三章 鱗のある少年:新しい誰かになりたい
「……から、……は魚人……だろ」
家に帰り着くと、患者室から話し声が聞こえた。
中に入ると少年はこちらを向いたが、ホークは真剣な眼差しを彼に向けたままだ。少し怒ってる。
「ボクは魚人たちから、半魚人と呼ばれていました」
少年は魚人の町では同胞と認められず、むしろ人間以上に嫌われていたと語った。
僕にはそうは見えなかった。
魚人たちは鯨人と少年に関わりたくないという感情こそ持っていたけど、確かに誰も助けてくれなかったけど、中には憐れむ人もいたんだ。
でも僕はそれを言わない。彼に八地区に逃げて来たことを後悔させてはいけない。戻らせてはいけない。
魚人たちに宿る先祖の念が、人間の血が流れる少年を襲わないとは言い切れないんだ。
そして、少年は嫌われることに慣れてしまっていて、少しも悲しんでいないからだ。
「人間の母はボクを産んだ直後に亡くなったそうです。そして先日、ついに鯨人の父も亡くなりました。それはとても悲しいことのはずなのに、悲しくないんです。なんででしょう?」
僕が魚人たちから聞いた話とは少し異なる。鯨人は女性の胎を引き裂き、彼を取り上げたのだ。
魚人たちは彼に真実を隠したのだろう。
彼らの言う〝同胞〟とは、同じ胎から産まれたという意味ではない。同じ種族という意味だった。
少年は魚人と人間のハーフだ。
人間の胎から産まれた彼も、魚人たちから同胞と認められていた?
「おれ、親いないから分かんねぇけど、親父が嫌いだったからじゃねぇの?」
ホークが答える。
それだけじゃない気がする。だって鯨人がいたぶるために彼を生かしたのだとしたら、鯨人はいつまで彼を生かすつもりだった?
「やっぱり……、そうなんでしょうか」
違う。多分それだけじゃない。
しかし僕の心は言葉にならず、僕の心の中で反響するだけ。
「父はボクに魚の名をくれました。でもボクはきっと魚人が嫌いで、父のことはもっと嫌いだったのでしょう。好きになれるところが、一つもないんだから」
ホークと少年の話は進んでいく。
僕には嘘っぽい微笑みを浮かべながら、耳を傾けることしかできない。
僕の中にはまだ真実が無い。
もしあったとしても、きっと少年は真実を求めていない。
疑問は二つ。
一つは、先祖の念に憑りつかれた鯨人は、少年のことを憎むだけで、少しも愛情を持っていなかったのか。
二つ目は、魚人と人間とのハーフだった少年は魚人から同胞と考えられていたのか。
これらの疑問は、手遅れなんだ。
少年が魚人を嫌っていなかったとしても、彼にとって魚人の町は安全じゃない。これは先にも述べた通り、誰かに宿る先祖の念が、少年を人間と見なす可能性がそれなりにあるからだ。
そして鯨人に関しては、すでに亡くなってしまった。
「ボクに新しい名をください。なんでもいいんです。そうすればボクは、新しい誰かになれる気がします」
少年の心は一つの感情一色。拒絶だ。
鯨人への拒絶。魚人への拒絶。そして自分への拒絶。
僕が挙げた疑問への解は、彼がすでに出しているのかもしれない。少なくとも彼自身はそう思っている。
じゃないと、こんなに暗く固い感情は生まれない。
大抵は拒絶が強いと、もっとトゲトゲしている。でも、なんというか、少年の心は丸い鉄球みたいだ。
「今まではなんて呼ばれてたんだ?」
僕が感情に眼を奪われるほんの一瞬の間に、ホークが尋ねた。
「イサナ。――あるところで、サメのことをそう呼ぶそうです。でも父は、この名を嫌っていました」
「サメ? どうして急にサメが出てくるんだ?」
「嫌いだったからだ、と聞いたことがあります。サメが嫌いだから、ボクの名前にしたんです」
本当は鮫人と人間との子、という一縷の希望は絶たれた。
あれ? じゃあ誰の子なのだろう。鯨には鱗があっただろうか?
「お前はお前以外の誰かじゃねぇし、別に変わらなくてもいい。おれが会ったのはお前だ。ここにいるのもお前だ。それでいいじゃねぇか」
「僕もそう思うよ。今こうして話しているのは君で、他の誰かじゃない。もし今の自分が嫌で仕方なくても、人に自分を作ってもらう限り同じ問題にぶつかるよ」
これは自戒でもある。
僕には人の感情が見え、それに共感してしまうという弱点がある。
いつの間にか僕が僕じゃなくなってしまわないよう、日々よく分からない努力をしている。
その努力をやめた途端、僕は別の誰かになってしまうんだ。
そんな僕の眼から見ても、イサナの感情は複雑だった。
初めて肯定された戸惑いと、本当にそうだろうかという疑い、とでもいうのだろうか。
「イサナ。お前はイサナで、他の誰かじゃねぇ。イサナをやるのが嫌になったら、新しい自分は自分で考えろ!」
ホークは人好きのするにかりとした笑みを浮かべ、イサナはその笑みを見てようやく笑う。
それはぎこちないものだったけど、とても愛おしく思った。




