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煤街と山羊角(4)

霞は小皿を下げ、使った器具をまとめながら言う。


「今日は耳かき、やめとく?」


その問いに、環は思ったよりすぐには答えられなかった。


やめて帰ることもできる。

もともと今日は、耳の後ろを見てもらうために来ただけだ。

髪も切った。角も整えた。

余計なことをせず帰っても、十分だったはずだ。


けれど、ここまで来てしまうと、逆に中途半端な気もした。


髪と角はもう整った。

耳の後ろの不具合も片づいた。

そうなると、耳の中だけがまだ手つかずで残っている気がする。

理屈ではない。

頭まわりが全部きれいに収まっていく流れの中で、そこだけ置いて帰るのが、妙に気持ち悪かった。


環は短く息をつく。


「……できますか」


「できるよ」


霞はあっさり言った。


「後ろは触らないようにするし、右も様子見ながらやる。嫌だったら途中でやめればいい」


その言い方が、環にはちょうどよかった。

無理に勧めるでもなく、遠慮しすぎるでもない。

できることと、やらない方がいいことの線が最初から引かれている。


「じゃあ、お願いします」


「うん」


霞は施術台の上の敷布を直し、今度は環の頭を横向きに預けやすいよう、小さな枕代わりの畳み布を差し込んだ。

右耳の後ろを圧迫しないよう、ほんの少しだけ位置をずらす。

その調整がいかにも自然で、環は何も言わずに済んだ。


「左からやるね」


「はい」


左を上にするよう促され、環は身体を傾けた。

右の後ろへ処置したばかりの場所があるせいか、いつもより角の位置や頭の重みを意識する。

けれど霞が布を足して角の下を受け、首の角度を少し直すと、それもすぐにおさまった。


「苦しくない?」


「大丈夫です」


「じゃあそのままで」


灯りがまた少し寄せられる。

今度はさっきの処置の時ほど張り詰めた明るさではなく、耳の中を覗くための柔らかな近さだった。


霞の指先が、左耳の外側を軽く拭う。

洗いたての髪が頬の横で乾いた音を立て、切ったばかりの毛先が首筋にふれる。


「今日は髪、軽くなってるね」


霞が言う。


「紬のとこで切ってもらったので」


「見れば分かる。首まわり、だいぶすっきりした」


細い耳かきが、小瓶の縁にことりと当たる音がした。


環は目を伏せた。


そういえば、髪を切り、角を整え、耳の後ろまで片づけてもらって、ようやくここまで来たのだと思う。帰りにふらりと寄っただけのつもりが、頭まわりを一つずつ順に整え直してもらっている。

大げさなことは何もしていないのに、ずいぶん長く手をかけてもらっている気がした。


「左は普通にやるよ」


「……右は」


「あとで見る。たぶん大丈夫だけど、さっき薬塗ったから、少しだけ控えめにする」


霞は耳かきの先を耳の入り口へ軽くあて、そこで一度止めた。


「入れるよ」


「はい」


先端が浅く入る。


さっきの処置のような鋭さはない。

ただ、ごく薄い異物感と、それに続く、掻き出される時だけの乾いた気配。

耳の中の皮膚が、やっと別のことに意識を持っていかれる。環は目を閉じた。


かり、という小さな音がした。


ひどく近い。

けれど不快ではない。

むしろ、それまで頭の後ろに残っていた余計な緊張が、その音へ少しずつほどけていく。


「左はそんなにひどくないね」


霞が言う。


「普段からそこまで溜める方じゃないし」


「自分じゃ分からないので」


「分からなくていいよ。溜まりすぎてから困らなければ」


耳かきの先が、また浅く動く。


かり、こそ、というごく細い音。

綿を使う時の、ふ、とやわらかな擦れ。

霞の作業はいつもそうだが、やりすぎる感じがない。

いるものだけを拾って、いらないところまでは触らない。

その加減が、今日の環にはありがたかった。


右耳の後ろのことが、ようやく少しずつ遠のく。


「紬、なんて言ってた」


霞が不意に訊く。


「右だけ少し入ってるって。ほんの少し削れば当たらなくなるって」


「うん。見た感じそうだった」


「……もっと早く行けばよかったです」


 ぽつりと出た言葉に、霞の手が一瞬だけ止まる。


「そう思えるなら、次はその方がいいね」


責めるでもなく、慰めるでもない返しだった。


環は小さく息をつく。


「別に、そこまでひどくはなかったので」


「うん」


「でも、仕事中ずっと鬱陶しくて」


「それが一番面倒なんだよね」


霞はそれだけ言って、また耳かきを進めた。


かり、と耳の奥より少し手前をさらう。

ひとつ、ふたつ、小さなものが取れていく気配がある。

たったそれだけで、頭の中の細かな引っかかりまで一緒に掃けていくような気がした。


環は力の抜けたまま、目を閉じていた。


さっきまでの今日は、妙に身体のどこかがずっと気に障っていた。

右耳の後ろが痛む。角が当たる。髪が重い。

どれも大したことではないくせに、積み重なるとじわじわ機嫌を悪くする種類の不具合だ。


それが今は、ひとつずつ順番に片づいている。


髪は軽くなった。

角はもう当たりにくい。

耳の後ろの張りも抜けた。

残っていた耳の中も、霞の手で静かに整えられていく。


そう思った途端、身体の芯に残っていた力がふっと落ちた。


「力、抜けたね」


霞の声が近くで言う。


環は目を閉じたまま、少しだけ口元をゆるめた。


「……そうかもしれません」


「よかった」


左耳の入口を最後にやわらかく拭われる。

綿が触れる感触はほとんどなく、ただ、そこがきれいになったのだと分かるだけの軽さだった。


「左終わり。次、右いくけど、後ろは触らないようにするから」


環は小さく頷いた。


薬を塗られた右耳の後ろにはまだ薄い存在感がある。

けれどもう、最初のようにそこだけが頭の中で騒いではいない。


霞が耳かきの持ち方を少し変える気配がした。


「右、少しだけ顔こっち向けて」


言われるまま、環はほんのわずか顎を引いた。

右耳の後ろを圧迫しない位置を探るように、霞の指先が畳み布を少し押し込み、角の下へもう半分ほど布を足す。

たったそれだけで、首の座りが変わった。


「これなら後ろに当たらないね」


「……はい」


「違和感あったらすぐ言って」


霞の左手が右耳の前を軽く支える。

耳殻を引きすぎず、けれど中が見えるだけの角度へ持っていく。

さっき処置を受けたばかりの後ろ側には触れないまま、必要な向きだけをきれいに作っていた。


環は目を閉じる。


右耳の後ろに薬の薄い膜がある。

首筋を動かせばそこにまだ意識は行く。

だが、もう痛みの芯はない。浅いひりつきと、触られない限りは忘れていられる程度の熱だけだ。


「入れるよ」


「はい」


右耳の入り口へ、耳かきの先がそっと触れた。


左の時よりもさらに浅い。

様子を見るような、ごく控えめな入り方だった。

霞はいつも慎重だが、今日はその慎重さにもうひと段やわらかい加減が混ざっている。


こり、とごく小さな音がした。


環はかすかに息を止めて、それが後ろの傷ではなく耳の中の乾いた音だと分かってから、静かに吐いた。霞の手はぶれない。

必要以上に奥へ入れず、手前の壁を撫でるようにして、軽く引いてくる。


「こっちもそんなにないね」


霞が言う。


「でも入口側、少し乾いてる」


「乾いてる?」


「うん。今日は湯もかかってるし、触られてもいるから」


言いながら、霞は耳かきの先をほんの少し寝かせた。

掻き取るというより、薄いものをそっと浮かせるみたいな動きだった。


かり、と耳の中のすぐ近くで鳴る。


左よりもさらに小さい音なのに、右ではその方がよかった。

大きく掻かれないことに、身体が勝手に安心していく。

後ろの処置を受けたばかりの耳には、そのくらいの静けさがちょうどいい。


霞の指先が耳の前を支えたまま、少しだけ角度を変える。


「ここ、くすぐったいかも」


直後、耳の中の柔らかいところを綿でふわりと撫でられた。


環はわずかに肩をすくめる。


「……少し」


「ごめん。でもこれで終わる」


ふ、ふ、と綿がやさしく触れる。

掻き出すというより、残った細かな粉や乾きをさらうような動きだ。

右の後ろへ負担をかけないようにしながら、それでも耳の中はきちんと整えていく。

そういう仕事の細かさが、今日はことさらにありがたかった。


環は浅く息をつく。


自分でも分かるくらい、頭まわりが静かになっていた。

朝からどこかに引っかかっていた感覚が、一つずつほどけていく。

髪を切った。角を整えた。耳の後ろの膿も出した。

最後に耳の中まできれいにされると、今日の鬱陶しさがようやく身体から抜けていく気がした。


「紬のとこ、混んでた?」


霞が聞く。


「いえ。ちょうど終わったところだって」


「ふうん。運がよかったね」


「……そうですね」


耳かきの先が、またごく浅く動く。


かさ、と今度は少し軽い音がした。

取れたものがほんの小さいのだろう。霞は無理に探らない。

取れるものだけを拾って、余計なところには触れない。

その遠慮のなさと、踏み込みすぎない加減とが、環にはちょうどいい。


「今日は紬に助けられた感じ?」


不意にそう言われて、環は目を閉じたまま少しだけ口元を動かした。


「……否定はしません」


「ふふ」


霞が小さく笑う気配がした。


「見つけてもらえてよかったじゃない」


「髪と角だけで帰ってたら、たぶんそのまま放ってました」


「だろうね」


即答だった。


環は少しむっとして目を開けかけ、やめる。

霞の手が耳の入口へ近づくのが見えたからだ。見なくても分かる。今はその方がいい。


「でも、来たでしょ」


霞の声はあっさりしている。


「来たなら十分」


その言葉に、環は返事をしなかった。


返せなかったという方が近い。

来たから十分。

たしかに、それで片づくこともあるのだろう。

もっと早く来ればよかったとか、放っておかなければとか、そういうことを長く考えるよりは、その方がましだ。


耳の入口を綿でそっと拭われる。


右は左より短かった。

けれど、短いから雑ということもない。

むしろ、今日の右にはこのくらいでちょうどいいと思える終わり方だった。


「はい、右も終わり」


霞が手を離す。


耳の中へ入っていた意識がふっと外へ戻ってきて、環はゆっくり瞬きをした。

頭を動かさないまま、右の後ろと耳の中とを順に確かめる。

後ろは薄く薬の感触があり、中は乾いた引っかかりがなくなっていた。

首筋から耳の周りまで、ようやく全部が同じ静けさの中へ収まった気がする。


「起きられる?」


「はい」


霞の手を借りるほどでもなく、環はそっと身体を起こした。

切ったばかりの髪が肩をすべり、角の後ろで軽く揺れる。

首を立てても、右の先が耳へ寄ってくる嫌な感じはもうなかった。


それを確かめた瞬間、思っていたより深く息が抜ける。


「……ああ」


自分でも、間の抜けた声だと思った。


霞は器具を片づけながら横目で見る。


「楽になった?」


「なりました」


今度は素直に言えた。


右耳の後ろを触って確かめたい気持ちはまだ少しある。

けれどそれをしなくても分かるくらい、張りが抜けている。

頭の後ろにひっそり居座っていた鬱陶しさの芯だけが、ようやくきれいに取り除かれたみたいだった。


霞は小瓶の蓋を閉め、布を畳む。


「今日はそのまま帰って、あんまりいじらないで寝るのが一番」


「分かりました」


「髪結ぶ時だけ少し気をつけて。あと、右を下にして寝ない方がいい」


「……そこまで言われると、逆にやりそうです」


「やらないで」


即座に返ってきて、環は少しだけ笑った。


本当に少しだけだったけれど、今日初めてまともに力の抜けた顔をした気がした。


霞はそれを見て、特に何も言わなかった。

ただ、湯気の残る店の静けさの中で、使い終えた道具をいつもの位置へ戻していく。

その小さな音を聞いているうちに、環はようやく、自分がずいぶん長いこと身体のどこかを気にしていたのだと分かった。


髪が重い。角が当たる。耳の後ろが痛む。

それが今は、全部片づいている。


環は施術台の端に置いていた肩掛けを手に取った。

首筋へ触れる布が、切りそろえた髪の上を軽く滑る。

右耳の後ろにはまだ薬がある。

けれど、その存在さえもう「気をつけるべきもの」であって、「ずっと気に障るもの」ではなかった。


「ありがとうございました」


環が言うと、霞は短く頷いた。


「おだいじに」


いつも通りの、淡々とした言い方だった。


外へ出ると、煤街の夜気は少し冷えていた。


店の中のぬるい空気に慣れた首筋を、湿り気のある風がすっと撫でていく。

切ったばかりの髪が軽い。肩掛けを寄せても、右の先が耳へ触れる気配はもうなかった。


環は通りへ出て、二、三歩歩いてから、ほんの少しだけ首を傾けた。


朝から何度も気にしていた角度だ。

あの嫌な近さはない。

耳の後ろにはまだ薬の感触が残っているし、触れば少しは痛むのだろう。

けれど、それはもう鬱陶しさではなく、ただの手当てのあとだった。


通りの向こうで荷車の音がして、どこかの店じまいの戸が鳴る。

煤街の夜は相変わらず騒がしいのに、頭のまわりだけが妙に静かだった。


環は肩掛けの端を整え、少しだけ口元をゆるめる。


こんなことで一日ぶん機嫌を悪くしていたのかと思うと、我ながら馬鹿らしい。

馬鹿らしいが、片づいたならそれでいい。


もう一度だけ、何もないみたいに首を動かしてみてから、環はそのまま家路についた。

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