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煤街と山羊角(3)

右耳の後ろは、角が当たらなくなったぶん、かえってそこだけが独立した痛みになったようだった。

刺すほどではない。

けれど、首を動かす拍子や、風が通る瞬間に、ごく浅い熱が残っているのを思い出す。


髪を切って、角を整えて、それで済めばよかったのにと思う。

紬の前では素直に頷いたくせに、いざ店を出るとやはり少し面倒だった。

耳処へ行けば、見せて、触られて、何かしらされる。

それが嫌というほどではないが、積極的に好きなわけでもない。


それでも足が向くのは、今さら引き返すのも馬鹿らしいからだ。


耳処 かすみは、理髪店の並びからもう少し奥へ入ったところにある。

大通りほど騒がしくはなく、路地の石畳も少し古い。

湯屋の裏を回り、乾物屋の脇を抜けると、通りの音が一段遠くなる。

代わりに、どこかで湯を沸かすかすかな音と、店じまい前の戸を繰る音だけが残った。


環は歩きながら、右耳の後ろを意識しないようにしていた。


気にしたところで変わらない。

そう分かっていても、何かの拍子に首筋へ意識が戻るたび、あそこがまだ熱を持っているのが分かる。

紬の言う通り、少し膿みかけているのかもしれない。

そう思うと、ようやく来た意味が出てくるようで、少しだけ腹が立った。


店先の灯りが見えた時、環は無意識に歩みをゆるめた。


耳処の灯りは、理髪店の明るさとは少し違う。

外へ強く漏れるのではなく、戸の隙間や曇り硝子の奥で静かに溜まっているような灯りだ。

看板も大きくはなく、知らなければ通り過ぎてしまいそうな店構えなのに、近くまで来ると、そこだけ別の空気を持っているのが分かる。


環は戸口の前で一度だけ立ち止まった。


右耳の後ろへ触れたい衝動が、また指先まで上がってくる。

けれど結局それはせず、代わりに肩掛けの合わせを直した。

紬のところでも同じことをしたなと思って、自分でも少し呆れる。

身体の具合が悪い時ほど、どうでもいいところを整えたくなる。


息をひとつ吐いて、戸を叩く。


少し間をおいて、中から足音がした。


「はい」


開いた戸の向こうから、霞が顔を出す。


環は何度か来たことがある。

けれど、仕事終わりにふらりと立ち寄るたび、店の内側の静けさには少しだけ気圧された。

小さな棚、整った小瓶、清潔な布、灯りの下で鈍く光る器具。

どれも目立つわけではないのに、無駄がないぶんだけ視線が落ち着かない。


霞は環の顔を見て、次に髪と角へ目をやった。


「……紬のとこ、寄ってきたの」


「分かりますか」


「分かるよ、その艶」


短くそう言ってから、霞の視線が右側へ滑る。

髪を切ったせいで耳まわりが見えやすくなっているのだろう。

環が何も言わないうちに、霞は戸をもう少し開けた。


「入って。どうしたの」


問い方は素っ気ないのに、追い返す感じはない。


環は小さく会釈して中へ入った。

外の空気より少しあたたかい。

石鹸と、乾いた草の匂いと、湯気の気配が混ざっている。

紬の店とも似ているようで、ここはもっと静かで、もっと近くまで身体を見られる場所の匂いがした。


「右耳の後ろが、少し」


環は言いながら、右側の髪を耳の後ろへ払った。


「角が当たってたみたいで。紬に整えてもらったんですけど、赤いのが残ってるって」


霞は正面から一度、環の顔を見た。それから近づいてきて、右側へ回る。


「触るよ」


「はい」


言ってから、環は少しだけ肩を固くした。


霞の指先が、髪を分けて耳の後ろへ空気を通す。

紬の触れ方が「整える」ためのものなら、霞のそれはもっとまっすぐだった。

必要なところだけを見て、必要なぶんだけ触る。

ためらいはないのに、乱暴でもない。


耳の付け根に近いところへ指先が寄ると、環はわずかに眉を寄せた。


「……そこです」


「ん」


霞の短い返事のあと、指先がさらに近づく。

触れるか触れないかのきわで熱を見て、それから耳の縁を軽く押さえた。


ちく、と小さく痛む。


「ちょっと荒れてるね」


霞はそう言って、髪を分けたままの手つきで耳の後ろを覗き込んだ。


「擦れた上に、先の方が少し潰れてる。膿もほんの少しだけ溜まってるかな」


環は思わず目を伏せた。


「……やっぱり」


「うん。でも大したことはないよ」


霞はそこでようやく手を離し、いつもの落ち着いた声で続けた。


「浅いから、今のうちに出して洗えばすぐ済む」


浅い、すぐ済む、と言われても、環としてはその「出して」のところだけ妙に耳に残った。


霞はもう一度、環の顔を見た。


「座れる?」


環は一拍遅れてから頷いた。


「……はい」


「こっち」


案内された施術台へ腰を下ろす。

理髪店の椅子とは違って、こちらは最初から身体を預けるためのものだった。

木の台に薄い敷布が掛けられ、頭を支えるところだけ少し低くなっている。

環が横向きになりやすいよう、霞は手早く布を整えた。


「右を上にして」


言われた通りに身体を横たえると、切ったばかりの髪が首筋で少し滑った。

角の位置を見て、霞が小さな畳み布をひとつ差し込む。

後ろへ流れた角が無理な向きにならないよう、ほんの少し高さを足しただけなのに、収まりがずいぶん違った。


「これで大丈夫?」


「はい」


「じゃあ、少し見るね」


霞は灯りを寄せた。

手元だけが明るくなる。

紬の店の灯りが全体をやわらかく照らすものなら、こちらは必要なところだけをはっきり見せる灯りだった。


耳の後ろへ髪を分けられる。

洗ったあとなので髪はさらさらと素直に動いて、問題の場所がすぐに露わになった。

空気がそこへ直接触れただけで、じん、と浅い熱が立つ。


霞の指先が耳の付け根のあたりへ触れた。


「痛かったら言って」


「……はい」


親指と人差し指で、耳の縁の皮膚をそっと寄せるようにされる。ごく軽い圧なのに、その下にある小さな荒れがはっきり浮かび上がった。

環は眉を寄せる。


「ここね」


霞の声はいつも通り淡々としていた。


「擦れて表面が破れて、その下が少しだけ塞がってる。膿っていうほど大したものじゃないけど、中に溜まると鬱陶しいやつ」


「……見ないで済むなら見たくない感じですか」


「うん。見なくていいよ」


即答だった。


環は薄く息をついた。ありがたいような、少し腹が立つような返事だ。


霞は小皿と小瓶を脇へ寄せ、細い器具を一本取った。

針というほど大げさではなく、先だけがごく小さく尖ったものだ。

布で拭い、薬液を含ませる。

鼻先へ、消毒のつんとした匂いがごく薄く届いた。


「ちょっと冷たい」


最初に当てられた薬液は、ひやりとしてすぐにしみた。

環は肩をわずかに強張らせる。痛いというほどではない。

けれど、荒れた皮膚のきわだけが敏感になっているのが分かる。


「そこまで悪くないから、表面だけ少し開く」


霞はそう言って、左手で耳の位置を固定した。

右手の器具の先が、荒れた場所へごく小さく触れる。


ぷつ、と言うほどの感触もない。

ただ、表面がほんの薄く裂けたと分かる程度の、鋭い一点だけの刺激が走った。


「っ……」


「うん。これでいい」


霞の声は動じない。


そのまま親指の腹で耳の付け根の下をそっと押し上げるようにされる。

次に、傷のすぐきわをほんの少しだけ寄せた。


じわ、と熱を持ったものが動いた。

痛みは浅い。

けれど、自分の皮膚の下にあったものが出口を見つけて押し出される、その感触だけが妙に生々しい。


霞が小さな綿を当てる。


「少しだけ」


そう言われてすぐ、綿へ湿ったものが移る気配がした。

ほんのわずかだ。

環に見えなくても、その量が多くないことは分かる。

だからこそ余計に、こんなもののせいで一日じゅう鬱陶しかったのかと思ってしまう。


霞は無駄に押さなかった。

必要なぶんだけ、浅く、短く。

もう一度だけ皮膚のきわを寄せると、細い痛みが走って、それで終わりだった。


「もうないね」


綿を離す音が小さくした。


環は台の上で、ようやく詰めていた息を吐いた。

思っていたよりずっと短かったし、ずっとましだった。

それでも身体はちゃんと緊張していたらしい。右の肩が少しだけ重い。


霞は新しい綿へ消毒を含ませ、今度は開いたところをきれいに拭った。さっきよりもしみる。表面が開いているぶんだけ、冷たさが直接入ってくる感じがする。


環は目を閉じた。


「しみるね」


「……少し」


「我慢できる?」


「それは」


言いかけて、環は小さく息をつく。


「できます」


「うん」


霞は短く返して、拭き取りを終えると今度は軟膏の小瓶を開けた。

匂いは強くない。油に似た、でももっと乾いた薬の匂いだ。

小さな匙の先で掬ったそれを、傷のあるところへ薄く置いていく。


冷たさのあとに、ぬるい膜ができる感触があった。ひりつきが一段やわらぐ。


「今日はここ、あまり触らないで」


「はい」


「髪を結ぶ時も、きつく引かない方がいい」


「分かりました」


「角はもう当たりにくくなってるはずだから、二、三日いじらなければ落ち着くよ」


霞はそう言いながら、耳の後ろへ当てていた布を外し、周りの皮膚に薬が広がりすぎていないか確かめた。

手際がよすぎて、処置が終わった瞬間が分からない。


「これでおしまい」


あっさりした声に、環は目を開けた。


「……もうですか」


「うん。浅いって言ったでしょ」


霞は器具を小皿へ戻し、綿をまとめて片づけていく。

その横顔には「これくらいは大したことじゃない」と書いてあるようだった。

実際そうなのだろう。

けれど受ける側からすると、その「これくらい」に身体が妙に引っかかるのだから始末が悪い。


環はゆっくり起き上がった。

頭を動かした時、右耳の後ろにまだ少しだけ意識が残る。

けれど、さっきまでの熱っぽい張りとは違っていた。

痛みの芯が抜けて、表面だけが軽くひりついている感じだ。


霞はその様子を見て、ひとつ頷く。


「さっきよりはましでしょ」


環は耳の後ろへ手をやりかけて、止めた。


「……たぶん」


「たぶんじゃなくて」


霞の声には少しだけ呆れが混ざる。


「触らなくても分かるくらいには、もう腫れの張りなくなってるよ」


そう言われて、環は首をほんの少し傾けた。たしかに、あのじくじくとした圧のような違和感は薄れていた。髪を切って、角を整えてもなお残っていた鬱陶しさの芯だけが、今ようやく抜けた気がする。


「……そうかもしれません」


「そうだよ」


霞は言って、ようやく少しだけ口元をゆるめた。


環は施術台の端へ手をつき、ゆっくりと姿勢を戻した。

右耳の後ろにはまだ薬の薄い膜があるのが分かる。

ひりつきは少し残っているが、さっきまでの、内側からじくじく押されるような嫌な張りはもうなかった。


たったそれだけの違いなのに、頭の後ろ半分くらいが急に静かになった気がした。

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