界がぐにゃりと歪んだような錯覚に囚われた。
耳の奥で、キーンという高い耳鳴りが響く。
(……しおり……)
「えっ!?」
詩織は思わず声を上げ、周囲を見回した。
誰もいない。倉庫の扉は閉まったままだし、店には自分1人しかいないはずだ。
けれど、今確かに、誰かが自分の名前を呼んだような気がした。低く、けれどとても穏やかな、若い男性のような声が。
心臓がバクバクと早鐘を打つ。詩織は自分の手を凝視した。
握りしめた紙の切れ端から、微かな熱のようなものが伝わってくる。
100年前の紙が、まるで生きているかのように温かい。
「気のせい……よね。疲れているんだわ」
詩織は大きく深呼吸をし、自分を落ち着かせた。
時計を見ると、いつの間にか10時を過ぎている。
これ以上ここにいるのは危険だと、本能が告げていた。
詩織は『月の記憶』と書かれたノートを、そしてその切れ端を、無意識のうちに自分のキャンバスバッグへと滑り込ませていた。
店主には明日、正直に話して譲ってもらえばいい。今はただ、この場所から、この静寂から逃げ出したかった。




