第十三話
「ああ、おいしかった!」
労わるような手つきで自分の腹を上下に撫でながら、小毬は大いなる満足を表明した。
勇は浅くうなずく。
言葉はいらない。寿司がおいしかったのも、小毬は言及しなかったが昼食のひとときが充実していたのも、確認し合うまでもない自明の事実なのだから。
二人は会計を済ませて寿司店を出たところだ。眼前には舗装道路が左右に真っ直ぐに伸びていて、老若男女であふれ返っている。盛んに意見を交わしながら店を選んでいる若いカップル、軽トラの荷台からいくつも発泡スチロール製の箱をてきぱきと下ろすねじり鉢巻きの中年男性、野太い笑い声を上げながら通りを練り歩く東欧系の男女のグループ。
「ねえ勇くん、もう一軒くらい寄ってみない? まだまだ食べられそうだから」
「あ、そうなんですか」
僕はもうおなかいっぱいです、という言葉が喉元まで出かかったが、咄嗟の判断で堰き止めた。
予定では、寿司街道で寿司を食べたあとは解散することになっていた。ただ、優先するべきは恋人の意向。計画を変更しない理由はない。
「奇遇ですね、僕ももう少し食べられそうです。せっかくですし、もう一軒寄りましょう」
「ほんとに? ありがとう!」
小毬は表情をぱっと明るくさせて勇の腕に抱きついた。
彼女はたしかに気さくな人だが、頻繁にボディタッチはしない。そもそも少食なので、食事後に別の店で食事がしたいと言い出すことはめったになかった。食べ足りなかったのならまだしも、一軒目の寿司店で小毬は勇を上回る皿数、普段の彼女の食事量を考えれば、食べ過ぎくらいの量を平らげたというのに。
やっぱり、おかしい。いつもの小毬さんではない。
異変を感じたらしく、彼女は口を半開きにした顔で勇の顔を直視した。
次の瞬間、金切り声が響いた。
勇でも小毬でもない誰かが上げた悲鳴だ。
間髪を入れずに他の誰かが同じように絶叫し、さらに別の一人が甲高い声を吐く。複数の声が重なり合いながら連鎖したことで、たった一人の人間の口から迸り出た巨大な悲鳴のように勇には聞こえた。
小毬が抱きつく両腕の力を強めた。突然の事態に頭が真っ白になっていた彼は、その変化に我に返り、音源を振り向いた。
通りに散らばる人々の視線が一点に集約されている。その一点から、人々が口々に叫びながら放射状に遠ざかっていく。男も女も老いも若きも、日本人も外国人も、着ている衣服や髪の毛の色を問わず、みながみな死に物狂いで逃走している。手にしているバッグなどの私物を放り出す者さえいる。
勇は彼らの一員には加わらない。抱きつく小毬が物理的な枷になっていたし、パニックの源泉を自分の目で確かめたかったから。
人々がことごとく一点から距離をとったことで、見えなかったものが見えた。
視覚が黄金色を捉えた瞬間、全身に鳥肌が立った。
巨大な体、それとは不釣り合いに小さな耳と目、体のサイズと比較しても太すぎる四肢――。
トラだ。
動黄金色と白亜と漆黒によって構成されたデザインの猛獣が、寿司職人をデフォルメした人形が店頭に置かれた寿司店の前で、我が物顔で腰を下ろしている。
しかも、その一頭だけではない。目の前に本物のトラ、というインパクトに圧倒されて気づくのが遅れたが、複数いる。
店の出入口の開きっぱなしのドアから店内を覗き込んでいる一頭。
最初に認めた一頭から少し離れた場所で、ネコそっくりに顔を洗っている一頭。
そのすぐそばに体を横たえ、リラックスした様子でしっぽの先を揺らしている一頭。
最初の一頭の背後から、たった今、少し小柄な一頭が四足歩行で現れ、通りの真ん中で腰を落とし、勇を正視した。
合計五頭。
そのすべての瞳が自分に向けられていることに気がつき、勇は息が詰まった。強張った顔で周囲を見回す。
誰もいない。自分と小毬を除けば、文字どおり一人も。突然の事態に勇たちが呆気にとられているあいだに、他の者たちは迅速に退避行動を完了させたのだ。
最初の一頭が腰を上げた。勇の汗腺という汗腺から汗が噴出した。
力強く太い前後の足で、黒く舗装された大地を踏みしめながら、トラが歩み寄ってくる。もったいぶったような、ゆっくりとした歩行。逃走の最後のチャンスを与えるためのような。怖気づいて逃げ出した瞬間を狙って飛びかかるための布石のような。
道に寝そべった一頭が緩慢に体を起こした。他の四頭は依然として勇たちを凝視している。その緑がかった瞳に宿る光は、心なしか禍々しさを増したようだ。
勇は肉体を硬直させたままながらも頭脳を駆動させる。
猛獣が五頭。立ち向かっても勝てるはずがない。逃げる。生き残る方法はそれしかない。
でも、普通に逃げたのでは、確実に捉まる。他の通行人を犠牲にするという冗談のようなアイディアも、今となっては実行不可能。
では、自分と小毬さんの命を諦めるしかないのか……?
自問した瞬間、思い出した。
――赤いハンカチ。
神楽坂が伝授してくれたトラ対策。ずっと眉唾ではないかと疑っていたが、今は藁にもすがりたい状況だ。
ポケットに手を突っ込むと、指先に柔らかなものが触れた。つまんで引っ張り出す。
絶句した。
ハンカチは、紺色の地にレモン色の格子模様というデザイン。
まぎれもなく勇の所持品。
ただ、トラ対策に有効な色ではない。
赤いハンカチは、キツネの脚の怪我の手当てに使ったから、もう手元にはないのだった。
足元の地面に、人間を丸呑みする直径の穴が突如として出現し、奈落へと墜落するような感覚。発汗量が爆発的に増大した。
体がふらついた。両足を踏ん張り、もがくように手を動かすと、指先が人体らしきものを掠めた。
寄り添うように小毬がたたずんでいた。満面にたたえられているのは、彼女らしさ全開の、しかし状況にはそぐわない、底抜けに明るい微笑み。
小毬は「心配しないで」あるいは「任せて」といったふうにうなずいた。恋人から視線を切り、トラへと一歩歩み寄る。
束の間失念していた状況を思い出し、勇は叫ぼうとした。それを制するかのように、彼女は右手を顔の高さに掲げる。
その手には、赤色のハンカチが握られている。
「それっ!」
不格好な投球フォームで、真っ赤な布切れがトラへと投じられる。紙飛行機のようにふわりと柔らかく空を飛び、猛獣の鼻先でぱっと花開いた。
トラは前足を素早く出してハンカチを叩き落とした。墜落したそれを、ネコじゃらしにじゃれるネコそのものの手つきで、転がすようにじゃれつく。
「勇くん、行くよっ!」
耳元で声が弾けた。手を掴まれたかと思うと、優しくも強い力に引っ張られて体が動き出す。小毬が勇の手を引いて駆け出したのだ。
後ろ向きに引かれる形だったので転びそうになったが、なんとか態勢を立て直す。加速したが、一歩先を走る小毬になかなか並べない。小毬が走るのが異様に速いのか、勇が思ったよりも速く走れていないのか。
すぐに道幅が狭くなり、あたりが薄暗くなった。左右はどちらも湿ったような表面の灰色の壁。脇道に逃げ込んだのだ、と勇は理解する。
トラが追いかけてくる気配は感じられない。一頭も。一枚のハンカチに五頭もの大型の獣が群がっているのだろうか?
そんなことはどうでもいい。トラは追いかけてこない。逃げ切れる。命が助かる。それで充分。だけどまだ気は抜くな。
狭隘な道を駆ける。脇目も振らずに駆ける。汗が乾く。脅威が遠のいていく。
小毬が走るのをやめたのは、薄暗く、地面には誰かが踏みつぶした飲料の空き缶が無造作に転がる、高層建築の無機質な外壁に挟まれた空間――路地裏だった。人気がなく、人間が立てる音も聞こえてこない、とてもさびしい道。
勇は膝に両手をついて肩で息をする。
死の危険を感じながら全力疾走をしたのは、人生ではじめてだ。強靭な精神の持ち主ではなく、体力にも自信がない彼にはつらい時間だった。実際に四肢を振っていた時間はそう長くないのだろうが、主観的には十分もニ十分も走っていたかのようだった。
一方の小毬は、呼吸が若干速いくらいで、心身ともにかなりゆとりがありそうだ。たたずまいは信号待ちをしているときのようにリラックスしている。砂色の髪の毛はほとんど乱れておらず、汗は一粒も肌に浮かんでいない。
勇は二つ折りにしていた体をやっとのことで真っ直ぐにした。
小毬さんはもともと体力があるほうじゃない。体力に自信がない僕よりもさらに下だ。それなのに、全力疾走を終えたあとの彼女は不自然なくらいに余裕がある。
トラに相対してからもそうだった。まるでこんなシチュエーションを想定して何度も練習してきたかのように沈着冷静で、動きも正確で無駄がなかった。
そして、もう一つの謎は。
「小毬さん。ちょっと気になったんですけど」
息を一つ深く吐き、呼吸を整える作業に明確に終止符を打ち、勇は切り出した。乱れてもいない髪の毛を熱心に手櫛で梳いていた彼女は、手を動かすのをやめ、指先を髪にうずめたまま恋人を振り向いた。
「あのハンカチはどこで手に入れたんですか。さっき寿司街道でトラに投げつけた、あの真っ赤なハンカチのことです」
「ああ、あれ? 実は、トラ対策として事前に買っておいたの。秘密にしていたんじゃなくて、話す機会がなかっただけ。勇くんと二人きりでデートしていると、次から次へと話したい話題が浮かぶから」
トラ対策には赤いハンカチが有効という話は、どのくらい有名なのだろう?
人間が住む空間への野生動物の進出は社会問題化している。虚実入り乱れたトラ関連の情報がネット上に氾濫し、多くの人々が閲覧していると想像にかたくない。小毬は興味なさそうだが、暇つぶしにちょっと覗いてみたことはあるかもしれない。だから、対策として持ち歩いていたとしても不自然ではない。
ただ、勇は納得がいかない。
今日の小毬は、普段の彼女からは少しずれた言動をたびたび見せてきた。
そして、命の危機に瀕した土壇場で、勇がキツネのために消費したのと同じハンカチで彼を救った。
「どうしたの? もしかして酢飯、頬についちゃってるかな」
小毬はきょとんとした顔で問うてきた。
勇は「ごめん」と言いかけて、ぎゅっと口を結んだ。
小毬さんの身になにがあったのか、問い質すべき場面なのでは?
彼女は表情を変えずに小首をかしげる。
思い切って口を開こうとした、そのとき、ジーンズのポケットの中のスマホが震え出した。電話だ。
「誰だろう」
そうつぶやいたが、勇は交友関係が広くないから、おおむね想像がつく。
確認してみると、やはり神楽坂からだ。
また裸馬が出没したのだろうか?
深刻な人的被害が発生したのだとしたら、原因の一端は僕にもある――。
実際には震えていないが、震えているように感じる指でアイコンをタップし、電話に出た。事情を問い質すよりも先に、神楽坂が叫んだ。
「小毬が崩れた壁の下敷きになって病院に運ばれた! 命に別状はないが重症だ。お前はどうせ暇だろうから、さっさと病院まで来い。K市民病院だ。事故に遭ったのは昼前で、俺に連絡が来たのは昼過ぎで、ついさっき意識を取り戻して、やっと会話できるようになったところなんだ」
「……はあ?」
上擦った声が勇の口から出た。
頭は混乱している。
だって、意味不明じゃないか。
「はあ、じゃないよ。早く来いって言っているんだ。K市民病院の場所くらい分かるだろ」
「それは分かってる。分かってるけど、でも意味が分からないよ、神楽坂」
「おい、この状況でなに訳の分からないことを――」
「訳が分からないのは僕のほうだ。僕は今、小毬さんとデートをしている最中なんだよ? ついさっき二人で遅めの昼食を終えたところ。小毬さんとずっといっしょにいるのに、僕が知らないところで小毬さんが事故に遭うわけがないだろ。ぴんぴんしているよ。なんだよ、事故に遭って重症って。ふざけるのもいい加減にしろよ」
「……はあ?」
「それはこっちのセリフだ。僕は朝からずっと小毬さんと行動をともにしているから、神楽坂に言われたようなことが起こったはずがないんだよ。絶対にあり得ない。現に小毬さんは僕のすぐそばに――」
振り向いた先に小毬の姿はなかった。
「小毬さん……?」
道の左右に視線を走らせたが、やはりいない。人が全身を隠せそうな物体は視野内には存在しない。
神楽坂がスマホ越しに怒鳴るように勇の名前を連呼している。勇にはそれが、別世界から響く呼び声に聞こえた。




