第十二話
残された二人は唖然とした顔を見合わせる。
「……どうしたんだろう」
「さあ。トイレ、ではなさそうな雰囲気だったけど」
二人は沈黙する。静けさが重苦しい。勇は早々に耐えきれなくなり、なんでもいいからしゃべろうと口を開こうとした。
そのとき、いきなりリビングのドアが勢いよく開かれた。目の前に現れた親友の姿を見て、勇は驚愕した。
神楽坂はライフル銃を握りしめ、満面に憤怒の炎をたぎらせていたのだ。
勇は総毛立ち、小毬の悲鳴。
神楽坂が獲物を追い詰めるハンターのような足取りで近づいてくる。指は引き金にかかっていて、進行方向は勇。
恋人を構う暇も、自分一人で逃げる間もなく、チノパンツの裾を踏みつけられて銃口を額に押し当てられた。突きつけられた、ではなくて。非人間的な冷たさを感じた瞬間、皮膚に浮かぶ鳥肌の数は一気に倍になったように感じた。
「撤回しろ!」
怒声が空気を震わせた。勇は耳元で怒鳴られたように感じた。視界いっぱいに、体を震わせる神楽坂の怒気に染まった顔、鬼気迫る表情が映し出されている。
「小毬を譲れ? ふざけるなよ。要求を撤回しろ。そして、今後二度とそんな馬鹿げた申し出はしないと誓え。さもなければ、お前の額を打ち抜く。この銃には――」
「嫌だ」
何度思い返しても、あのときの自分のどこにそんな勇気が隠されていたのか、勇は自分でも不思議でならない。
当時の勇は異常なまでに冷静沈着だった。
間違った対応をとれば、神楽坂はおそらく本気で撃つ。しかし、冷静さを欠いた今の神楽坂では、なにを言っても心には響かない。要求も銃も引っ込めないだろう。だから、勇にとって最善の行動は、とにかく要求をはねのけ続けること。脅されても要求を呑まない意思の強さを見せつけ続けること。
そう信じて、自分でも無謀だと思う行動に踏み切ったのだ。
「ふざけるな! 状況が分かっているのか? お前は銃を突きつけられているんだぞ、銃を。言っておくが、俺は本気で撃つぜ。嫌だ、じゃないんだよ、勇。撤回しますとさっさと言え! 誓え! ――さあ!」
まばたき一つせずに神楽坂の顔を直視していた勇は、戸惑いの色が過ぎったのを見逃さなかった。ただし、一瞬で元の憤怒の表情を復活させ、銃で額を何度も押すようにしながらそう捲し立てた。
小毬のすすり泣く声が聞こえてきた。
勇は恐ろしかった。一つ反抗したことで、撃つ確率が上昇したように感じられたから。
しかし、一度決めた方針を手放すつもりはなかった。たった一度、ほんの一瞬だけ観測した神楽坂の戸惑いが、それを手中に握りとめておくための一助になった。
「どうした! この状態で撃てば確実に死ぬのが分からないのか。撃つぞ。殺すぞ。死にたくなければ、小毬は諦めると言え!」
「嫌だね。死んでも言わない」
「じゃあ死ね。俺が殺してやる!」
「嫌だ。僕は殺されても死ぬつもりはないぞ、神楽坂」
「言え」「嫌だ」「言え」「嫌だ」が延々とくり返される。
変化は唐突に訪れた。
額に加えられた圧力が不意に解消された。神楽坂が銃口を外し、勇のチノパンツの裾を踏んでいた足をどけて一歩距離をとったのだ。
引き金を引くに先立っての予備動作ではないかと、勇は反射的に身構えた。しかし、神楽坂はその場に棒立ちするばかり。銃口の向きは床だ。いつの間にか小毬のすすり泣きはやんでいる。
神楽坂の手から銃が落ちた。さっきまで凶器を握りしめていた右手は握り拳に変わり、さらには小刻みに震えている。照明の光が邪魔をして表情ははっきりと見えない。
いきなり神楽坂の体がくずおれた。床に両膝をつく姿勢で、目線の高さがほぼ同じになった。彼は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「なにをしているんだ、俺は。……勇。俺は、お前を――」
「いや、いいんだ。冷静じゃないのは分かっていた。気の迷いのようなものだってちゃんと分かっている。僕の君に対する評価は、この一件なんかじゃ変わらないよ。一回謝罪して、二度とやらないと約束してくれたら、もうそれで充分だ。やっと冷静になったんだから――」
「いや、それは違う。そんなのはおかしい。俺はお前を、お前を――」
いきなり、神楽坂の頭が床にまで落ちた。土下座をしたのだ、と二秒のタイムラグを経て気がつく。
勇は慌てた。顔を上げるように言ったが、神楽坂は譫言のように喚きながら額を床に押しつけ続ける。
泣きやんだ小毬に協力を要請し、二人がかりで説得に当たる。しばらくすると多少なりとも聞く耳を持つようになったが、平常まではまだまだ遠そうだ。二人は粘り強く言葉を重ねつつ、時間が解決してくれるのを待った。
やがて神楽坂は喚くのをやめ、緩慢な挙動でその場に正座した。頬にまだ乾かない涙の跡を見て、勇は愕然として息を呑んだ。
「勇と小毬の相性のよさは昔から分かっていた。俺が小毬と付き合うことができたのは、けっきょく俺が勇よりもいくらか積極的だったからに過ぎないんだろうな。さんざん馬鹿な真似をして、目が覚めたよ。小毬にずっと赦されない行為を働いてきた俺が、クレームをつける権利なんてない。今後は二人で仲よくやってくれ。もっとかけたい言葉はあるけど――悪い、一人にさせてくれ」
神楽坂は体をふらつかせながらリビングをあとにした。
銃は無造作に床に転がったままその場に残された。同じく残された二人は顔を見合わせる。小毬は少し困ったような表情をしている。それを見て、自分も同じような顔をしているのだろうと勇には想像がついた。
神楽坂の性格を考えても、突きつけた要求の内容を考えても、絶対に揉めると勇は覚悟していた。実際、そのとおりになった。
しかし、誠意をもって説得に当たれば、最終的には必ずや受け入れてくれると信じていた。実際、そのとおりになった。
しかし、まさか、望むものが得られたにもかかわらず、気持ちがすっきりしないなんて。
言葉少なな時間が流れて、勇が神楽坂の様子を見に行くことになった。
「なんだよ」
ノックをすると返事があった。機嫌はよくなさそうだ。それ以上に、元気が感じられない。
「顔が見たいから、入ってもいい?」
「嫌だよ、おかんじゃあるまいし」
「そう邪険にしなくてもいいよ。……お前、まさか、変なことやろうとしてないよな?」
神楽坂はドアの向こうからくっくと笑って、
「もしかして、俺が自殺をするとでも思っているのか? 安心しろ。人を殺すことで問題を解決しようとする人間は、自殺してすべてを終わらせる道は絶対に選ばない。ていうか、本気でするつもりなんだったら、銃を部屋に持ち込んでさっさと引き金を引いてるよ」
冗談を言えるなら大丈夫だろう。辞去する旨を伝えて、小毬とともに神楽坂家をあとにした。
帰路を歩く二人は、滞在時よりもいっそう黙りがちになった。漂う空気は淀んでいる。下校時間と重なったらしく、小中高生たちのみずみずしい声が痛かった。
しかし、信号待ちのさいに小毬が何気なくといったふうにつぶやいた言葉に、勇は救われた思いがした。
「急がず焦らず、ゆっくりのんびりやっていけば、悪いようにはならないんじゃないかな。わたしと勇くんの関係も、わたしたちと神楽坂くんの関係も。だってわたしたち、もともと仲よし三人組だったんだもの」
予言どおり、三人の関係は日ごとに回復していった。一か月も経つころには、気兼ねなく付き合えるという意味では、以前となんら変わりない状態にまで戻った。
神楽坂と交際していたときからそうだったが、小毬は人前で恋人とこれ見よがしにいちゃつかない。他者と性急に関係を深めるのを恐れる勇を不安がらせないという意味でも、神楽坂の自尊心をみだりに刺激しないという意味でも、それはプラスに働いた。
神楽坂が勇にした行為は脅迫罪あるいは暴行罪に該当する。しかし、三人は申し合わせのうえ、この件は公にしないことに決めた。
この一件のあと、勇は神楽坂の一存により『神楽坂鳥獣捕獲センター』の職員として雇用された。両親から相続した遺産により、勇はしばらく遊んで暮らせる身分だったが、
「少額でも収入があったほうがいいだろ。他の職員並みに働かなくても、ある程度の金が入ってくるように取り計らってやる。勇はこういう特別扱いをされるのは嫌いだろうが、罪を償いたい俺の気持ちも分かってくれ」
勇は申し出を受け入れた。以来、友人からの要請があった場合は、よほど気乗りがしないとき以外は手伝うことにしている。
騒動が終息したあとも、「神楽坂から小毬を奪った」という意識は勇の胸に残り、事あるごとに心をざわめかせている。たとえば、神楽坂が勇の少しでも不利益になる行動をとったさいに「あのときの怨みを晴らすつもりなのかな」と疑ったり、逆の場合には「これが引き金になって神楽坂は僕に対する過去の恨みを爆発させるんじゃないか」と危惧したり、といった形で。




