一章 魚人の町に落ちる影:もっとも残酷な方法で
僕はもっと深く親子の事情を聞いた。
数年前。まだ魚人の町に残っている人間がいた。彼らは追い払われることなく、むしろ逃げ出さないように囚われていた。
人間たちは一人、また一人と死んでいった。病死かもしれないけど、たぶん魚人に殺されてしまったんだろう。
魚人たちは自分たちを襲う人間なら殺してしまう。この辺りは誰が誰を殺したのか判然としない。
はっきりしているのは、一部の人間を町に閉じ込めることにした人が鯨人だということと、彼がいたぶって殺すことを好んでいたこと。それから、先祖の無念や憎しみを強く継いでいること。
最後の一人は、ある人間の女性だった。
鯨人は最後の一人を大切に虐めた。
強い女性だったんだろう。彼女はどんなにひどい仕打ちを受けても、惨めな思いをしても、懸命に生き続けた。
自ら命を絶ってもおかしくない状況でそうしない彼女を、鯨人は不気味に思っていた。でも時が経ち、その理由を知った。
彼女が子を宿していると知った鯨人は、もっとも残酷な方法で彼女を殺す方法を思いついてしまった。
臨月を迎えた彼女の、何もかもを台無しにしようとしたんだ。
「狂ってる……」
彼女は死んだ。殺された。
「不可解なことが一つある」
「それは?」
「彼女の子、イサナが今でも生きているということだ」
「あっ、そういえば。彼女は産むことができたんですか?」
「いや、彼女は産めなかったそうだ。わざわざ鯨人が胎を裂いて取り上げた」
子は鯨人の子でもあったんだろうか。
それとも人間の女性に、一片の情でも持っていたのだろうか。
別れ際に男の名前を聞くと、彼は答える。
「名は槍と共に捨てた。今はただの人間だ」
「この町に人間はあなたしかいませんでしたから、今まではそれでよかったでしょう。でも今は、僕もいる」
このことを記す時、名がないのは不便だと思った。しかし男は言う。
「別に名など必要はないじゃないか。他人と自分を区別するから、自分の痛みしか分からない者が争う」
「面白い考え方ですね。今までそんな意見は、聞いたことなかった」
「……詭弁だな。忘れてくれ。魚人は同胞を大切にするが、区別しない種族ではない」
鯨人の大親分を討とうとする騎士だった男はついに名乗らず、傾き始めた太陽へと向かっていった。
僕は彼と逆方向、鯨人の住む方向へと歩き始める。
魚人のお兄さんや六本腕、そして今の男に話を聞いても、まだ分からないことがある。
他人の話というものは往々にして間違っていることがある。感情によって捻じ曲がってしまったり、誤解したまま話してしまうんだ。
それに、こちらが知らず知らずのうちに誤った解釈をしてしまうこともあるだろう。
僕が怒声を聞いた辺りに戻ってきたのは、夕日が家々を、そして砂を灼熱の色に染め上げた頃だった。
まるで争いの中にある血濡れの町のような不吉さを感じる。
いや、血の海よりも、あるお城が燃えてしまったときの光景のほうが近い。あれはたしか、誰かが火を放ったんだ。
これらの歴史をどこで誰が管理しているかはもう分からない。失ってしまったかもしれない。
「とろくさいやつだ! さっさと行け!」
昨日と同じ方向から聞こえてきた怒声は、昨日と同じくらい不機嫌なもの。
通りに飛び出してきた小さな影は、僕の十歩ほど前でべしゃりと転んだ。
近くにいた二人の魚人はなんとも言えない表情で一瞥すると、すぐにその場から離れていく。
まるでサソリか蛇でも見るような目に、僅かばかりの憐れみをたたえて。
影の正体はボロを着た小さな少年だった。
「大丈夫?」
屈んで声をかけると、少年はやや怯えた目で僕を見上げる。
短い白髪の下は、明らかに強い力で殴られた痣。左目の下から上唇までひどく腫れてる。額の痣はほとんど良くなっているようで、黄色い。
転んだ拍子に見えた足首にも、青黒い痣があった。
「だ……?」
こんなふうに声をかける人もいないのだろうか。彼には僕の言ったことが通じなかった。
僕は曖昧に笑って手を差し出す。すると少年の恐怖は色濃くなり、飛び上がるように立ち上がってバタバタと走り去ってしまう。
あれは明らかに日常的に暴力を受けている人の反応だ。間違っても転んだり高いところから落ちて負った怪我じゃない。




