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煤街と山羊角(1)

荷札の控えを帳面へ書きつけながら、環は小さく眉を寄せた。


まただ、と思う。


右耳の後ろが、じわりと気に障る。強い痛みではない。

けれど、数字を追って俯くたび、帳面を繰るたび、意識がそこへ引かれる。

薄い棘の先で皮膚のきわだけをちくちく引っかかれているような、執拗な不快さだった。


環はペン先を止め、帳場の奥に人影がないのを確かめてから、そっと右耳の付け根へ触れた。


少し熱を持っている気がした。押してみると、触れた指先へわずかに痛みが返る。


やっぱり、と胸の内でだけ呟く。


右角は前からほんの少しだけ内へ寄る癖があった。

見比べてようやく分かる程度の差で、これまでは鏡の前で髪を結う時に気づくくらいだったのに、ここ数日で急に耳の縁へ触るようになった。

角が少し伸びたせいなのか、髪の重みが増したせいなのか、それとも両方か。

どちらにせよ、朝から晩まで気にさせられるには十分だった。


環は指を離し、何事もなかったように背筋を伸ばした。


帳場は倉庫の脇へ張り出すように設けられていて、板戸の隙間からは荷の動く音が絶えず聞こえてくる。木箱を滑らせる鈍い音、縄を引く掛け声、台車の車輪が石を噛む短い振動。港に近いこの一帯では、風もいつも少し荒っぽい。

煤と湿り気と、麻袋の擦れた匂いが混ざった空気が、半端に開けた窓から入り込んでいた。


環はインク壺の縁で余分な雫を切り、もう一度ペンを走らせる。

積み荷の数、破損一箱、受け渡し時刻。書くこと自体は慣れたものだったが、今日は数字がひどく目に滑った。

耳の後ろが気になるたび、意識がそちらへ引かれる。


帳場の脇に吊るした曇りガラスへ、ふと横顔が映った。


後ろへ流れる二本の角は、灰褐色の筋をなめらかに走らせて肩の後ろへ抜けている。

根元はしっかり太いが、先へ行くほどすっと細くなる形だ。

左は素直に外へ流れているのに、右だけがほんのわずか内側へ寄って見える。

ほんのわずかだ。人に言っても気のせいだと返されそうなほどの差だったが、そのわずかな癖が、耳の縁に当たるには足りたらしい。


耳は人より少し細長く、先がわずかに下がっている。

角の根元に沿って生えた淡い毛のあたりへ、最近どうにも右の先が触るのだ。

襟足の一本だけがいつまでも首筋をくすぐっているような、あの腹立たしい感じに近い。

ただ、それより少しだけ悪い。今日は触ると痛みまである。


環はもう一度耳の後ろへ手をやりかけて、やめた。


触れば気になる。気になればまた触る。仕事中にやることではない。


代わりに、机の隅へ置いてあった小さな時計へ目をやる。

帰りに紬の店へ寄るなら、帳場を閉めてからでもまだ間に合うはずだった。

もともと今週のうちに髪を切るつもりではいたのだし、ちょうどいい。毛先も重い。

角の根元にかかる髪が増えると、それだけで鬱陶しさが増す。


右だけ少し当たるんです、と言えば、紬ならたぶんすぐ分かるだろう。


そう考えると、ほんの少しだけ気が楽になった。


環は帳面へ日付を書き入れ、最後の荷札の控えを綴じた。

仕事が片づいたからといって、右耳の後ろが急に静かになるわけではない。

それでも帰り道の当てがついただけ、朝から続いていた薄い苛立ちは少しだけ輪郭を失った。


夕刻、帳場を閉める頃には、外の光はもうずいぶん鈍くなっていた。


帳面を重ね、インク壺の蓋を閉め、鍵を掛ける。

いつも通りの手順をなぞりながらも、意識のどこかはずっと右耳の後ろに引っかかったままだった。

肩掛けを羽織る前に、環は曇ったガラスへもう一度だけ横顔を映した。

右角が左よりほんの少し内へ寄っていることも、耳の輪郭がそこへ近いことも、見れば分かる。

分かるくせに、どうにもならないのが腹立たしい。


髪をまとめ直そうとして腕を上げると、右のあたりがまたちくりとした。


「……鬱陶しい」


誰に聞かせるでもなく呟いて、環は手早く髪を結い直した。

角の根元を避けるように指を入れ、後ろで束ねる。

毎朝やっていることなのに、今日はその途中でさえ、右だけが妙に気になった。


外へ出ると、煤街の夕方の空気が肌へ触れた。


昼の熱を少し残した石畳の上を、湿った風が這っていく。

通りの向こうでは荷車の車輪が軋み、どこかの蒸気釜が低く唸っていた。

飯屋の裏口から漏れる湯気の匂いと、煤を含んだ乾いた匂いとが路地の角でゆるく混ざり合っている。

店じまいを急ぐ声や、港の方から遅れて届く怒鳴り声まで、この時間の街にはもう馴染んでいた。


環は肩掛けの襟を整えながら歩き出した。


紬の店は、表通りから一本入った並びにある。


派手な看板を出す店ではない。

古びた木の板に控えめな文字が入っているだけで、ぼんやり歩いていれば通り過ぎてしまう。

けれど戸口まわりはいつもきれいに掃かれていて、曇り硝子の内側にはあたたかな灯りが滲んでいた。

理髪と整角を兼ねる店だと知っていなければ、静かな細工場か何かに見えるかもしれない。


この時間なら、まだいるはずだ。


店先で一度だけ立ち止まり、環は肩掛けの皺を伸ばした。

身だしなみを整えたところで耳の際がましになるわけでもないのに、こういう時ほど、そういうことをしたくなる。

右耳の後ろへ指をやりたいのをこらえ、代わりにひとつ息を吐いた。


髪を切るついでに、角も見てもらう。

ただそれだけだ。


そう自分に言い聞かせて、戸に手を掛ける。


押し開けると、石鹸と油の匂いがした。


外の煤と湿り気が、敷居をまたいだだけで少し遠のく。

かわりに鼻先へ届くのは、温めた布のやわらかな湯気と、髪に馴染ませる油の青い匂い、それからごくかすかな研磨粉の乾いた気配だった。


鏡の前の棚には、櫛や刷毛、小さな鋏が寸分違わず並んでいる。

小瓶の蓋はよく磨かれて鈍く光り、角用の油を含ませる布は、形を崩さず籠へ重ねられていた。

店というより、頭まわりの具合を整えるための、静かな工房のように見える。


「いらっしゃいませえ」


奥から声がした。


柔らかく波打つ髪を後ろでまとめた女がこちらへ歩いてくる。

左右の巻角はきれいな弧を描いていて、溝の隅まで曇りがない。

先端は危なくないようになめらかに整えられ、灯りを受けるたび、磨かれた表面が静かに光った。


紬は環を見るなり、少しだけ目元をやわらげた。


「ああ、環さん。いらしてたんですねえ」


「ええ。遅い時間にすみません」


「大丈夫ですよお。今日はもう、お一人終わったところですから」


紬の声は相変わらず間延びしているのに、不思議とだらしなくは聞こえない。

ゆっくりしているだけで、仕事の流れそのものは滞らないことを、環は前から知っていた。


紬は環の肩掛けに軽く目をやってから、自然な調子で言った。


「今日は髪だけですかあ。それとも角も見ましょうか」


「……両方で」


言ってから、環は少し言葉を選んだ。


「髪も重いので切りたいんですけど、右が少し当たって」


右耳の後ろを示すと、紬は「ああ」と小さく頷いた。

驚いた様子はない。ただ、やはりそうでしたか、と言いたげに視線が環の右側へ滑る。


「最近ですかあ」


「ここ数日です。前から少し内向きだった気はするんですけど」


「そうでしょうねえ。じゃあ先に、全体を見せてください」


案内された椅子へ腰を下ろす。

背もたれは低く、後頭部のあたりだけ浅く逃げが作ってあった。

角を立派に扱うつもりの店でなければ、こうはならない。


紬は環の肩掛けを受け取ると、背後へ回った。

衣擦れの音がひどく小さい。

首元に布を回され、肩にケープが広がる。耳を巻き込まないよう、指先で端を軽く払う手つきまで慣れていた。


「少し触りますねえ」


言って、紬はまず髪を見た。

まとめていた紐を解き、灰がかった濃茶の髪を背へ落とす。

環は少しだけ顎を引いた。角の根元から髪がほどけていく感触は、いつも少し落ち着かない。


「毛先はだいぶ重くなってますねえ」


「今週には来るつもりだったんです」


「根元のあたりも、少したまりやすくなってます」


櫛の先が、角の根元に沿って髪を分ける。そこで紬の手が一度止まった。


「右、見ますねえ」


環が返事をする前に、紬は右角の下へ手を添えた。

持ち上げるというほどではない。

ただ、角の重みを少し逃がしながら、耳との位置を確かめるような触れ方だった。

無遠慮でないのに、迷いもない。


櫛の細い先が髪を分け、耳の縁に空気が触れる。


環は鏡の中で、わずかに眉を寄せた。


「……そこです」


「ええ、そうですねえ」


紬は横から覗き込み、角の内側を指先でなぞった。


「右だけ少し入ってます。ほんのちょっとですけど、ちょうど耳の縁へ来る位置ですねえ」


「やっぱりですか」


「角の形自体はきれいですよお。無理に大きく直すようなことじゃありません。ここを少し落とせば、だいぶ楽になると思います」


鏡越しに示されたのは、角の内側のごく短い一線だった。


環は目を細める。そんなものか、と思うほど短い。

だが、そういうわずかな違いが、日がな一日じわじわ神経を引っかくのだから腹立たしい。


「今日は、先に髪を切っていきますねえ」


「ええ」


「そのあと右だけ少し整えて、洗いましょうか。切った髪も削り粉も、まとめて落とした方が気持ちいいですし」


「お願いします」


紬は鏡の中で環と目を合わせ、ふっとやわらかく笑った。


「大丈夫ですよお。たいそうなことにはなってませんから」


そう言われると、環は少しだけ肩の力が抜けた気がした。

実際、たいそうなことではないのだろう。大げさに騒ぐほどでもない。

だが、そうと分かっていても、鬱陶しいものは鬱陶しい。


紬は棚から鋏を取り、軽く指の中で馴染ませた。金属が小さく鳴る。


「長さ、どうしますかあ。いつもより少し上げます?」


「角の根元にかからないくらいで」


「はい。毛先も軽くしましょうねえ」


櫛が髪をすくい、首筋から遠ざけるように持ち上がる。

ほどけた髪が肩を滑る感触に混じって、右耳の後ろがまた小さく疼いた。


環は鏡の中の自分を見た。


正面から見れば、自分の角はそれほど大げさなものではない。

後ろへ流れる、よくある形だ。

右が少し内に寄ることも、こうして言われなければ気にしない日がほとんどだった。

なのに今日は、そこばかりが気になる。


「では、切りますねえ」


紬が言う。


すぐ耳元で、鋏がちき、と鳴った。

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