第十話
コンサートが開催される音楽ホールまでは徒歩で向かう。小毬が待ち合わせ時間ぎりぎりに来たときは最短となるように一直線に突き進み、早めに来たときは散策がてらたっぷりと時間をかけて目的地に向かうつもりでいた。今回は前者だから、川沿いの遊歩道を歩くコースだ。
「コンサート、楽しみですね」
「うん。どんな感じなのか、今からわくわくだよ」
「はじめて行くホールだと言っていましたよね」
「うん、そう。はじめてだから、楽しみ。勇くんもそうでしょ?」
「そうですね。最推しはバイオリニストのSAYAKAさんでしたっけ」
「そうそう」
会話が途切れる。
小毬は今にも鼻歌を歌い出しそうな横顔を見せている。
機嫌がよく、思い悩むことはなにもなくて、景色などに注意を奪われているわけでもない。この条件が揃っているのであれば、いつもならSAYAKAの演奏テクニックや人となり、コンサートについてなど、彼が問わなくても自分から勝手に語り出すはずなのに、沈黙。
喫茶店を出てからは他愛もない話題ばかりだったので気にならなかったが、違和感が再燃した。
やはり、今日の小毬は少し変だ。
「気持ちいいよね、川からの風」
小毬が急に足を止めたかと思うと、二人の右手に流れる川を右から左に視線を沿わせ、おもむろに勇に向き直ってそんなことを言った。少し強い風にワンピースの裾がはためいている。
こういう場所で演奏なんかしたら、もっと心地いい音になるんじゃないかな。どう? このアイディア」
「近所迷惑になりそうだから、実際は難しそうですよね。でも、アイディア自体はすてきだと思います」
「でしょ? でも、ホールもきっとすてきな場所だよね。だからたいていのコンサートはホールで開かれるんだね、きっと」
歩き出したので勇も同調する。いつもの小毬なら、彼の身も蓋もない反論には高確率で駄目出しをするのだが、今回はそれもない。
小毬は川縁に設置されたフェンスを掴んで上体を乗り出し、川を覗き込む。上体の傾斜は急で、今にもフェンスの向こう側に落ちてしまいそうだ。
「危ないですよ、小毬さん。落ちたら大変なことになります。僕は泳げないから、助けてあげたくても助けられないですよ」
「落ちないから大丈夫だよ。落ちても泳げるからどのみち大丈夫」
「えっ? 小毬さんも僕と同じでカナヅチ、でしたよね」
「とにかく、大丈夫だから」
くすりと笑い、鉄棒を回るかのように上体のかたむきを大きくする。慌てて背後から体を抱きとめ、垂直になるまで引き戻す。そして、肩越しに勇に微笑みかける。
至近距離から破壊力のある表情を向けられて、彼は気圧されたように後ずさりをした。小毬は付着した雫を払うように頭を振り、小首をかしげる。勇の頬はぐんぐん熱くなる。彼の心身の変化には微塵も気にとめていないらしい彼女は、いっさいのためらいなく恋人の手をとり、
「行こう。ホールがある場所、こっちであってるよね」
半歩先から誘導される形で勇も歩き出す。柔らかなぬくもりに意識を奪われ、歩調を整えるのに思いのほか苦戦しながらも、小毬と横並びになる。
恋人を慌てさせて子どものように愉快がることを、小毬さんはよくする。
自分から僕の手を握ることを、小毬さんはあまりやらない。
らしくても、らしくなくても、どちらも小毬さん。そう認めて、受け入れるべきだ。そうしたほうが、恋人と過ごす時間をきっとより楽しめるのだから。
勇はやっと小毬の手を握り返した。
コンサートホールに到着してからの小毬は、声が少し大きかった。
開演してからはさすがに静かになったが、終盤に差しかかるころにはまた別の彼女らしくないところを見せた。舟を漕ぎはじめたのだ。
「小毬さん、小毬さん。起きてください」
勇は肩を揺さぶる。眠りは思いのほか深いようで、揺さぶる力を強めても目覚める気配がない。
起こすのはいったん諦め、真横から小毬の顔をじっと見つめる。
彼女の寝顔はあどけない。大人っぽい容姿なのに無邪気に振る舞うところに彼女の魅力の要諦があるが、眠っているときの彼女は顔の造作まで幼くなったようだ。対象が無防備だからこそ可能な、不届きな干渉を及ぼす自分が断続的に頭を過ぎる。意識は秒刻みに、隣の座席で無音の寝息を立てる人へと惹きつけられる。
勇と小毬は肉体的に結ばれたことがない。
勇の献身的な行為への報酬、という名目でキスをされたことが何回かあるが、いずれも頬に軽く押し当てる程度のもの。手を繋ぐのも、勇が求めれば快諾してくれるが、彼は毎回のように勇気を持てるわけではない。
コンサートホールは満員とはいえ、観客が注目するのはステージ上。やろうと思えば、なにかちょっとしたことであればできそうだ。
ここが勇気を出す場面なのか?
こんなところで出す勇気は勇気と言えるのか?
観客がいっせいに拍手を打ち鳴らす音に、彼は我に返った。
顔をステージに戻し、謹聴の態勢に入る。比較的すんなりと集中力を取り戻せた。
しかしすぐに、重みとぬくもりが妨害してきた。うたた寝よりも一段深い眠りに沈んだ小毬の体がかたむき、勇にもたれかかったのだ。
舟を漕ぎはじめたのに気がついたときのように、彼は恋人を起こそうとした。しかし、伸ばしかけた手は肩に触れる寸前で停止する。
たしかに、コンサートを聴かないのはもったいない。彼女が好きな奏者の生演奏を聴く機会はそう多いわけではないし、チケット代だって安くはないのだから。
ただ、彼女の寝顔は実に安らかだ。プロの生演奏という贅沢極まるBGMを聴きながら入眠し、睡眠できるのだから、当たり前の眠りを眠るよりもずっと心地いいに違いない。
メリットがあるのは勇も同じだ。好きな人に全身を委ねられる。ぬくもりと柔らかな感触を衣服越しに深く実感できる。寝顔をいつでも自由に眺められる。これ以上の幸福はそう簡単には見つけられそうにない。遠いキスやセックスよりも、リアルタイムで感じているそれらの情報のほうが、格段に光輝に満ちたものに思える。
コンサートは早くも終盤に差しかかっている。
彼女の意識がないあいだのコンサートの模様をどう伝えようか、勇はリラックスした気分で考えはじめた。
その日は風が強かった。正午を回って大粒の雨が降り出し、窓ガラスに水滴が叩きつける音が騒々しさと不穏さに拍車をかけた。
勇は手持ち無沙汰だった。
窓辺にたたずんで庭を眺める。強風に煽られる庭木の枝葉はいまにもちぎれ飛びそうな痛ましい姿をさらしていて、目に愉快な光景とはいえない。落ち葉で散らかった庭を掃除する苦労を思い、うんざりして窓から離れる。しかし退屈に負けてすぐに引き返し、ガラス越しに外界と相対、憂鬱をいたずらに体内に蓄積させる。
果ての見えない物憂い反復の中、玄関ドアが勢いよく開く音がした。閉めきった窓越しの暴風雨がやかましい中でも、はっきりと聞こえたほどの大音量。
強風のせいでドアが壊れたのかと、大急ぎで玄関まで走った勇が目にしたのは、全身ずぶ濡れの小毬だった。
白いワンピースをまとった彼女は、怯えながらもすがるような色をたたえた瞳で勇を見つめる。腰の長さの黒髪は濡れて艶やかさを増し、光沢が官能的かつ煽情的だ。握りしめられた右手は胸に押し当てられていたが、その下のワンピースは水気をふんだんに吸って体に貼りつき、下着が見え透いている。
一心に見つめてくる彼女の瞳に、勇は有無を言わさずに引き寄せられた。誰がどう見ても、助けを求める人間の目だ。
とにもかくにもタオルをとってこようと、背を向けて駆け出そうとしたとき、小毬が小声でなにか言った。振り向こうとすると、抱きつかれた。
濡れた感触、少し遅れて体温。首筋にかかる規則的な吐息のくすぐったさ。腰に巻きつけられた両腕の強固さ。肩甲骨に押しつけられた胸の弾力。
ようするに、出井小毬という存在そのものを感じた。
勇は心も体も釘づけになった。外部からの働きかけがないかぎり、永遠に動き出せない気さえした。しかし恐怖や焦りはなく、首筋にかかる息の風圧が少しずつ大きくなるのを鮮明に感じている。
やがて吐息にかすれ声のようなものが混じるようになった。開きっぱなしのドアから絶え間なく流入する雨と風、そしてそれらが立てる音に神経をかき乱されながらも、勇は変化の推移に全意識を注ぐ。
「行かないで……」
それが、はっきりと聞き取れたはじめての声だった。
全身がいっそう緊張した。しかし五秒も続かず、緊張する前よりもいっそう脱力する。
「もう限界なの……。だから、返事を……」
付き合うか否かの返事は待ってほしい、と伝えていた。他人の恋人を奪う、しかも他人も恋人も勇の友人という特殊な形。臆病な勇が二の足を踏むのも無理はなかった。
勇にとって最大の懸案は、神楽坂の反応。
人のものを盗ったのだから、取り換えがきく物体などではなく最愛の恋人なのだから、確実に怒る。小毬が神楽坂の恋人から勇の恋人になるという決定を、絶対に許可するはずがない。小毬が神楽坂の暴力にどんなに苦しめられてきたか、相談に乗ってくれた勇に惹かれていったかを懇切丁寧に説いたとしても。むしろ「怪我をしたわけでもないのに、大げさに騒ぎ立てすぎだ」とか、「恋人の俺に隠れて、よその男に身の上相談をしていたのか」などと言って、逆上する気がする。
愛する女性にさえ手を挙げたのだから、憎き恋敵に拳を振り上げるのをいとわないに決まっている。
勇はそのような事態に発展する未来を恐れていた。神楽坂に対して恐怖心があった。
知り合ったころは対等な関係ではなかった。神楽坂はやんちゃなところがある生徒で、勇は地味で大人しくて存在感がない。
同じクラスになり、神楽坂はときどき気まぐれのように勇にちょっかいをかけた。勇は不愉快に感じながらも無抵抗を貫いた。それが中長期的にはもっとも無難な対応だと、持ち前の性格ゆえに、神楽坂のようなタイプの生徒からいやがらせを受けた経験を持つ勇は把握していた。
二人の男子の関係が変わるきっかけになったのは、出井小毬だった。
その美しい一輪の美しい花を、萎れさせたくない、色褪せさせたくないという共通の認識が、正反対な二人の少年に友情を芽生えさせたのだ。
しかし今、その一輪が原因となって、あのときとは逆に、二人の関係は根本的に壊れようとしている――。
密着した体から伝わる体温が、巻きつけられた両腕の強さが、勇を優しく脅迫する。これ以上先延ばしにして小毬を待たせるな、と。勇気を振り絞って行動に移せ、と。
勇気がないだけで、どちらの行動をとるのかはすでに決めていた。
ひそかに想いを寄せていた人の言葉に背中を押されて、こう答えた。
「分かった。神楽坂に事情を説明して、君と神楽坂を別れさせる。そして、出井さんは僕と付き合うことになるって、もう僕たちのあいだでは合意は交わされているって、神楽坂にちゃんと伝える。あの男のことだ、きっとひと悶着あるだろうけど、逃げずにちゃんとやるから」
肩になかばうずめていた小毬の顔が持ち上がり、潤んだ瞳で勇を凝視した。




