二章 八地区に差す光:両者が心を休めるには
魔族は人間に比べて丈夫な人が多く、多少は傷の治りも早い。
僕が人体の構造について熱心に学んだのは八地区に来てからだから、全てがそうだとは言い切れないけど、魔族も人間も魔力が高いと回復力も上がるということは、医学書にもよく書かれる。
ホークは自分が魔族じゃなくて人間であると言い張る。もしそれが本当だとすれば、魔族にもそう多くないほどの魔力を持っているのはどうしてだろう。
彼は自分の出生について、何も覚えていない。
人が記憶を失うことはたしかに珍しくない。自然に忘れることもあるし、強いストレスが原因で記憶を封印してしまうことも、頭にダメージを受けて忘れてしまうことも、場合によっては脳に新しい記憶を維持できなくなるような損傷を受けることもある。
彼には不思議なことがたくさんだ。でも僕は研究者ではないから、怪我が早く治るのはいいことだ、くらいに考えることにした。
「魔術式か何かか?」
考え事に夢中になっていると、不意に聞こえたホークの声に我に返る。
彼が尋ねたのは白い家の床にある紋様について。
魚人たちを倒して、僕は新たな紋様をつけ加えている真っ最中だった。
「僕は平和が大好きなんだ。でも平和の礎になったものを忘れたらいけないとも思ってる」
左手が鋭く痛むのは、自分で傷つけたから。
こんな傷も胸の痛みに比べれば小さいものだ。
その胸の痛みも、僕が手にかけた人たちのそれとは比べものにならない。
「でもね、ホーク。本当は、誰かを殺したらいけないんだ」
「なんで?」
「好きな人を殺してしまうと、とても悲しくて胸が痛くなる。何をしても治らない傷が、ここに残る。きっと、永遠にね」
嫌いな人でも殺したらいけない。でも八地区の人は、魚人たちは、互いのことがそんなに嫌いじゃなかっただろう。
八地区の人たちは魚人に故郷を奪われたんじゃない。追い出されたんだ。
両者はもともと共に暮らしていた。魚人の町は、魚人と人間の町だった。
魚人の愛が憎しみに負けてしまうまでは、八地区の人も魚人たちが好きだったのかもしれない。
同じ故郷で生まれ、共に育った魚人たちを。
どうして魚人はためらいなく人間を殺すのか。それは人間が魚人を殺すから。
人間が住んでいた通りは丁寧に管理されていた。たった一人の人間にできることじゃない。
魚人たちがどういうつもりでそんなことをするのかは分からない。でも憎しみによってそうしているわけではないだろう。
愛は憎しみに負けてしまったけど、朽ちてしまったわけじゃないんだ。
「パロマは殺すことに慣れたりしないのか?」
「人は一度やったことをくり返すとき、前にもやったことのある行動として認識するんだ。何度も何度もくり返すと、感情の揺れ幅が小さくなる。これが慣れだよ」
僕は、慣れるには充分すぎるほど魚人を殺めてきた。床の紋様が証だ。
「僕は殺すことに慣れてしまった。でも痛みはある。慣れより恐ろしいことは分かる?」
「……当たり前になること」
「そうだね。殺すことも殺されることも、当たり前になっちゃいけない。ここの人たちが魚人を〝喰うもの〟と呼ぶのは、魚を獲るのと同じだと思い込むことで悲しみを和らげようとしたんだと思うよ」
ほとんどの人は幼いころから今まで何かを食べて生きてきた。そのことに罪悪感を覚えることはあっても、そうしないと生きていけないから。
やらなきゃいけないこと、当たり前のこととして。
そのくらい当たり前のように魚人を殺す八地区の人たちが、少し恐ろしかった。
どちらのほうが好きか聞かれることがあったら、僕は魚人のほうが好きだ。
魚人たちは自分たちの平穏のために戦う。憎しみに囚われているのは少数派だ。
もしかすると僕は八地区の人たちより魚人に似ているのかもしれない。
魚人たちの言い分は十二分に理解してる。それでも同郷の人間たちに攻撃を加えた。
最初に平和を乱してしまったのは魚人だ。
そして訪れた平穏をもう一度乱したのは八地区の人間。
もし人間が町に戻ったとしたら、魚人にとっても人間にとっても平穏とは程遠い日々が訪れるだけだろう。
両者が心を休めるには、互いに離れて暮らすしかない。
「八地区の人たちは僕の話に耳を傾けてくれた。魚人から町を取り戻すのは現実的じゃない。だから僕が医者役をやる条件として、魚人の町を襲撃するのはやめてここで暮らそうって説得して、約束してもらえた」
「魚人が攻めてくる限り争いは終わらない」
「そう。魚人のほうが優勢だから、魚人たちはしつこく攻撃してきた八地区の人を、しつこく攻撃することに決めた」
「人間が優勢になれば攻撃はやむかもな。そうしたら今度は、また八地区から魚人への攻撃が始まる」
「だからお互いに力が同じくらいにならないとダメなんだ。できれば僕にとって殺すのが当たり前にならないうちに、そう持っていきたいよ」
話を切り上げて笑いかけると、ホークは少し心配そうな顔をした。
賢い彼には分かっているのかもしれない。
それが当たり前になる一歩手前になっていることを。
好きな人たちを殺すのが当たり前になったところは、見せたくないなぁ……。




