第三話
そこからの一ヶ月は怒濤であった。
元々コネ入社だと散々言われてきた澪が、自分の義父であるスワログループ現会長からの直接の命令で、再度日本本社に戻るよう言われたことを理由にアメリカ支社を辞めるという事実は、瞬く間に会社中に広がった。
それを罵る者、羨む者など、澪に対しての反応は多種多様なものであった。そんな中でも、澪がいなくなることを悲しむ存在がいた。
『澪!』
『レイナ!』
最後の出勤を終えた後、泣きながら飛びついてきたのは、アメリカ人の大学生である、レイナであった。インターンで澪の会社に何度も訪れている内に、仲が深まっていったのである。
『本当に日本に帰るの?』
『うん…急な話でごめんね。』
『言っちゃいけないんだろうけど…やっぱり寂しいよ。』
レイナは静かに澪の背中に回している手に力を込めた。
発せられる声は掠れている。
『…また会える?』
『当たり前でしょ。連絡先知ってるじゃない。』
『毎日連絡してもいい?』
『うーん…イケメン報告じゃなければ。』
『ひどい!』
澪の冗談によって、レイナの表情は明るくなった。
『そうだよね、会えるもんね。私も日本に行くから。』
『ありがとう。待ってるね。』
『そうだ、飛行機の時間教えて!空港まで見送りに行く。』
せめてもの願いとでも言うように、レイナは澪の手を強く握りしめた。
『レイナ。なんで私が今日日本に戻るって教えたと思う?』
『…会社に来るの、今日が最後だから?』
レイナの答えに、澪は静かに首を振った。
『私の飛行機、明後日の夕方出発なの。』
『明後日…』
レイナの目に再び涙が溜まり始めた。
『ゼミで、大切な発表があるんでしょう?』
『なんで明後日なのよぉ…』
泣かないで。澪はレイナをしっかりと抱きしめた。
『すぐ会えるよ。私も、会いに来るし、ね?』
自分が泣いてはいけないと思ったのか、レイナは自身の目を強く擦り、澪の肩を掴んだ。
『来月、行くから!』
『急すぎるよ、無理しないで。』
『来月が無理でも、再来月!絶対すぐに会いに行く!』
澪はレイナの優しさに視界が潤んだが、必死に堪えた。
『澪の駄目な所は、前から言ってるけど人に頼らない所だよ。何かあったら私に言って。何でも良いから、お願い…』
『お願いするのは私の方だよ。相談するから、ちゃんと乗ってね?』
レイナは泣いているのか笑っているのか分からないような表情で返事をした。
その後澪が帰ってくるまでの間に、雪也は部屋の片付けの最終段階に入っていた。
「…澪の部屋も掃除機はかけておくか。」
コンセントをリビングから澪の部屋につけ直そうとしゃがんだ時、雪也の視界に一枚の写真が入った。
同時に、一ヶ月前の澪の言葉がフラッシュバックした。
雪!これ見て!写真、が……
「この写真のことだったのか…」
そこに写っていたのは、澪が五歳の頃に他界した澪の両親に挟まれて笑っている澪の写真だった。
澪の右手に握られている左手の先には、まだ少年の頃の雪也の姿も写っている。
昔から一番大切な写真だと豪語していた澪は、いつも自分が持ち歩く鞄に丁寧にこの写真を入れていた。
そのため、アメリカに越してきて使う鞄も変わったせいで失くしたと思っていたのであろう。雪也は静かに微笑みながら、写真の中で笑う幼い澪を撫でた。
「雪、どうかしたの?」
突然撫でていた本人の声が後ろから聞こえてきた為、雪也は素っ頓狂な声を上げた。
「お、かえ、り。」
「ただいまって言っても返事が無いんだもん、何かあったのかと思ったよ。」
澪は雪也の手元を見て、この写真と叫んだ。
「これだよ、前に雪也に見せようと思ってたの!机の上に置いておいたのが落ちちゃったんだ。」
「これ、澪がいつも大切そうに持ち歩いてた写真だよな。」
「覚えてたんだ。この頃の雪也、可愛かったなぁ。」
「今もの間違いじゃなくて?」
「何言ってんの。今はもう意地悪になった。」
一枚の写真を挟みながら、二人は静かな部屋で笑い合った。
その周りには、無造作に積まれた段ボールの山ができあがっていた。
「…明後日かぁ…」
「怖い?」
部屋を見渡す澪に、雪也は心配そうな眼差しを向けた。
「…ううん、大丈夫。なんとかなるよ。」
「楽観的すぎ。」
「ポジティブって言って。」
たしかに。澪は続けた。
「今あの家に行くのはちょっとだけ不安はあるけど、悪い方向にはいかない気がするの。なんとなく、勘だけど。」
「澪の勘を信じるのはちょっとなぁ。」
「本当ひどいよ雪。いくら大変なことになっても私、我慢強さとか、耐久力とかは誰にも負けない自信があるから!」
「そうだな。最早野生の域。」
澪は無言で雪也の頭を叩いた。
しかし、澪はどこかでこの日々は終わるのではないかと考えていた。
それが現実にならないことを何度も祈りながら、アメリカを発つその時までをいつも通りに過ごした。




