二章 八地区に差す光:もし傷ついて苦しんでる人がいたらどうする?
魚の加工と汚れた毛布を綺麗にするのは後回しにして、作ってもらったものを温め直して鍋ごと部屋に運ぶ。
少年はあの騒々しい中で眠っていたようで、いい匂いに鼻を鳴らしながら起き上がった。
「石壁の近くのおじさんが作ってくれたんだ。食欲はあるかな?」
相変わらず返事はないものの、水の入ったグラスと皿を用意する間、今にも飛びつきそうな目で鍋を見てる。
「二日前にもらった黒パンが少し残ってるんだ。これによく合うんだ」
ライ麦のパンはよくあるものだけど、こんなに魚と合うものだっていうのは八地区で初めて知った。
小麦の柔らかいパンではないから、消耗した少年にとってはちょっと食べるのが大変かもしれない。
「どうしたの? 食べていいんだよ?」
「……なんで?」
少年は初めて明確な言語を発した。
「普通、こんなことしない。わざわざ手当てして、食料まで……」
本当に分からないといった顔だ。
困惑はやがて疑いに変わり、やがて料理への興味を失う。
「おなかを空かせた人と一緒に食べるのが好きだから、かな」
歴史記録管理室の人たちは、僕を含めて食事を疎かにすることが多かった。
興味はもっぱら歴史にばかり注がれて、何かを食べると思考が鈍化するのが嫌だった。
それでも食べないと死んでしまうから仕方なく食べる。そんな感じだったんだ。
「食べるのは嫌い?」
「そんなやついない」
少年は首を振って短く答えた。
「じゃあ、食べるのが怖い?」
僕は水差しと鍋、黒パンを順番に指す。
「毒が入ってるかもしれない。怪しいと思う食事に人が抱く疑問はいつも同じだ」
次にグラスと皿を指す。
「毒が塗ってあるかもしれない。他に怪しいものはあるかな?」
少し考えて、少年は首を振った。
「本当は一緒に食べたかったけど、それができないなら僕のあとに食べるといいよ。さっきも言ったけど、この鍋のものは作ってもらったものだ。本当に毒が入っていないか、実は僕にも分からない」
少年はぎょっとして僕を見た。
変な話だ。自分に毒を盛ろうとしてると疑っているのに、僕が間違えて毒を食べてしまう心配をしてくれてる。
僕はなぜか、毒が入っていないと確信してる。
二枚の皿に盛った料理は、魚の燻製と豆を煮たもの。簡単なものと言っていたのに、皮と骨が丁寧に取り除かれていた。
僕はどちらの皿を取るか少年に選ばせた。一枚の皿を示した指は少し震えている。
パンもグラスも同じように選ばせて、僕は先に食べた。
燻製の料理はおいしかった。きっと貧民街では屈指の贅沢な料理だ。
それでも少年は食事に手をつけようとしない。
困ったことに、どうすれば信用できるか少年にも分からないようだ。
「……お前なら、どうやって確実に毒殺する?」
変な質問だ。
「そうだなぁ。眠っている間に口から流し込むか、吸い込ませるかな」
そもそも殺すことが目的なら、いくらでもチャンスがあったんだけど……。
そのことに少年も気づいたのか、猜疑心は再び困惑に染まる。
「分かんねぇ。なんで助けてくれるんだ」
言われてみれば確かに、なんで助けようと思ったんだろう。
「君なら、もし傷ついて苦しんでる人がいたら、どうする?」
「とどめを刺す」
信じられないほど迷いがない。
「おれ、助けられないし、助けてくれるやつも知らねぇ。ほっといても誰かが助けるとは思えねぇ。自力でどうにもできなさそうなら、殺してやるくらいしかできねぇから」
「……悲しい優しさだね。優しさをそのままに、これからは別の方法を選んでくれるといいかな」
「たとえば?」
「僕を呼びに来るとか」
ところで食べないの? と問うと、少年は思い切ったようにガツガツと頬張り始める。
信頼してくれたというより、ある種諦めの境地だ。
「うまい」
「次は温かいうちに食べてくれるといいかな。でも食べてくれる気になってよかった」
「お前に殺されるなら諦められる。なんとなく」
それはそれで、複雑な気分だなぁ。
「生きるために食べるんだ。その食事に毒を混ぜるなんて、人の悪意は恐ろしいね」
僕は悪意を持っていない自信がある。
でも、善意や信念の元、誰かにとって非常に都合の悪いことならたくさんする。
人を殺すことだけじゃない。僕たちが守ってきた歴史は、色んな人にとってなかったことにしたかったものだ。
これから記す歴史だって、もしかするとそうなのかもしれない。
歴史を抹消したがる人たちはきっと、大事な何かを守りたくて、そのためにはこれまでの罪が邪魔で仕方ないんだ。
信念と信念がぶつかり合ってしまったら、あとは意地の張り合いのようなもの。
悪意がなくても、人は人を殺す。
少年は鬼子だ。災いの言い伝えを信じる人から何度も殺されそうになっただろう。自分や家族、あるいは世界を救おうなどという大それた正義を持った人に。
とても悲しく許せないことだ。でもそんな人たちにだって、悪意があったとは限らない。
「僕はパロマ。君の名前は?」
少年は食べ物で口をもごもごさせながら、ホーク、と短く答えた。
彼には正義の刃も悪意の毒も及ばないよう、心穏やかに生きてほしいな。
せめて、彼だけでも。




