三章 鱗のある少年:救われた気がした
良く冷え込む晩。僕はわざと夜更かしをした。理由は歴史を記すためというより、日記に書くことが多かったから。
魚人の町に来て、魚人たちと話して、親子のいざこざに耳を傾けて、何もせずに八地区を訪れ、長く住み、ホークと出会い、鱗を持つ少年を保護し……。
こんなに長時間ペンを握っていたのは、歴史記録管理室にいたとき以来だ。
歴史が戒めとなって、平和の礎になればいい。
平和は簡単に崩れる。色んなことに気をつけないと。
知らない誰かの貧困を無視すると奪われる。争いの理由を知らないと関係ないところから飛び火しても対処できない。
いつからだろう。歴史を記すのが嫌だと思うようになったのは。
もしかすると僕は、最初から嫌だったのかもしれない。
嫌で嫌で仕方なくて、でも同じくらい訴えたかった。
もし平和が訪れてそれが気の遠くなるほど長く続いたとしても、誰かが苦しんだこと、痛んだこと、悩んだこと、なかったことにならないでほしい。
争いが続くよりも平和が続くほうがいいに決まってる。でも、その平和はやがて当たり前になるだろう。
その当たり前を望みながらも得られなかった人がたくさんいるんだ。せめてそのことを認識してほしい。そしたらその平和は尊いこと、恵まれたことだと知ってもらえる。
平和を大切にしてほしい。
僕の歴史はその平和の中に差す嫌な影になる。
西のほうは少なくとも食べることに困るなんて無縁な人が多い。その人たちに例えば、食べられない人がたくさんいるのに食べ物を捨てるなんてどうかしてる、なんて言っても耳を傾けてくれない。
遠く離れた縁の欠片もない人たちの貧困なんてどうでもいい、なんて。
そういった人を恨めしく思ったりはしない。僕自身も恵まれた環境で育って、食べることが面倒だとさえ思っていたから。
誰かが苦しんだ話なんてわざわざ好んで読む人は少ないだろう。
でも僕は残し続けた。
もっともらしい理由をつけて、僕は知ってほしいだけなのかもしれない。
助けを求める手を取る人が誰も現れず、そのまま死んでいくしかなかった無念を。
他人の苦しみは僕の苦しみでもあった。呪われた眼を持つ宿命だ。
でもおかげで、自分とは相容れない人たちと気持ちだけは共有できる。
つらかったね、なんて言ってほしいわけじゃない。
ただ、知ってほしかった。
人の考えを完璧に理解するのは難しい。僕には魚人の考えも、八地区の人たちの考えも少ししか理解できていないかもしれない。
でも、気持ちは共有できる。
先祖の念に憑りつかれた魚人の気持ちは、痛いほど分かる。
名前も知らない誰かの苦しみが心に流れ込んでくる。自分の身に起きたことじゃないから解決する方法もないし、そもそも自分は何も困らないから解決しなくてもいい。
なのに、放っておくしかないのに、どんどん心が蝕まれていくんだ。
胸の中を埋め尽くすのは自分の心じゃなくて、他人の心。
自分がどんどん塗り潰されて、共感した誰かに乗っ取られるような錯覚。
八地区に攻め込んだ魚人たちは、人間を憎んでいる人ばかりだった。僕は戦うたびに、彼らに心を侵されていく。
人々の手当てをしながらも、憎くて仕方ないことがある。
本当にやりたいことは歴史を記すことなんかじゃなくて、人間を殺すことの気さえしてくる。
ここの人たちは僕にとても良くしてくれる。怪我人が多いときは手伝ってくれたし、食料を分けてくれたり、僕が八地区に縛られていないか心配する人もいる。
その優しさが心地よくて、ああ、どうして魚人とはこういかないんだろう。
もしまた魚人が攻めてきたら、僕はどちらの味方になるか迷うかもしれない。
「珍しいな。もう寝てると思ったのに」
不意に聞こえた声に我に返る。よかった。僕はまだここにいる。
「何それ。なんか書いてたのか?」
「や、やあ。見つかっちゃったか」
幸い僕の様子を怪訝に思うでもなく、ホークは僕の手元を覗き込む。
それが小難しい書類ではないと分かると、途端に見てはいけないものだというように顔を上げて、戸惑いながら僕の目を見る。
「いいんだ。隠し事だけど、何がなんでも隠そうと思ってたことじゃないから」
おいで、と隣りの椅子を勧めると、ホークはおずおずと座る。彼もこんな表情になることがあるんだと少しおかしかった。
まだ遠慮がちにチラチラと見るのが、好奇心と必死で戦う子供そのものだ。
「君にはいつか言おうと思ってたことなんだけど、これは歴史なんだ」
「歴史?」
「もっと簡単に言うと、僕が見てきた色んなこと――」
巻き込んでしまったら彼もひどい目に遭うかもしれない。最初はそう思った。
でも僕と関わってしまった、一緒に住んだ過去は消えたりしない。
とっくに巻き込んでしまっていると気づいて、考えが変わった。
彼にはきちんと話して、彼がここを出る、あるいは僕がいなくなっても、自分で危険を避けられるようにしたほうがいい。
ホークは賢い。強い。これまでも理不尽に命を狙われ、色んな害意から逃げ延びてきた。
身を守る力はもうある。何が危険なのか知ってさえいれば。
僕はわざと見つかるために、彼が起きてくるまで夜更かしをしたんだ。
できればずっとずっとずーっと、守ってあげたい。
「――まぁパロマの字だと俺には読めないけど」
「ええ? それは困ったなぁ。字が上手だってよく褒められるのに」
こうは言っても、改めて手元の紙を見ると自分でもひどい字だと思った。
今日は歴史よりも日記に近いことを書いていた。よっぽど感情的になっていたのか、後日改めて見たら自分でも読めないかもしれない、そんな字だ。
「いつかホークもこんな字を読めるようになるかもしれない。もし読めないままだとしても、君には知っておいてもらいたかったんだ。君は僕が信頼する、数少ない一人だから。重荷だと思うなら忘れてもいい。でも、みだりに誰かに教えたらいけないよ」
「……おれには、悪いやつと良いやつが分かるから?」
たしかに彼の眼にはそれが映る。でもそれだけじゃない。
「何年も、何十年も経って、君に必要になる気がするんだ。なんとなくね」
それは過去を振り返ってみたくなったときかもしれないし、争いに身を置くようになってかもしれない。何か信念を持って歴史を知りたいと望むかもしれない。
正直、僕自身にも判然としない。単なる直感と言えばそれまでだ。
「必要にならなかったら放っておいていいんだ。何か知りたくなったとき、その手段がここにあるかもしれないってだけさ」
締めくくって立ち上がると、ホークは持っていた一枚を惜しむように眺めて、もう少ししてからやっと手渡してくれた。
なぜかそれだけで、少し救われた気がした。




