2.月の記憶
「これは……?」
詩織は思わず、そのノートを両手でそっと持ち上げた。
サイズは一般的な文庫本より一回り大きく、厚みは指2本分ほど。
表紙は濃紺の布張りで、長年の摩擦のせいか、四隅は擦り切れて白っぽい繊維が覗いている。
だが、何より詩織の目を引いたのは、その表紙の中央に、手書きの文字で直に書かれたタイトルだった。
『月の記憶』
墨か、あるいは特殊なインクで書かれたのだろうか。
経年で茶褐色に変色しているものの、その筆跡は驚くほど端正で、どこか意思の強さを感じさせるものだった。
背筋がすっと伸びるような、それでいてどこか哀愁を帯びた、美しい崩し字。
詩織は無意識のうちに、軍手をはめた指でその文字をなぞっていた。
その瞬間、ドクン、と心臓が大きく脈打った。
ただの古い本を見つけただけなのに、なぜか喉の奥がカラカラに渇き、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。
「……落ち着いて、私。ただの古い日記か何かだよ」
自分に言い聞かせるように呟き、詩織はランプの明かりをノートに近づけた。
ページをめくると、独特の古い紙の香りが立ち上る。それはバニラに似た、けれどどこか退廃的な甘い匂いだった。
最初の数ページには、細かな数式や、天体の運行図のようなものが緻密なスケッチで描かれていた。
月の満ち欠け、潮の満ち引き、そして人間の精神状態をグラフ化したような奇妙な図表。
そして、その図表の合間を埋めるように、あの美しい筆跡で文章が綴られていた。
詩織は息を潜め、最初の行に目を落とした。
『大正14年 9月11日。
月光は、単なる太陽光の反射ではない。
それは夜という巨大なレンズを通じ、地上に降り注ぐ記憶の変質装置である。
長年の観察により、私は確信した。
満月の夜、特定の周波数を持つ光を浴びた物質、あるいは生物は、その内部に蓄えられた記憶の構造を書き換えられる。あるいは、全く別の記憶を植え付けられる可能性があるのだ。
人はこれを幻覚と呼び、あるいは精神の失調と片付ける。だが、それは違う。
月は、世界の記憶を吸い上げ、そして再び地上へと吐き出しているのだ』
詩織は、ページをめくる手が微かに震えるのを止められなかった。
大正14年といえば、今からちょうど100年前だ。
その時代に、こんな奇妙な、オカルトとも科学ともつかない研究をしていた人物がいたのだろうか。
文章はさらに続く。
『私はこの現象を「月光変質」と名付けた。
人の脳は脆弱な器だ。
溢れるほどの月光を浴びれば、自己の境界線は容易に融解する。昨日までの自分が、明日も自分であるという保証はどこにもない。
だが、もしも。もしもこの変質を意図的に制御し、1つの記憶を永遠にとどめる方法があるとするならば――』
そこまで読んだとき、詩織の胸に、先ほどよりも強い、鋭い痛みが走った。
それは肉体的な痛みというよりも、強烈な懐かしさに伴う切なさに似ていた。
(何、これ……)
詩織は胸元を押さえ、荒くなった呼吸を整えようとした。
知らない。こんな文章、読んだこともなければ、こんな研究のことも聞いたことがない。
それなのに、どうして自分の魂が、この言葉を知っていると叫んでいるような気がするのだろう。
幼い頃、一度だけ迷子になったときの記憶が脳裏をよぎった。
夕暮れの、誰もいない公園。赤く染まる空を見上げながら、「私はここにいてはいけない気がする」と、強烈な疎外感を覚えたあの瞬間の感覚。
このノートに書かれている言葉は、そのときの孤独と、どこか深い部分で繋がっているような気がしてならなかった。




