第一話
『企画部からの資料です。今日中のチェックが必要だそうです。』
『ありがとう。悪いけど、コーヒーを一杯もらえる?』
『かしこまりました。』
上司の指示通りに動き、可能な限り多くの仕事をこなす。
彼女、恵藤澪は、英語が飛び交う職場で働き出して、早4年が経とうとしていた。
中卒の澪が働ける場所は義理の親の会社であるスワログループしかなく、当初は日本で働いていたが、およそ4年前の16歳の時、義理の両親の判断でアメリカの支社に異動になって以来、アメリカでの暮らしを続けている。
『コーヒーです。』
『ありがとう。今日も遅くまでお疲れさま、今日の仕事は終わりよ。』
『はい。ではお先に、失礼します。』
時計に視線を移すと、もう19時を回っていた。
「今日の夕飯どうしようかな…」
職場を出てすぐ、澪は英語を話すことを止める。
すると、日本語の独り言に、日本語で返答が来た。
「今日は冷えていますし、お鍋にでもしましょうか。」
「雪!迎えに来てくれたの?」
澪の目の前に立っていたのは、昔から澪の面倒を見てくれている、5歳年上の松島雪也だった。
「寒かったでしょ。なんで手袋してないの?」
「先程ここに着いたばかりですし、車を運転してきましたから。」
優しく話す雪也に対し、澪は不服そうな表情を浮かべた。
「敬語やめてって何年も前から言ってるじゃない。」
「あぁ…そうでしたね、申し訳ありません。」
「〈申し訳ありません〉?」
「あぁ、えっと……ごめん、やっぱり敬語の方が慣れてるから、なかなか難しくて。」
困ったような笑みを浮かべる雪也の手に、澪は自分のマフラーを巻き付けた。
「徐々にでいいよ。車までこれ手に巻いてて。私がつけてたからあったかいでしょ。」
「うん…ありがとうね。」
職場近くの駐車場に停められていた雪也の車に乗り込み、すぐさま暖房をつけた。
「あったかぁい…2月は寒いねぇ…」
「そうだね。じゃあ、今日の夕飯はお鍋で決定ってことでいい?」
「うーん…何鍋?」
「白菜と豚肉のミルフィーユ鍋なんてどうでしょう?」
「最高!」
澪の笑顔を確かめると、雪也は自宅マンションに向かって走り出した。
「あれ、雪、買い物しないの?」
「うん。もうお鍋はできてるからね。」
どういうことかと言わんばかりの顔をしている澪を見て、雪は思わず吹き出した。
「今日は俺が鍋食べたい気分だったから、澪の好きな鍋作っといたの。それで澪に勧めたら、きっと澪も鍋でいいって言ってくれると思って。」
澪は、驚きを通り越して溜め息をついた。
「何それ……なんか私操られてるみたいじゃない。」
「そんなことないよ。俺が澪のことを澪より知ってるってだけじゃない?」
「屁理屈!」
「じゃあ鍋はいらない?」
いたずらをしている小さな子どものような顔で問いかける雪也に対し、澪は何も言い返せなかった。
「ずるい。」
「何が?」
「そういうところ!」
声を上げて笑う雪也の肩を数回叩く事で反論の代わりにしたが、雪也の余裕じみた表情を崩すことはできなかった。
悔しがる澪を横目に見ながら運転を続けていると、気づかない内にマンションの駐車場に着いていた。
急いで車から降りたらエレベーターに乗り、7階のボタンを押す。
寒いね、と互いに笑いながら、小走りで自宅の入り口に向かう。
「着いた!」
澪は家に入って早々、キッチンへと足を運んだ。
「ん~良い匂い!」
「着替えておいで、その間に温めておくから。」
「ありがとう、急いで着替える!」
自室に入り、クローゼットを開ける。
空気に肌が触れる時間を短縮するために、急いで部屋着を出そうとすると、1枚の写真が出てきた。
「あ、なくしたと思ってた写真!」
一旦写真を机の上に置き、早急に着替えを済ませ、壊れ物を扱うように再び写真を手に持った。
澪は軽く微笑んで、それを持って雪也の元へとかけていった。
「雪!これ見て!写真、が……」
澪の視線の先には、澪よりも驚いた顔をした雪也と、無表情の男が1人、立っていた。
「旦那様が、〈戻れ〉と。」
彼が自発的に出した言葉は、それだけであった。




