第二話
「とりあえず、こちらにお掛けになって下さい。」
黒い髪、黒い目、黒い服に黒い靴。雪也は、やけに神妙な面持ちで、まるで作られた人形のような風貌の男をリビングテーブルまで案内した。
雪也からの目線を受け、澪は咄嗟に写真をポケットの中に押し込み、男の正面かつ雪也の隣の椅子に腰掛けた。
「詳しい説明を求めたいのですが。」
雪也の厳しい声色にも動じず、男は淡々と説明を始めた。
「先程の言葉の通りです。旦那様に、澪さんに家に戻ってくるよう伝えろと命ぜられましたため、こうして参じた訳です。」
「その理由を尋ねているのですが。」
「私には分かりかねます。旦那様のご意向です。」
雪也は納得がいかず、まだ問い続けようとしたが、男が無言で立ち上がったことによって、それは遮られた。
「私は命令通りにここに来ただけですので、これで失礼致します。こちらが、来月の飛行機の航空券でございます。雪也殿も共に帰ってくるようにという指示でしたので。それでは。」
二人に有無も言わせないまま、男はその場を去って行った。
理解ができない。頭を抱える自分の隣で、頭が真っ白になっているような顔をして動かない澪を見て、雪也ははっと我に返った。
「…寒いでしょう、澪。まずはお鍋を食べよう、な?」
澪には雪也の声が届いていなかった。
何故今自分を家に戻そうとするのか。進んでアメリカに送ったのに。自分が戻る必要性は無いのに。やっと生活も落ち着いてきたのに。一番の目標も達成できて、これからという時に、何故。
いくら考えても、分からなかった。目の前に置かれた温かい夕飯が視界に入った時、どこからか涙が溢れ出ていた。
「澪!?」
突然目の前で泣き出した澪を前に、雪也は驚いて澪の顔を両手で包み込むことしかできなかった。
「雪……あの人言ってたこと、本当…?」
澪の問いに、雪也は自身の顔を悲痛で歪ませた。
「本当、だよね、ここにちゃんとチケット残ってるもん。」
澪は机の端に置かれた、来月の飛行機の航空券を手に取った。
日本に帰らなければならない。澪の中でその事実に現実味が増した時、数倍の数の涙が零れだした。
「やっと、一昨年やっとできたんだよ?やっと…また一緒に生活できるんだと思って、いつでも、会いに行けるって…」
「澪…」
「雪とのアメリカ生活も、慣れてきて、仕事だって…今更私があそこに帰ったところで、何を…」
もう言葉も紡げない程嗚咽をあげながら泣きじゃくる澪を、雪也はそっと抱きしめた。慰めの言葉を必死に探しながら。
「大丈夫、俺がいるから。どこに行っても、澪の側にいる。日本に帰ったって、毎年会いに行こう。俺が、絶対に守るから…」
何分、何十分経ったか、どちらにも分からなかった。机の上に置かれた夕食は冷め切り、澪の体力と精神力は底をついていた。
「今日は寝よう、澪。明日は休むって俺が会社に伝えておくから。」
雪也に連れられながら、澪は自室のベッドに横たわった。
「…雪。会社には私が自分で連絡するから、いいよ。」
「でも…」
「平気。心配しないで、大丈夫。もう落ち着いたよ。」
無理矢理笑おうとする澪に、雪也も偽りの笑みを返した。
電気を消し、澪が寝たことを確認してから、雪也は立ち上がり、部屋の扉を静かに閉めた。
次の日、澪は朝5時に家を出て、肌寒い風が舞っている中、住宅街とは離れた広場に向かって、一人歩いていた。
着いた場所は墓地。澪は一つの十字架の前で立ち止まった。
「…この間ぶりだね。お父さん、お母さん。」
両親が静かに眠る墓の前に座り、澪は口を開いた。
「本当は、また来年来るつもりだったの。大学に入ったっていう報告をするつもりだった。実は、仕事の合間に沢山勉強してね?飛び級で入れる大学を受験しようと思ってたの。年齢はもう20になっちゃうけど、大学生になりましたって胸張って威張りに来たかった。でも…ごめんね。私、大学入れなくなった。」
そうはならないようにと決めていたのにも関わらず、勝手に出てくる涙を澪は抑えられなかった。
「一人で稼いで、一人で大学入ってってすれば、お父さんもお母さんも安心させられると思ったのに…ごめんね…」
彼女を慰める優しい風は、吹かなかった。それでも、澪は立ち向かうかのように目を擦った。
「…でも、頑張るから。頑張って生きるから。やっと昔みたいに一緒の場所で暮らせると思ったのに、また離ればなれになっちゃうのはすごく寂しいけど…毎年、会いに来るからね。私のこと、忘れたら駄目だよ。」
よし、と声を出して、澪は勢いよく立ち上がった。横からは、たった今昇ってきたらしい太陽が、これでもかという程明るく照っている。
「…応援してくれてるの?」
澪は再び両親を見た。まるで自分の背中を押してくれているように感じたのだ。
「ありがとう。期待しててね、毎年毎年成長してくるから。」
行ってきます。澪は最後にそう述べ、両親に背を向けて歩き出した。
墓地を出ると、広場の入り口付近には雪也が待っていた。
「…ここだと思ったよ。」
「ごめん、心配かけた?」
「当たり前だろ。」
雪也は軽く澪の額を叩いたが、すぐに優しい手つきで頭を撫でた。
「…本当に、いいのか?」
「…うん。来年来るねって伝えてきた所。」
それにね。澪は言葉を続けた。
「お父さんとお母さんが背中押してくれたから、やるだけやってやろうと思ってるの。アメリカに初めて来た時は、雪もまだいなくて、本当に一人ぼっちだったけど、ここまでこれた。私の負けず嫌いがうまく作用したおかげでね。だから…今度も同じ。」
澪は自分の頬を二回思い切り叩いた。
「私は、挫けないよ。雪もいるしね!」
太陽にも負けない程綺麗な笑顔をした澪に、雪也も笑みを返した。
「…そうだな、澪は昔から負けず嫌いだもんな。」
「なんか…雪に言われると馬鹿にされてる気がする。」
先程自分で叩いて赤くなった頬を、澪は小さく膨らませた。その姿を見て、雪也は声を出して笑ったが、すぐに真面目な表情へ戻した。
「俺は澪の行くところに行くよ。澪が決めたんだったら、日本の家に帰ろう。あそこはちゃんと、澪の家なんだから。」
「ありがとう。…ごめんね、昔から雪には迷惑かけてばっかりだ。」
「かけて欲しくなかったら、今頃もう澪の側にはいないよ。さ、朝ご飯はできてるから帰ろう。あと一ヶ月しかないんだから、アメリカ生活もラストスパートかけて楽しまないとな。」
「うん!仕事も思いっきり頑張らないと!」
雪也にマフラーを巻かれ、澪は小走りで雪也と共に家に向かった。




