一章 魚人の町に落ちる影:この国は腐っていない
魚人の町は大きな通りが多く、家も少し大きめだ。
六本腕に教えられた道を行く。ある大きな通りの脇道に入り、また横に曲がると、通りからは見えなかった不思議な空間に出る。
道は狭く、家も大きくはない。人間の家々だ。
人間が追い出されてからそれなりの年月を経ているにもかかわらず、廃屋らしさがない。
まるで誰かがせっせと手入れしているかのように状態の良い家と、掃き清められた煉瓦の道。
住み着いたという人間はこの辺りにいると聞いたけど、思っていたよりそれらしい家が多く、どこにいるのか分からない。
仕方ないので一軒ずつ訪ねてみよう。と、思い、ノックしようと腕を上げたときだった。
「貴公はもしや、歴史記録管理室のパロマ殿ではないか?」
ハッと振り返ると、無骨な男が顔に似合わず懐かしげに笑いかけている。
「……人違いでしょう」
「はっはっは! 隠すことないじゃないか。朱槍の鳩の高名は騎士団にもよく聞こえたものだ。同じ槍使いとして、いつか手合わせしたいと思っていた」
「騎士がなぜこの町に?」
尋ねると途端に男の表情が曇る。
「私は以前、敵に情けをかけたことを糾弾され、責任を取って槍を置いた」
騎士団の規律は厳しい。除名処分になったのだろう。
「もっと早くに出会いたかった。今の私は魚人の町に生きる一介の人間。貴公と槍を交える資格もない」
「それを言うなら、僕も似たようなものです。もっとも、僕がいた歴史記録管理室も、もう無くなってしまいましたが」
「なんという! いったいなぜそんなことに……」
事情を簡単に説明する間、騎士団にいたという男はじっと沈痛な面持ちで聞いていた。
強い義憤に軽蔑。それから、憐れみ。
「考えられない。この国はいつからそこまで腐ったのか」
「いえ、この国は腐っているというより、病んでいるんです」
「いや腐っている! 病んでいるというのは、治る可能性を持っているときに言うものだ」
「不治の病だってありますよ。でも僕は、治る病だと信じています」
じろりと向けられた目の奥には情熱によく似た怒りと、尊敬の念が燃えている。
「何か策はあるのか?」
「……明確な策はありません。僕のやるべきことは歴史を守り、記すことですから」
男は目に見えて落胆した。
感情の起伏が激しいというか、腹の底をこそこそ盗み見なくてもいい安心感がある。
だから僕は、この人をがっかりさせたくなかった。
「遅れて効く薬となるか、最後まで効かない薬となるか。それが民衆です。民衆は薬であり、医者です。僕たちが記す歴史は処方箋というか、薬のレシピが載っている医学書のようですね。直接病を治せるものではありません」
その処方箋には〝なにかの薬〟としか書かれてない。とても優れた医者がいても、僕たちのそれは役に立たないだろう。今のままでは。
少しでもたくさんの歴史が欲しい。
「僕は旅をしながら歴史を記しています。ここで足踏みしているのは、少し気になることを耳にしたからです」
「魚人が多くの人間を町から追い出したことか」
「いえ、親子喧嘩です」
男はカッと見開いた。
「鯨人の大親分なら、この町で大きな問題になっている。ここに住んでいて小さな問題だと言う者がいるとしたら、気を疑う……!」
男は冷たい砂を睨みつけて、目を閉じて怒りが過ぎ去るのを待った。
そして顔を上げた時、今にも怒声を発しそうな目で僕を見る。
「貴公は見物するだろう。それが役割だ。だが私は違う。私の役割は、鯨人を討つことだ」
この人の怒りは僕に向けられているわけじゃない。
「僕の役割は……。そう、見ているだけです。記すだけです」
本当に?
心が僕に問いかける。
その問いに、本当に、と返す。
「嫌な役割だな」
男は僕の心を見抜いてしまったように、目を逸らしてつぶやいた。
嘘じゃないんだ。
感情がどうにかしたいと望んでいても、僕の感情は意志より弱い。
とても残念だ。その感情すらも――。




