第九話
勇は普段よりも半時間早く目覚めた。
意識に最初に浮上したのは、キツネの不在に起因する寂寥感。
昨日からずっとキツネに意識を奪われがちだった。買ったものの与えずに終わった豚肩ロース肉のパックを見て、切ない気持ちになった。庭に出した寝床やトイレなどを片づけるさいには、手を止めて物思いに耽ってしまった。夜ベッドに入ったあとで、キツネがこっそり柳内家まで帰ってくるのではないかと考えたこともある。
大きな意味での未練はない。ただ、どうしても考えてしまう。キツネにまつわるさまざまな想像をしてしまう。もちろん、キツネを山に帰したことを小毬に伝える難事も含めて。
でも。
「小毬さんとのデート、楽しまないと」
声に出して自分に言い聞かせる。それが功を奏したのか、出発の時間が近づけば近づくほど、意識は出井小毬へとかたむいていく。
勇が今回待ち合わせ場所に選んだのは、駅前にある喫茶店『ジキルとハイド』。彼も小毬も何度か利用したことがある店だ。
平日の午前ということもあり、昭和レトロ感が漂う内装の店内に客はまばらだ。勇は空いているときは必ず選ぶ窓際のボックス席に座り、メニューの一番上に載っているという理由でいつも注文しているアメリカンをすする。
小毬が到着したのは、勇が入店して約半時間後のこと。
外出時はいつもの純白のワンピース。夏場は必ず着用している、鍔の広い白い帽子をかぶっていないのは、まだ日射しはきつくないという判断だろうか。一見の客のように物珍しそうに周囲を見回している。
空席が多い今の時間帯、勇は必ず窓際の席を選ぶ。窓際の席に注目すれば簡単に恋人を発見できるのに、小毬の双眸は店内をうろうろしている。
腰を浮かして呼びかけようとしたとき、彼女はとうとう勇を発見した。顔に明るい笑みがぱっと灯った。子どものように元気よく、どこか慌ただしくテーブルへと駆け寄り、向かいの椅子にぴょこんと座る。
「小毬さん、おはようございます。今日も白いワンピース、すごく似合ってます」
「そうかな? ありがとう」
小毬は上機嫌になればなるほど子どもっぽい表情を見せることが多いが、今日はいつもにも増してあどけない印象が強い。
「朝食、食べていないならいっしょにどうですか。僕はもうコーヒーを飲みましたよ」
「ごはん? 食べる、食べる。勇くんのおすすめはある?」
「おすすめですか。うーん、そうだな」
勇は軽い戸惑いを覚えた。小毬はなにかを選ぶとき、他人に意見を求めることがあまりないのに。
「チョコレートパフェはどうですか。たった今思い出しましたが、最近電話で話しているときにパフェが食べたいと言っていた記憶があります」
「あっ、そう? じゃあ、それでお願い。勇くんもパフェ?」
「それもいいですけど、朝食として食べるならやっぱりパンかな。コーヒーは飲んじゃったので、ドリンクなしのセットにします」
やがて運ばれてきた料理に舌鼓を打ちながら、二人は言葉を交わす。
朝食をとったあとはコンサートホールでクラシックコンサートを聴く予定になっている。
いつもなら、小毬がコンサート関連の話題について饒舌に語るのだが、今日は勇がイニシアティブをとって他愛もない雑談をしている。彼はクラシック音楽どころか音楽全般に詳しくないため、語りたくても語れないのだ。
小毬はひと匙ひと匙味わうようにパフェを食べたり、窓越しの景色を眺めたり、恋人の言葉に相槌を打ったりと、その瞬間にしたいことをしているという感じだ。彼女としては異例のことだが、聞き役に回る時間が長くなっている。音楽の話題は、自分からは触れようとはしない。
勇は最初、はじまったばかりのデートを少しでも盛り上げようと、面白おかしく語れる話題を語ることにただただ腐心した。
しかし、ベーコンエッグを平らげたころには、小毬の様子がどこかおかしい、という思いから意識を引き剥がせなくなった。
「見た目がきれいで、芸術品みたいだね。へー、パフェっていう名前の商品だけでも四種類もあるんだ」
小毬はメニューをやけに熱心に眺めながらひとり言のようにしゃべる。
彼女はこの店を何度も利用しているのだから、よくよく考えると違和感がある発言だ。
ただ勇は、答えのない疑問について考えを巡らせる中で、気のせいかもしれない違和感の正体を求めるくらいなら、全身全霊でデートを楽しむほうがいい、というふうに考えが変わりつつあった。だからこの場面で彼は、会話を先へ進めることを選んだ。
「この店はバリエーションが豊富ですからね。スイーツだけじゃなくてコーヒーもそうだし。僕はセットメニューをオーダーしがちなんですけど、食べたことのないものにも挑戦したい気持ちもあって」
「なるほどー。じゃあ、挑戦してみる?」
「いえ、今回遠慮しておきます。小毬さんが食べたいなら、もう一品いかがですか? 時間的にはまだゆっくりできますよ」
「迷うところだけど、わたしもやめておこうかなー。時間は平気でも胃袋が余裕ないから。だって、お昼はお寿司でしょ。それを一番の楽しみにしているんだから、それをおさめるためのスペースを確保しておかなくちゃ」
食べている最中なのに他の食べ物について話すのはいかにも小毬らしい。勇は白い歯をこぼし、あと一口となったハニーバタートーストを口に運ぶ。
「ええっ!? 出井さんが、神楽坂から暴力を……?」
いきなり電話で「今からそっちに行くから」と一方的に告げられて、大慌てで片づけたリビング。ローテーブルのキッチン側に座る勇は、思わず天板の縁を掴んで軽く身を乗り出し、大声を発した。
縁側を背に、背筋を伸ばして正座した出井小毬は、微かに眉根を寄せて困り顔を作り、無意識のように左頬に右手を宛がった。揃えた指の腹で軽くマッサージをするように刺激し、静かに膝の上に下ろす。勇の目は、彼女の頬に異状は発見できない。
「うん、振るわれた。言い合いをしていたら――ううん、あれは言い合いじゃないね。わたしの過去のささいな言動を、少なくともわたし基準だとささいな言動を、神楽坂くんが責めたの。それに対してわたしは、『神楽坂くんは気にしすぎだよ』って感じで笑いながら対応していたんだけど、そうしたら急に『へらへらするな』って声を荒らげて、平手で頬をぶったの」
「そんなことが……」
「はじめてだと思った? 柳内くんには黙っていたけど、実は前から頻繁にあって。合計で何回になるかを覚えていないくらい、たくさん」
小毬の物言いは淡々としていて、面持ちは悄然としている。どちらも勇に対して見せることはほぼないし、なにより出井小毬らしくない。
しかし、小毬の告白はそれ以上に驚きだ。
「いつから、神楽坂から暴力を振るわれるようになったの?」
「正確には覚えていないけど、付き合いはじめてそんなに日にちは経っていなかったと思う。怒っているときについ手が出ちゃうみたいで。毎日ではないし、何日も体に跡が残るようなひどいものではないんだけど、ときどき暴力を振るうのがずっと続いているって感じ。精神的にも肉体的にも耐えられる程度の暴力だから、今まで我慢してこられたんだけど。
神楽坂くん、殴ったあとは決まって『やってしまった』って感じで慌てているし、土下座するくらいの勢いで謝るの。殴られている最中とか直後とかは、怖いし、嫌だし、怒りも湧くんだけど、謝られたとたんに申し訳ない気持ちになるんだよね。わたしにも責任の一端があるのかもしれないとか、こんなに謝っているんだから赦してあげないのは間違っているとか、そういうことばかり考えてしまって」
DV被害者は加害者の謝罪に騙されるという趣旨の話を、勇はなにかの本で読んだことがある。そのことを言おうかとも思ったが、すぐに余計な真似だと思い直す。小毬の表情を見れば、その罠にはまっている自覚があるが、抜け出したくても抜け出せずにいるだけなのは一目瞭然だからだ。
会話は途絶えている。
聞かされているあいだは、なじみがなく、一生関わり合うことがないと思っていたカテゴリの告白に、勇はただただ圧倒され、呆然としてしまった。
しかし、無音の中に身を置いているうちに、目の前にいる女性の被害者としての側面を意識するようになった。それに何歩か遅れて、小毬がいかに苦しんだかに思いが及び、静かに怒りが混み上げてきた。
「神楽坂とは学生時代からの付き合いだけど、まさか、恋人に暴力を振るうような男だったとはね」
勇は語気を強めて沈黙を破った。
「騎士道精神っていうのかな。想いを寄せる人間には尽くすようなところもあったし、そんな真似をするなんて考えもしなかったよ。……いや、もしかしたら、尽くすタイプだからこそ、なのかもしれない」
「神楽坂くんは根が真面目だから、わたしのいい加減で、すぐにふざけるところが気に食わないだろうね」
友人の言葉に応じる声はどこか淡々としている。まるで、そうでもしなければ、加害者のことを冷静に語ることなどできないかのように。
「柳内くんの騎士道精神説に照らし合わせるなら、生真面目さとか気品とか、そういう尽くしたくなる要素みたいなものをわたしが持ち合わせていないのが、神楽坂くんからすれば赦しがたいのかも」
「赦しがたいって……。出井さんがそういう性格だって、神楽坂は付き合う前からよく分かっていたはずだ。友だち付き合いをしていた期間は長かったんだから、把握していないなんて絶対にあり得ない。そもそも、そういうところも含めて好きだからこそ、小毬さんに告白して付き合いはじめたんだろう。それなのに、暴力って……」
「友だち付き合いと、恋人同士として付き合うのとは違うということなんだろうね。これまで以上に深く、長く接することになるから。気軽な付き合いをしていたころは気にならなかった、あるいは大目に見ていたことも我慢できなくなる。暴力を振るう理由、まだ本人の口から説明してもらったことはないけど、たぶんそういうことじゃないかな」
「……あの馬鹿野郎。人のちょっとした欠点にけちをつけられるだけの、立派な人格の持ち主かよ。そもそも出井さんの気ままな性格は、欠点じゃなくて個性なのに。……情けない」
共感を寄せてくれるかもしれないと期待してあえて声に出したのだが、小毬は少し眉根を寄せた表情で黙り込んでいる。
本来はもっと、笑顔でいる時間が長い人なのに。神楽坂の馬鹿げた振る舞いが彼女から笑顔を奪ったんだ。
膝の上に置かれた両手はますますかたく握りしめられ、圧力に耐えられなくなったとでもいうように小刻みに震え出す。時おり揺れる風鈴の音色が場違いで、怒りを煽られるようで、しかし感情の行き場を見つけられない。
「出井さんは、神楽坂の暴力に耐えられなくなったから僕に相談に来たんですよね」
「うん、そう。今回受けた暴力が特別ひどくて、命の危険を感じて避難してきた、ということじゃないんだけど。
わたし、叩かれてから少し経って一人になったんだけど、そのとたんにぽろぽろ泣いちゃって。悲しいとか悔しいとか怖いとかじゃなくて、自分の意思を無視して勝手にこぼれ落ちるみたいな感じ。びっくりして、これはさすがにまずいなって思って」
「無意識に泣いていたって、それ、かなり重症ですよね」
「そうね……。お医者さんとか、然るべき施設とか、そういうところに行くべきなんだろうけど、わたしは柳内くんに頼りたくて」
医者にかかる前に想いを吐き出しておきたいという意味だと勇は解釈した。だからこそ、彼女が次に発した言葉には衝撃を受けて、さらには呆然自失してしまった。
「わたし、神楽坂くんとは別れて、柳内くんと付き合おうと思っている。神楽坂くんに直接別れ話を告げるのは怖いから、陰でこっそり柳内くんと付き合いはじめたことにして、柳内くんから神楽坂くんにがつんと言ってもらえれば、わたしとしては一番助かる展開かな」
「え……」
「というわけで、柳内くん、今日からわたしの恋人になってくれない?」




