煤街と山羊角(2)
最初のひと房が落ちるのを、環は鏡の中で見た。
肩へかかっていた重みが、ごくわずかにほどける。
首筋のあたりにまとわりついていた髪が減るだけで、息の通りが少しよくなった気がした。
紬の手は静かだった。
櫛で髪をすき、指のあいだへ挟み、角の根元へかからない位置を見ながら鋏を入れる。
急ぐ様子はないのに、迷いもない。
長さを切るたびに、髪が肩を離れて膝の上へ落ち、ケープの上を滑って床へ散った。
「もう少し早く来ればよかったですねえ」
不意に紬が言った。
環は鏡の中の紬を見た。
「……そんなにでしたか」
「毛先もですけどお、根元にたまる量が増えてました。角の近くって、少し増えただけでも鬱陶しいですからねえ」
「それは、そうですけど」
言い返しながら、環はわずかに口をつぐんだ。
紬に言われると、言い逃れしづらい。
責めている口調ではないのに、妙に図星を突いてくる。
紬はそれ以上追及もせず、また髪をすいた。
櫛の歯が頭皮を軽く滑るたび、角の根元にたまっていた重さがほどけていく。
環は目を伏せた。切られているのはただの髪なのに、頭の輪郭が少しずつ整っていく感覚があった。
「環さん、ここ」
紬が左の角の根元あたりを軽く示す。
「このくらいが一番収まりいいと思いますよお。短すぎると浮きますし、残しすぎると今度は根元にたまります」
「任せます」
「はい」
それだけで話が済むのも、環は嫌いではなかった。
余計な愛想も要らないし、細かく説明されるのも面倒だ。
紬はそのへんの加減がちょうどいい。
鋏がまた、小さく鳴る。
ちき、ちき、と続く音は鋭いのに、どこか眠くなるような一定さがあった。
持ち上げた髪を落とし、次の房へ移り、長さを揃えながら重みだけを薄くしていく。
ときおり櫛の背が角の根元近くをさらりと撫で、そのたび環の肩の力が少し抜けた。
右のあたりへ来ると、紬の手が少しだけ慎重になる。
髪を耳の後ろから払われるたび、問題の場所が近いのだと分かる。
環はそこでわずかに身じろぎしそうになって、こらえた。
「すみません、そこ」
「ええ、分かってますよお。痛いところは避けます」
避ける、と簡単に言うくせに、紬の指先はほんとうにそこだけをよけて動いた。
耳の縁に直接触れず、角の根元と首筋のあいだにたまった髪だけを器用に拾っていく。
環は、少しだけ息を吐いた。
「そんなにひどい顔してましたか」
ふいに自分でも妙なことを口にしたと思ったが、紬はくすりと笑うだけだった。
「してましたよお」
「……そうですか」
「朝からずっと気にしてた顔です」
環は黙った。否定しても仕方がない。まったくその通りだった。
鏡の中では、切りそろえられた髪が少しずつ形を整えていく。
毛先の重たさが取れ、首筋と角の根元のあいだに空気が通るようになると、それだけで頭全体が軽くなった気がした。
まだ右耳の後ろはじくじくと意識に引っかかるままだったが、それでも来た時よりはましだった。
紬は後ろへ回り、全体の線を見たあと、前へ垂れた髪を少しだけ整えた。
目にかかるかかからないかのところを見極め、頬の横の髪を角の線に沿うように薄く落とす。
「前、もう少し切ります?」
「いえ、それくらいで」
「はい。お仕事の時、邪魔にならない方がいいですもんねえ」
環は短く頷いた。
帳場で俯くたび、髪が顔へ落ちてくるのは好きではない。
そういう細かいことを一つずつ減らしていくのが、こういう店へ来る理由の半分くらいを占めている気がする。
紬は最後に櫛を通し、左右の長さと角の根元の収まりを確かめた。
「こんなところですねえ」
鏡の中の自分は、来た時よりずっとすっきりして見えた。
首筋にかかる髪が減っただけで、顔立ちまで少し違って見える。
右耳の後ろの不快がなければ、もうそれだけで十分だったかもしれない。
けれど、問題の場所はやはり残っていた。
髪が軽くなったぶん、かえって右の先が耳の縁に近いことが分かる。
わずかに首を傾けるだけで、そこにあるのを思い出してしまう。
紬もそれに気づいたらしく、鏡越しに環を見た。
「髪はこれで大丈夫です。じゃあ次、右だけ少し整えましょうかあ」
そう言って、棚の上へ鋏を置く。
かわりに細い鑢と小さな刷毛を手に取る仕草は、同じように静かなのに、少しだけ種類の違う仕事へ移る気配を帯びていた。
環は鏡の中の自分を見たまま、小さく頷いた。
「お願いします」
「はい。ほんの少しだけですからねえ」
紬は細い鑢を指のあいだで持ち替え、まず右角の下へ左手を添えた。
角を持ち上げるというより、動かないよう重みを受けるための手つきだった。
無理に力をかけない持ち方に、慣れがにじむ。
「耳の近くなので、音が少し響くかもしれません」
「……はい」
「痛くはないですよお。もし嫌な感じがしたら、すぐ言ってくださいねえ」
そう言われると、かえって少し身構える。
環は膝の上で指先を重ね、肩へ余計な力が入らないよう息をひとつ吐いた。
紬の櫛の先が、右耳の後ろの髪をもう一度だけ軽く払う。
切ったあとで量が減っているぶん、空気が直接そこへ触れた。
じわりとした熱っぽさが、さっきより分かりやすい。
「ここですねえ」
鏡越しに示されたのは、やはり角の内側のごく短い一線だった。
ほんの少し削るだけで済む、と理屈では分かる。
分かるのに、その「ほんの少し」のためにここ数日ずっと機嫌を悪くしていたのかと思うと、余計に腹が立つ。
紬は鑢を当てる前に、親指の腹で角の内側をそっとなぞった。
どこに厚みが出ているか、最後に指で確かめているらしい。
その感触はくすぐったくも、少しだけ落ち着かなかった。
「では、いきますねえ」
最初の一往復は、ほとんど撫でるように軽かった。
しゃ、と細い音がして、環は思わずまばたきをした。
痛みはない。
ただ、耳に近いところで何かが削られているという事実だけが、妙に神経へ触る。
自分の身体の輪郭が、ごく小さく削り直されていく感覚。
髪を切る時の軽さとも違うし、爪を整えるほど気楽でもない。
紬は二度、三度と短く鑢を動かした。
しゃ、しゃ、と乾いた音が続く。
削る長さはほんとうにわずかで、往復も短い。
大きく形を変えるのではなく、当たりの原因になる一点だけを落としているのが分かった。
そのたび、角の表面を通る微かな振動が、耳の近くでかすかに響く。
環は眉を寄せた。
「響きます?」
すぐに紬が訊く。
「……少し」
「ですよねえ。でも、もう半分もいかないくらいです」
穏やかな声に、環は小さく息をついた。
紬のこういうところはずるい。
大したことではないと分からせながら、雑には扱わない。
大丈夫だと決めつけない代わりに、必要以上に心配もさせない。
また、しゃ、と音がする。
刷毛がはらりと動いて、削り粉を払った。
床へ落ちるほどでもない細かな粉が、灯りの下で一瞬だけ白く浮いて消える。
紬は角の線を横から確かめ、少しだけ角度を変えた。
支えている手はずっと変わらない。
軽いのに、動かない。
「右って、前から少し内向きだったんですねえ」
「たぶん」
「このくらいだと、普段は気にならないんですけどねえ。伸びてくると、こういう当たり方します」
「最近になって急に気になり出したのは、そのせいですか」
「そうでしょうねえ。形が悪いわけじゃないですよお。ちょっと、間が悪かっただけです」
間が悪かっただけ。
その言い方に、環は少しだけ気が抜けた。
異常だとか、変だとか、そういうことではないのだろう。
ただ、自分の身体の癖が、今ちょうど面倒なところへ出ただけだ。
紬はさらに短く二、三度、鑢を当てた。
今度はさっきよりも音が軽い。
もう厚みのあるところは落ちていて、表面を均す段階に入っているらしかった。
「……そんなに削ってる感じ、しませんね」
「しないくらいで十分なんです。こういうのは、やりすぎる方がよくないですから」
「大掛かりなことになるのかと思ってました」
「そこまでじゃありませんよお。環さん、気にしてる時の顔が大げさなだけで」
環は思わず鏡の中の紬を見た。紬は目だけで笑っている。
「ひどい言い方ですね」
「本当のことです」
そのやりとりのあいだにも、紬の手は止まらない。
最後に一度だけ、しゃ、と細く音を立ててから、鑢が離れた。
かわりに、指先が削った部分をなぞる。
引っかかりが残っていないか確かめるように、ゆっくりと。
「……はい。これで当たり方、だいぶ変わると思います」
紬は刷毛で角の内側を払ってから、少し手を離した。
「どうです? 首、少し動かしてみてください」
環はおそるおそる顎を引き、右へほんの少し傾けてみた。
さっきまでなら、その角度で耳の縁へ気配が寄ってきた。
今はまだ、赤くなった皮膚の違和感そのものは残っている。
けれど、角の先が触れそうなあの嫌な近さが、たしかに薄れていた。
「……あ」
「違います?」
「さっきよりは」
「よかったです」
紬はそれだけ言って、また角の表面を横から見た。
削った部分だけが浮かないよう、境目をもう一度だけ軽く整える。
ほんとうに仕上げの一撫でといった程度だ。
しゃ、と最後の音がして、今度こそ鑢が置かれた。
環はもう一度だけ首を動かした。
耳の後ろにはまだ熱っぽさがある。
触ればたぶん少し痛むだろう。
それでも、原因のひとつが取り除かれたのは分かった。
朝から薄く刺さり続けていたものが、ようやく抜けかけている。
紬は小さな布で角の内側を拭いながら言った。
「このあと洗いますからねえ。髪も、削り粉も、きれいに落としましょう」
「はい」
「そのあと磨いておきます。せっかく整えたところですし」
環は頷いた。
鏡の中の自分の角は、見た目にはほとんど変わらない。
それでも、自分には分かる程度の違いがもうそこにあった。
そういうのが、少し悔しくて、少しだけほっとする。
「では、洗いましょうかあ」
紬がケープの上へ落ちた髪を払う。
刷毛とも布ともつかないやわらかな感触が首筋をかすめ、切った髪の細かな欠片が取り除かれていく。
肩や襟元へ入りかけていたものまできれいに払われると、それだけで少し気が楽になった。
紬に案内されて席を立つ。
洗い場は店の奥にあり、半ば囲われた場所に低い椅子と陶器の深い受けが据えられていた。
湯気がうっすらこもっていて、表の鏡台まわりより空気がやわらかい。
「首、苦しくないですかあ」
「大丈夫です」
背を預けると、角のために後ろをうまく逃がした台へ頭が収まった。
人間用の椅子ではこうはいかない。
後ろへ流れた角の先がどこにも当たらないことに、環は改めて小さく息をついた。
紬は桶から湯を汲み、まず手の甲へ少し落として温度を確かめてから、環の髪へ静かに流した。
ぬるめの湯が頭皮を滑り、切ったばかりの首筋を伝って落ちていく。
角の根元にたまっていた細かな髪がほどけ、削り粉も一緒に流れていく気配がした。
環は目を閉じた。
思っていた以上に気が張っていたらしく、湯が髪を重く濡らしただけで肩の力が抜ける。
「熱すぎませんかあ」
「ちょうどいいです」
「よかった」
泡立てた石鹸が髪へ馴染ませられる。
紬の指はやわらかいのに、頭皮のどこを押せば気持ちがいいのかをよく知っていた。
爪は立てず、指の腹で円を描くように洗っていく。
角の根元へ近づくと、動きは少し細かくなる。
髪のたまりやすいところ、油の残りやすいところを、見なくても分かっている手つきだった。
環は薄く息を吐いた。
右耳の後ろのことを忘れたわけではない。
けれど、髪の重みと削り粉のざらつきが一緒に洗い流されていくと、それだけで頭まわりが一段軽くなる。
普段なら大したこととも思わない工程が、今日は妙にありがたかった。
「ここ、少しこもってましたねえ」
紬が角の根元に沿って泡を行き渡らせながら言う。
「最近、結ぶ時に鬱陶しくて」
「そうでしょうねえ。髪も伸びてましたし、右も気になってたでしょうし」
何気ない調子で言われると、否定する気にもならない。
「……よく分かりますね」
「分かりますよお。自分の角でも、こういうのありますから」
くすぐったいような、少し安心するような返事だった。
泡を流す湯が二度、三度と髪を抜けていく。
最初は石鹸の匂いが立ち、次第にそれも薄れて、濡れた髪と温い湯だけの匂いになる。
右の後ろへ湯がかかった時、環はごくわずかに眉を寄せた。
やはりそのあたりだけ、熱っぽさが残っている。
紬の指が一瞬止まる。
「しみます?」
「……少し」
「擦れたところですかねえ」
紬はそれ以上強く触れず、湯の流し方を変えた。
直接こすらないよう、泡だけをそっと落とす。
そういう気遣いが、いちいち口に出されなくても分かるのがありがたかった。
洗い終えると、紬は厚手の布で髪を包んだ。
水気を押し取るように拭われ、角の根元や耳まわりも、乱暴にならないぎりぎりの強さできちんと乾かされる。
布が右耳の後ろへ触れた時、環はわずかに肩を強張らせた。
「まだ痛みます?」
「触ると少しだけ」
「そうですかあ」
その声はやわらかいままだったが、少しだけ仕事の顔になっていた。
鏡台の前へ戻ると、紬はまず櫛で濡れた髪をやさしくほぐし、それから布を替えて角の表面を拭った。
洗ったあとの角は、乾く前の骨のように少しだけ色が深く見える。
紬は水気を残さないよう溝のあいだまで丁寧に押さえ、削った右の内側も慎重に確かめた。
「当たり自体は、これでもう大丈夫そうですねえ」
「ええ。さっきよりずっとましです」
「ならよかったです」
紬は小瓶の蓋を開け、布へ少しだけ油を含ませた。
柑橘でも花でもない、乾いた木の実みたいな匂いがかすかに立つ。
角の表面へそれを薄くのばし、磨くように拭いていくと、灰褐色の筋に静かな艶が戻っていった。
磨かれるたび、灯りがやわらかく角の曲面を滑る。
環は鏡の中の自分を見た。
髪は軽くなり、角の線もきれいに整っている。
来た時よりずっと収まりがいい。
こうなると、右耳の後ろにだけ残った違和感が、かえって妙に目立つ気がした。
紬の手が、右の仕上げでふと止まる。
「……環さん」
その呼びかけに、環は鏡越しに目を上げた。
「なんですか」
「ちょっと失礼しますねえ」
紬は右の髪を耳の後ろからそっと払った。
洗って量が減り、濡れ気も取れたぶん、そのあたりの皮膚がさっきより見やすくなっている。
紬の目が細くなる。
「赤いの、まだ残ってますねえ」
環は反射的に右耳の後ろへ手をやりかけ、止めた。
「そんなにですか」
「ええ。擦れたところだけなら、ここまで熱は残らないんですけど」
紬の指先が、触れるか触れないかのきわで耳の付け根をたどる。
ごく軽く近づいただけなのに、そこだけが熱を持っているのが自分でも分かった。
「少し熱もありますねえ」
「……ただ擦れただけじゃないんですか」
「そうだといいんですけど」
紬は言いながら、もう一度、右の付け根をよく見た。
穏やかな顔のままなのに、視線だけが仕事のものになっている。
「小さく荒れてるところがあるみたいです。まだ大ごとじゃなさそうですけど、少し膿みかけてるかもしれませんねえ」
その言葉に、環は思わず眉をひそめた。
「……そんなに」
「角が当たってたところですしねえ。見た目ほど大したことではないと思いますけど、このまま触ったり擦れたりすると、長引きそうです」
紬は環の顔を鏡越しに見た。
「耳処の霞さん、まだ開いてる時間ですよお」
やっぱりそう来るか、と環は思った。
髪だけ切って、角だけ整えて、それで済めばよかったのに。
右耳の後ろは、何も言わずにおさまってくれなかったらしい。
紬は最後にもう一度だけ角の艶を布で整え、やさしく手を離した。
「当たるのはこれで減るはずです。だから、今のうちに荒れたところだけ見てもらった方がいいと思います」
環は鏡の中の、自分の右耳のあたりを見た。
正面からではよく分からない。
少し赤いのかもしれない、と思う程度だ。
けれど、触ると痛む。熱もある。
紬がわざわざ言うなら、ただの擦れだけではないのだろう。
小さく息をついて、環は頷いた。
「……分かりました」
それを聞いて、紬はいつもの調子に戻った声で言う。
「はい。じゃあ、あんまり触らないで行ってくださいねえ」
紬はそう言って、最後に肩へ落ちた細かな髪を払った。
鏡の中の自分は、来た時よりずっと整って見える。
毛先は軽くなり、角の線も落ち着いた。
右だけわずかに内へ寄っていた癖は、見た目にはほとんど変わらないのに、首を動かした時の嫌な近さだけが薄れている。
それなのに、耳の後ろだけが取り残されたみたいにじくじくしていた。
紬から肩掛けを受け取りながら、環は右のあたりへ手をやりそうになるのをこらえた。
触るなと言われたばかりだし、実際、触れれば余計に気になるのは分かっている。
「今日はありがとうございます」
「いえいえ。髪も角も、ちょうどいい頃でしたからねえ」
紬はいつもの調子で笑った。それから少しだけ声を落とす。
「霞さんのところ、まだ灯りついてる時間だと思います。もし閉めるところでも、環さんなら事情を言えば見てくれますよお」
「そんなに切羽詰まってる顔をしてますか」
「さっきよりはましですけどねえ」
紬の返しに、環は小さく息をついた。皮肉を言う気力もあまり出ない。
「行ってみます」
「はい。お大事に」
戸を開けると、また煤街の夕方の空気が戻ってきた。
店の中の石鹸と油の匂いを抜けた鼻には、外の湿った煤の匂いがやけにはっきり感じられる。
さっきまで湯で温められていた首筋へ、通りの空気がひやりと触れた。
切ったばかりの毛先が軽く、襟足がいつもより外気にさらされているのが分かる。
環は肩掛けを寄せながら歩き出した。




