第九話
転ぶ。瞬時にそう思った澪は、目を瞑り、なるべく小さな怪我で済むようにと手を地面に平行に向けた。
しかし、澪は一切の痛みを感じなかった。
痛くない。しかし、そう思った時すでに遅し。澪は尻餅をついていた。
「やっぱり痛い!」
「やっぱりって何だ。」
頭上から男の声がした。驚き、恐る恐る顔を上げてみると、見覚えのある顔があった。
「あ、あなたっ…」
「黎人―、どうしたー?」
澪が口に出そうとした名前を呼んだ男が、こちらに近づいてきていることが分かった。
「…別に。」
樫黎人は、尻餅をついた澪に目もくれずにすたすたと室内に入っていった。
それを不服そうに見ていた澪の目の前には、見知らぬ手が差し出されていた。
「何してるの、大丈夫?」
澪は必死に被験者―――澪が勝手にそう名付けた―――の写真を思い出していた。
そしてはっとした顔で、口を開いた。
「樫謙也さん!」
「え、はい、何でしょう。」
突然自分の名前を叫ばれたことに驚いたのか、謙也は目を丸くしている。
しかし、すぐに小さく声を出して笑った。
「変な子だね。」
背は高く細身で、弟とは違う真っ黒な髪に、薄い顔立ち。
その整った顔をくしゃりと歪ませ、心地よい声で笑う彼は、澪の手を取り、勢いよく立ち上がらせた。
「うわっ」
その勢いに押し巻けて前に倒れ込みそうになると、咄嗟に謙也に抱き留められた。
「大丈夫?」
突然の出来事に驚いたが、澪は平常心を取り戻してから、静かに謙也の腕から離れた。
「すみません、着いて早々騒がしいですよね…」
「いや?面白くていいと思うけどね、恵藤澪さん。」
「へ?」
何故自分の名前を知っているのか。その問いは声にしなくとも、謙也に伝わった。
「俺、親に勧められて弟と一緒に今日スワログループの別荘に来たんだけどさ。ここを管理してる女の子がいるって聞いて、名前だけは知ってたんだ。どんな子か気になって。」
あぁ、これで世の女性を虜にする訳か。澪は前もって把握していた謙也の情報と、今の自分の現状を照らし合わせ、非常に偏った、偏見という偏見を抱いていた。
「そうだったんですね。謙也さんってお呼びしても?」
なるべく押し負けないように、澪は余裕のあるふりをしてみたが、謙也はふりなどせずとも余裕綽々であった。
「うん。俺は…澪さんって呼ぶね。」
狡い笑顔。澪は心の声に負けじと、謙也に短く挨拶をした。
「期間は分かりませんが、よろしくお願いします。じゃあ、私はちょっと外に出てくるので、これで。お部屋は二階なんですけど、大丈夫そうですか?」
「自分の部屋の場所は教えてもらったから大丈夫だよ、ありがとう。外に何か用事でもあるの?」
「あぁ…」
まさか管理人だと思っている人物が、絶賛別荘の内装と外装を把握中だとは思わないだろう。
澪は必死に不自然でない言い訳を考えた。
「今日の夕飯の材料を買いに行こうと思いまして!冷蔵庫に入ってるものじゃ足りなくて…」
「じゃあ、俺も手伝おうか?荷物が多くなったら大変でしょ?」
あたかも手伝うことが当たり前かのように手荷物を置こうとした謙也を、澪は焦って制止した。
「いえ、車があるので!私運転免許持ってますし、何より謙也さんここに着いたばかりじゃないですか。のんびりしてらして下さい。」
「え、でも…」
「平気ですから!じゃあ、一旦失礼しますね!」
驚いた顔をしている謙也を放って、澪はその場から逃げるように玄関の扉を閉めた。
「なんか…慌ただしい子だな。」
澪は、扉の向こうで謙也がふわりと笑ったことに気づかないまま、両手でドアに寄りかかり、溜め息をついた。




