第十一話
「すごかったね。言葉では言い表せないくらいよかったよ。楽しかったぁ」
勇と小毬は遊歩道を行きとは逆に歩きながら、コンサートの模様について話している。
ただし、小毬は当たり障りのない感想を口にするばかり。勇が乏しい知識、拙い表現力と語彙を駆使しながらしゃべっている時間が長くなっている。これまでのコンサート直後とは役割が逆だ。
いつもの小毬であれば、奇抜だが詩情あふれる比喩を織り交ぜながら感想を述べるのだが、今回はそれがない。自分が居眠りしていたあいだの模様を一言も尋ねてこないのも変だ。そもそも、楽しみにしていたイベントの最中に眠ってしまう時点で普通ではない。
いい加減しつこいと自分で自分を責めながらも、勇は考えざるを得ない。今日の小毬さんはなんなのだろう、と。
しかしその問題に意識が向いていたのも、真っ赤な欄干の橋を渡りきると同時、それとは別の問題の存在を思い出すまでだった。
「よく知らないんだけど、寿司街道は橋を渡ったらすぐだっけ?」
「そうですね。十分ちょっとくらいかな。地図はばっちり頭に入っているので、道案内は任せてください」
小毬は白い歯をこぼしたが、勇はぎこちない笑顔になった。寿司街道という言葉が出た瞬間、トラの存在を思い出していたからだ。
一拍を置いて気がついたのは、トラはなにも通りに足を踏み入れたとたんに姿を現すとは限らない、ということ。
当たり前だ。腹を空かせたトラからすれば、特定の区域以外の場所で狩りを自粛する理由はどこにもないのだから。
つまり寿司街道の近くであれば、いつ遭遇してもおかしくない。
勇は北風の直撃を食らったように身震いをした。さらには挙動不審に左右を見る。
「トラ、このあたりにはいないみたいですね」
「トラ? ああ、そうね。まだ遠いからじゃないかな」
「でも、油断は禁物です。神楽坂から聞いたり、ネットで調べたりしたんですけど、トラって物陰に身を潜めて、獲物を待ち伏せして狩りをするらしいですね。姿が見えなくても、気を緩めると危ない気がします」
「その心配はないんじゃない。トラはこのあたりにはいないよ。分かるの。わたし、人一倍嗅覚が敏感だから」
鼻の頭を人差し指でとんとんと叩き、いたずらっぽく歯をこぼす。
神経過敏な恋人の心をなぐませるためのジョークのつもりなのか。それとも逆に、みだりに不安がらせるようなことは言わないでほしいという遠回しの警告か。
勇には判断がつかなかった。
街道のはじまりとなる地点に、どことなく鳥居を連想させる形状の、全体を空色に塗装された巨大なゲートが設置されている。最上部の右端にはマグロ、左端にはエビ、それぞれのネタの寿司を象ったオブジェが付属していて、看板の文言は「寿司街道」。
「わー、人がたくさんだね。いい匂いもする」
「外国人観光客にも人気と聞いたことがありますが、噂は本当だったみたいですね」
「人がたくさんいる場所自体あまり行ったことがないのに、見慣れない髪の毛と目と肌の人までたくさんだと、なんだかくらくらふらふらするね。別世界に来たみたい」
「そのくらくらとふらふら、おなかが減っているせいじゃないですか」
「あはは、そうかも。食いしん坊みたいで恥ずかしいなー」
「もう正午を回っているし、誰だってそうなって当たり前です。僕も、すぐにつまめるものがあるなら口に入れたいくらいですし。この店に行きたいとかはありますか?」
「ううん、特に。いい感じの店があったら入ろうよ」
「では、そうしましょう」
ゲートを潜ったのを境に勇の肩にこもっていた力は抜けた。
これだけの人出で小毬さんや僕がピンポイントで狙われるなんて、あり得ない。万が一襲われたとしても、誰か弱そうな人をおとりにすれば逃げ切れるから問題ないよね。神楽坂の言葉じゃないけど。
そんなことを冗談半分に思えるくらいに、心にゆとりが生まれた。
建ち並ぶ店を冷やかしながら歩く。寿司街道の名に偽りなく、どの店も寿司、寿司、寿司。
店舗の外観や、店先に置かれたメニューの看板、道を歩きながらでもうかがえる店内の様子。目についたさまざまな情報について自由に意見を交わしながら、のんびりとした歩調で二人は進む。恋人といっしょだと、だらだらと迷うのも楽しい。
「こことかよさそうじゃない? 入ろうよ」
通りを三分の一ほど消化したころ、小毬は右側に建つ店を指差した。外から眺めたかぎり、他店と比べて顕著な違いはないが、店内は活気があって雰囲気がよさそうだ。小毬が勇の手をとって店に入っていくので、引かれるままに入店する。
席はカウンター席のみ。奥まった場所にちょうど二人分隣り合った空席があった。
「小毬さんはなにが食べたいネタとか、あります?」
「実はね、特にないの。こんなネタがあるとかはだいたい分かるんだけど、なにがおいしいとかはよく分からなくて」
「食べたいのに詳しくないんですね。僕も回らないお寿司屋さんにはめったに行かないんですけど、よさそうなのを選んでみますね」
勇は大将におすすめを訊きつつ、ときには自らのインスピレーションにも従って、寿司を注文する。真っ先に、小毬の好物のエビを注文したのは言うまでもない。足並みを揃えて同じネタを食べることもあるし、それぞれが違うネタに舌鼓を打つこともある。
「これもおいしい。今のところ、勇くんが選んだネタは全部大当たりだね。いっしょに来てよかったぁ」
小毬はどのネタもぺろりと平らげ、惜しみない賛辞を贈った。
いつもの小毬は自分の好きなネタばかり食べる傾向にあるが、今日はいろいろなネタを満遍なく食べている。しかも、食欲旺盛。
普段とは少し違う恋人にもはや慣れてしまった勇は、その姿に違和感を抱くのではなく、純粋に心を快くさせてくれる映像として摂取した。
彼はいつしかトラのことを忘れ、小毬と寿司の旨味にどっぷりと浸っていた。
「――そういうわけで、僕と小毬さんは付き合うことにした。ようするに、神楽坂、君は恋人から別れ話を告げられるよりも先にふられたんだ。この決定自体は妥当なものだと、僕も小毬さんも信じているけど、手続きが強引だったのは認めるよ。だから、納得がいかないこととか、ここをこうしてほしいとか、そういう意見とか反論があるなら自由に、好きなだけ言ってほしい」
長広舌がようやく終点まで行き着き、勇はほっと息をつく。ただし表情は緩めない。神楽坂をみだりに刺激するような言動は慎みたかった。
小毬は珍しく表情も姿勢も緊張させたまま、話を最後まで聞き届けた。新しい恋人が話し終わっても微動だにしない。
勇がしゃべっているあいだ、彼女は自分に発言する必要が生じた場合にだけしゃべり、それ以外の時間帯はずっと黙っていた。話し手が言葉に詰まるなどしたさいは口を挟みたそうにしていたが、我慢強く自制していた。この話し合いの場において、自分がどう振る舞うのが自分や勇の利益になるかを彼女なりに考え、自分にできることをせいいっぱいこなしていた。
一方の神楽坂は、勇が話しているあいだは頑として口を開こうとしなかった。勇が事実確認を求め、意思表示をしなければ会話が前に進まない状況になったときに、かろうじて分かる動きで首を縦か横に振るだけ。顔に浮かんでいるのは、微かに眉根を寄せた表情か、無表情か、そのどちらかだった。
勇の語りは、いかに誠意と真意が伝わるか、語彙の限りを尽くし、言い回しに最大限配慮しながら言葉を紡ぎ出す、苦労を伴うものだった。同時に、神楽坂がどんな反応を見せるか、恐れる気持ちと戦いながらのものでもあった。
神楽坂はなにを考えているのだろう。僕自身も、気に障ったのではないかと懸念したあの私見やあの指摘を、どう感じ、どう解釈したのだろう。内心では激情が煮えたぎっているのでは? 僕が話し終わり、バトンを手にした神楽坂はどう出るんだ?
「少し待っていろ」
神楽坂はおもむろにつぶやき、座布団から立ってリビングから出て行った。




