一章 魚人の町に落ちる影:六本腕の魚人
夕闇の時間、僕は勧められた宿で一息ついていた。
一日で町を縦断するのは無理なことだし、何より急ぐ旅じゃない。
争いのあるところに行き、それを記し、それが済んだら次の争いを探すだけの旅。
これを知る人は多くない。でも知る人は偉業だと言ってくれる。
無力さと無意味さを感じるばかりの旅だけれど、他にやりたいこともない。
大きな争いに感じていた憤りは朽ちて、砂に還ったはずだった。
なのに僕は、どこにでもある親子の諍いか躾か分からないものを、虐待なんじゃないかって気になったりする。
木を見て森を見ず、なんて言葉があるけど、僕は木を見て見ぬふりしてる。しなきゃならない気がしてる。
大事の前の小事と切り捨ててしまっていいのかと疑問を持ちながら、それを解決する労力を考えれば、構っている時間なんかない、なんて。
それが少し嫌で、たまにものすごく嫌になる。
まさに今がそうだ。
たまたま聞こえてきただけの怒声を、放っておいてもよかったのか。
呪われた眼でわざわざ自分のことを見なくても分かる。間違いなく、憂鬱な自分が見えるだろう。
たまには自分の心の声に耳を傾けてみよう。
明日は親子のことを少し聞いてみて、問題なかったら安心できるじゃないか。
問題がありそうだったら……。
人を説得するのは難しい。僕は何行か親子のことを書いて、また通り過ぎるんだろう。
♢
朝は冷え込む。
魚人たちは寒さに強いのか、宿にある二枚だけの毛布ではあまり温まらなかった。
おかげで朝日を眺めることができた。
毛布にくるまりながら温かいお茶を飲んで、もう少し日が昇るのを待つ。
朝食に煮魚のスープをいただいてから主人に礼を言って外に出ると、さっきまで温かいところにいたんだと気づいて驚く。
「物好きな人間がこの町に二人もいたとは。見たところ旅人だが、なんでこんな辺境の地に来たんだ?」
早速、声をかけてきたのは、のほほんとした顔つきの腕が六本もある魚人だ。
「向こう側に行ってみたくて。でもここに興味があって、少し滞在することにしました」
「なんだ~、行っちゃうのか。向こうに行ったってお前にとって珍しくもない、人間がいるだけだぞ。ここにいろよ。俺なんか腕が六本もあるんだぞ。面白いだろ」
「間違えて絡まってしまいそうですね」
「よくあるぞ。この前はジュースの瓶を倒してな、起こそうとしたんだけど、腕が絡まって全部零れたんだ~」
六本腕は本当に悲しそうな顔をした。
この人はおしゃべりが好きらしい。色々と聞くのにいい。
「そっちこそ珍しいですね。人間を嫌ってる魚人が、なんで引き留めるんですか?」
「そりゃあ、せっかく会ったのにすぐに別れたら寂しいだろ」
「相手が人間でも?」
「お前、ひどい誤解をしてるぞ。俺たちは別に人間が嫌いじゃない。そっか、きっと俺たちがこの町から人間たちを追い払ったから言ってるんだろ」
「追い払ったのが本当だとしたら、なんで追い払ったんでしょう。たとえば人間がひどいことをしたとか」
「ひどいことするやつもいた。でもそんなの大した理由じゃない。物騒なやつだなぁ」
どうも会話が前に進まない。
僕がじれったく思っているのが伝わったのか、六本腕はせっかちだなと言ってから話し始める。
「魚人が子供の頃に聞く話があるんだ。同胞の話だからな、俺たちの話みたいなものだ」
大昔、魚人の先祖たちの中には、人間に恋をして陸に上がってしまう者がいた。
最初は仲良く暮らすのだけど、周りには魚を娶っただとかヒレのある夫がいるかなどと揶揄され、ひどいときは恋人に捨てられてしまう。
もっとひどいと、家族と一緒に殺されてしまう。
捨てられると陸を彷徨った末に人間に捕まり、薬の材料にされたり見世物にされたりとろくなことにならない。
差別されながらも殺されず、恋人と暮らせた者も末路は凄惨だ。
全てを信じて連れ添うと決めた者が出来心で浮気でもするなら、不安と失意に自ら命を絶つ者も珍しくなかった。
陸に上がった魚は海に帰られない。足を得ても捨てることはできない。
足を得る代わりに故郷を捨てた者の大半は、故郷を失う代わりに恋い焦がれた人間と一緒になれた。
そして、大半はなんらかの形で相手を失う。
運良く生き延びた者が逞しくも残した子というのが、今の魚人の原型になったそうだ。
「つまりだなぁ、人間と一緒にいるのは危険だって、俺たちの血肉に染みついてるんだよ。先祖の無念がどうのって考えるやつもいる。でもほとんどは、ただくり返したくないって考える」
魚人は人間より力がある。頑強だ。ただどんなに強い生き物も、不思議と人間に勝てない。
そんな最強の人間が、八地区では魚人に負け続けている。
「魚人たちはどうやって人間に勝ったんでしょうか」
聞きながら、僕の頭には明確な答えがあった。
「追い出したんだ。たくさんいたら勝てない。なんでだろうな。そして人間も俺たちも恋愛をするだろ? どんなに強くても恋人を殺さないのが魚人だ。人間は殺す。俺たちは同胞の恋人も仲間だと思ってる。人間は、同じ人間でも他人の恋人は関係なく殺す」
人間に恋心を抱いた魚人の先祖たちはひどい目に遭っているのに、今の話だと報復したようなことはなかった。
話を聞く限り魚人に好感を抱く人間は稀だ。だからこそ魚人たちは殺せない敵を内部にたくさん作ってしまわないように、自分たちの安全を守っている。
だからほんの少しの人間がいる分には問題ない。基本的に魚人は人間より強いから。
それにしても、僕を入れても町に二人しかいないのだから、極端に少ない。
人間が減りすぎて居心地が悪くなった人も、最後は自分から町を出て行ったのだろうか。
「貴重な話をありがとうございます」
「こんなの常識だぞ。お礼を言われるような話じゃない」
「いやいや、勉強になりました」
太陽がだいぶ高いところにある。ずいぶんと話し込んでしまった。
立ち去ろうとする僕を、六本腕は引き留める。
「待てよ。まだお前の話を聞いてないぞ。ここの何に興味を持ったんだ?」
「魚人が暮らしている町が珍しいのもありますが、どうして人間を追い出したのかも気になっていました」
六本腕の話でその疑問は解けた。
「おかげで色んなことが分かりました。でも足を止めるにまで至った疑問は、もっと些細なことです」
僕は偶然聞こえてきた親子のいざこざ、というより恐らく父である誰かの怒声の話をした。
「それはな、うん、些細なことじゃないぞ。ここらに住んでる魚人で気にしてないやつはいない」
六本腕は困ったような顔で腕を組み、首をひねって考え込む。
調べる必要はないし、それほど深く調べるつもりもない。
誰かに聞いてみて分からなければ無視して通り過ぎるつもりでいたその問題は、魚人たちにとってそれなりに関心を引くことのようだ。
僕は内心ほっとしている。
仲間を大切にする魚人にとって、親子の問題に口を出すのは野暮だと放っておくことがあっても、それが度を超したものだったら止めるだろう。
そこまで考えて、昨日のことを思い出す。
〝あれは危ない〟
町の権力者なのか、単純に強いのか。誰もが目をつけられないように立ち去ってしまう。
「おしゃべりしすぎたな。俺はそろそろボスのところに行かなきゃいけない。本当はすぐ行くつもりだったんだ。うっかり忘れてた。ボスのことを聞きたいなら、もう一人の人間に聞くといいぞ」
六本腕は〝人間〟の居場所を教えて、去り際に気になることを言う。
「こっそり調べるのはいい。でもボスは人間が大嫌いなんだ。歯向かったりしたら、俺は町からお前を追い払わなくちゃいけなくなる」
その顔はとても心配そうで、優しかった。




