一章 魚人の町に落ちる影:お前は誤るな
少年が飛び出してきたほうに入ると、岩石のような腰掛に大股で座る巨体があった。
黒々とした丸い瞳は愛嬌さえある。
「こんにちは。それともこんばんは、でしょうか?」
「人間……」
巨体はのそりと立ち上がると、いきなり巨大な手を振り下ろしてきた。
僕が後ろに避けると、叩きつけられた砂が爆ぜ、目の前に高い柱を作った柱はもうもうと辺りを覆い隠しながら崩れる。
鯨人は煩わしげに顔をしかめた。
「とっとと失せろ!」
僕が会釈をして笑いかけると、不機嫌さに怪訝げな感情が混ざる。
「僕はパロマといいます。一つだけ聞かせてください。聞いたらすぐにでもこの町を出て行きます」
鯨人は不機嫌さを崩さないまま、聞いてくれる姿勢になった。
人間嫌いの話に偽りはないようだけど、全く話ができないわけでもないらしい。
「あなたが人間を嫌うようになったのはどうしてですか?」
「……俺の中には先祖たちの念が風化せずに生きている。物心がついた頃から当然のようにな。他の連中にそれがないほうがどうかしてる」
「人間たちが先にあなたたちを裏切ったから、ということですか」
鯨人の殺気が色濃くなる。感情を覆い隠してしまいそうなそれの中に、僕は色んな感情を見つけた。
「お前らに分かるか? 気心の知れた仲間たち、尊敬する親、みんながいる安住の故郷を捨てるほど身を焦がす恋慕。強い喪失感を覚えながら最も愛しい者のそばに向かい、行く先々で迫害に遭い、信頼した人にすら裏切られる無念。故郷を捨てた後悔じゃない。全てを犠牲にしても手に入れられなかった一つの心、その無念だ」
悲しさとか、寂しさとか、愛情とか、郷愁。それらが混ざり合い、やがて憎しみや怒りを生んだ。一言で表すなら、無念というほかない。
ひどい迫害を受けた魚人の先祖たちは後悔しなかったという。ただ自らが一心不乱に恋人を愛するように、恋人からも一心不乱に愛されたかった。
恋人からの裏切りだけじゃない。周りの人間たちは彼らの先祖から、時には最愛の命も奪った。
いかなる手段に出ても取り戻すことができなくなった。憎しみを生むには充分すぎる。
目の当たりにした心は僕に感じたことのないものをたくさん刻み込む。
僕の心は、壊死してしまったはずなのに。
「どうして人間を根絶やしにしないでいられるんですか!」
気がつけば、そんなことを口走っていた。
人間を虐げて、殺して、先祖を慰めていた鯨人。その感情は見ていられないほど混沌として、いつの間にか僕の心にも混沌をもたらした。
「……同胞をそんなふうに言うな。だからお前ら人間は、嫌いだ」
鯨人は小さく、情けなさそうに笑う。その顔はすぐに不機嫌色に戻ってしまったけど。
「さっさと出ていけ。今日はこれでも機嫌が良いほうだ。数分後には、分からない」
鯨人は脇の手桶から水を一掬いすると、僕の顔にばしゃりとかけた。
驚いて目を瞬く僕に笑いかけるその顔は、初めて見る彼自身の表情かもしれない。
「俺たちの先祖は自分の領分を誤った。お前は誤るな。俺はもう間に合わない。お前はお前の役割を果たせ、パロマ」
優しい笑顔は瞬く間に朱に染まり、鯨人は突然、出て行けと怒鳴り散らした。
僕は最後にお辞儀をして、彼に背を向ける。
「――俺を止める人間なら、ちゃんといる」
一度だけ振り返ると、鯨人はひどい虚しさの中、うなだれていた。




