一章 魚人の町に落ちる影:無い尻尾でも振ってみますか
空気がよく凍る日。僕は魚人の町を縦断するために、まずは町に入った。
「おい、人間。お前、ここがどこだか分かってて来たのか?」
入ってすぐに声をかけてきたのは、ねばねばした皮膚で恐い顔のおじさん。
「はい。貴方たちの町だと、分かっています。僕はあちらに行きたいので、ここを通ると早いんです」
「魚人の町と分かってて入ってきたか! わっはっは! 面白い人間もいるんだな。通りたいだけなら好きにしろ」
「貴方も面白い。亜人たちは獣人と呼ばれるのを嫌いますが、魚人は魚人と呼ばれてもいいんですか?」
「あんな臆病者の獣と同じくくりにされるくらいなら、亜人より魚人って呼ばれたほうが気持ちいいだろ。だが気をつけろ。もし魚って呼んだらお前を殺す」
「こんなに大きな魚はいないでしょう」
僕は自分の頭に手を置いて、身長を比べる仕草をしてみた。
魚人のおじさんはもう一度大きく笑うと、迷うんじゃないぞと言って僕の肩をバシリと叩いた。
ねばねばしたものが服についても、気にしてないふりで笑い返すしかなかった。
おじさんのへそが僕の頭と同じくらいの高さにあったからじゃない。
あまりもたもたしていたら人間を良く思わない人の目に留まってしまうからだ。
しかし僕の考えとは裏腹に行く先々で魚人たちは僕を見つけ、声をかける。
とても人間を目の敵にしているようには見えなかったけど、見ようによっては馬鹿にされているようにも思えるだろう。
こんな人間が自分たちに敵うはずない。そんな余裕があるから笑っていられるところもあるだろう。
でも僕には感情が見える眼がある。
魚人たちの中には確かに馬鹿にしている人もいたけど、一人で旅をする僕に感心したり、なぜ八地区を目指すのだろうと興味持ったりと、純粋な好奇心も多いようだった。
憎しみとか怒りとか、そういった感情はほとんど向けられず、僕自身も魚人は気さくでいい人が多いとさえ感じる。
周りでも豪快な笑い声や、ときにはがなるように話す人も見かける。それでも朗らかさばかりが目立って、負の感情をちっとも見かけない。
こんな雰囲気のいい町で吹く冷たい風は、この町に不似合いな怒声を運ぶ。
「いい加減にしろ! 何度言えば分かる!」
喧嘩だろうか?
人間ならざわつき、知りたがりの野次馬たちが人だかりを作るかもしれない。
ここの人たちは怒声を遠ざけるように、騒いでいる誰かに見つからないように、静かに去るのが普通のようだ。
「さっきの声は誰のものですか?」
こっそり立ち去ろうとしている人に尋ねると、怪訝げな目を向けられる。
「変わった人間だな。魚人の喧嘩が気になるのか」
「魚人たちは豪快で気さくな人が多いと思っていたところだったので、珍しく感じて」
お兄さん(お姉さんかも)は、ここはまずいからと二つ離れた通りまで僕を連れてくると、立ち止まって向き直る。
煩わしさや悲しさ、義憤という感情は見えない。
あるのはただ、親切心とでも言うんだろうか。これは僕に向けられている。
「さっきのはこの町で一番関わっちゃならない、親子の喧嘩だ」
「親子喧嘩ですか。たしかに、多少のことなら周りが口を出すのは野暮かもしれないですね」
「いやそうじゃない。あれは危ないんだ。目の前で不機嫌なドラゴンが親子喧嘩してたら、こっちに関心が向く前に離れたいだろ? それと同じだ」
「声の主はドラゴンのように危険だ、と」
「そんなところだ。俺たち魚人は同胞を大切にする。魚を食うことならあるが、あれは気に入らない者なら魚人も食う」
「人間が人間を食べてしまったら、大抵は退治されるか捕らえられます」
「それができないほど強い場合は?」
「逃げますね。なるべく」
「そう、逃げる。大抵の生き物はそうだろう。だが、例えば高い壁で囲われた町で一緒に住んでいて、治安維持兵も騎士団も退治してくれなかったら?」
「そうですね……。無い尻尾でも振ってみますか」
肩をすくめると、お兄さんは呆れたようにため息をつく。
「魚なら水槽の中で必死になって逃げるだろうな。犬なら腹を見せて転がるし、人間は尻尾を振ってみるらしい。情けないのばかりだ」
「では魚人は?」
「あまり変わらない」
お兄さんも肩をすくめて、やれやれとつまらなさそうに笑った。
「さっき見ただろう。逃げることを悟られないように離れる。情けない姿を晒すのも、目に留まって無駄に危険に晒されるのも嫌なんだよ」
誰にだって逃げなきゃならないことはある。
僕だって追放される時、暴れたり抵抗したりしなかった。
勝てそうにないからと、結局のところ逃げたんだ。




