第十四話
いなくなった小毬を捜すか。それとも、怪我をしたという小毬に会いにK市民病院に行くか。
勇は走りながらかなり迷ったが、後者を選んだ。そちらが本物の小毬だという確証があったわけではないが、そうしたほうが彼女に会えそうだと直感したから。
教えられた病室の前まで来るとさすがに緊張した。呼吸を軽く整え、スライドドアをノックしてから中に入る。
小毬はベッドの上で上体を起こしていた。ベッド脇に丸椅子が置かれ、神楽坂が腰かけている。
勇は大股で真っ直ぐにベッドへと歩み寄り、前屈みの姿勢になって恋人を食い入るように観察する。
右腕は全体が、左手は手首から先が、それぞれ純白の包帯で覆われている。ボトムスの裾からも白いものが見えている。最後の最後に恐る恐る見た顔は、まったくの無傷。
「……よかった。いや、よくはないけど、もっと重い怪我をしたんじゃないかって想像していたから」
「うん。包帯をぐるぐるしてあるからびっくりしたと思うけど、見た目ほどひどい怪我じゃないから。そんなに痛くないし」
そう言って微笑んでみせる。多少無理をしているような笑い方だったが、口調はしっかりしている。勇は小さく安堵の息を吐いた。
「ほら、座れ」
神楽坂が丸椅子をすすめてきたので、目上の人間にするように会釈をして尻を下ろす。小毬は微笑みを維持したまままず勇の顔を、次に神楽坂の顔をじっと見つめて、
「なんだか懐かしいね、こうして三人が揃うのも。何か月ぶりかな。何か月どころか、一年以上ぶり?」
「さあ、覚えていないな。勇は?」
「僕も記憶してない。とにかく久しぶりということだけしか分からないよ」
「そうね、とても久しぶり。懐かしいを通り越して、通り越しすぎて一周回って、なんだか新鮮に感じる」
小毬らしい能天気な発言に、勇は白い歯をこぼした。横目にうかがった神楽坂の表情も柔らかい。
病院を目指して走っていたときには想像もできなかったくらい、なごやかな雰囲気に病室は包まれている。
勇は据わりの悪いような感覚を覚えているが、同時に、この雰囲気に身を任せても差し支えないと理解してもいた。小毬が重症で、無理をして明るく振る舞っているなら話は別だっただろう。しかし現実の彼女は、しゃべる元気としゃべりたい意欲を兼ね備えている。
「いろいろあったけど、わたしたち三人、なんだかんだけっこう仲がいいよね。学生時代の絆って揺るぎないように見えて、その実脆いでしょ。だから、自然に間遠くなったり、喧嘩別れをしちゃったりするのが普通。わたしたちのほうがむしろレアケースだと思うの。他の人たちの例を詳しく知っているわけじゃないけど、たぶんそんな感じだよね?」
「まあ、多くはないだろうな。俺たち三人はずっと地元に住んでいるから、そこらへんが肝なのかもしれない」
「なるほど、そうだね。たしかにそう。付け加えるなら、勇くんみたいな、なるべく仲よく穏やかにやろう、友情を保とうっていうスタンスで接してくれる、大人な子がグループにいるのも大きいと思うな」
「大人? ……僕が?」
看護師が居合わせていたら注意されていたこと間違いなしの、素っ頓狂な大声が出た。それくらい意外な指摘だった。
「どっちかというと、クッション役は小毬さんじゃないかな。僕たち三人は小毬さんを中心にまとまっていると思うけど」
「見解の相違か。まあでも、クッションは二つあってもいいんじゃないか? 俺みたいな怒りっぽいのが癇癪を起こしたときに、左右から挟み込んで鎮圧できる」
「神楽坂くんが怒りっぽかったのは昔の話だよ。昔と比べるとだいぶ丸くなったよね。いい感じに角がとれてると思うよ」
「もう二十六だからな。高校のときのノリを二十六でやるのはきついだろ。……まあ、俺はやんちゃな期間が人よりも長かったけど」
淀む場面、止まる場面もないわけではないが、会話はおおむね円滑に流れていく。円滑すぎないところがむしろリアリティがあって、自然だと感じられる。
この雰囲気、好きだな。勇はしみじみとそう思う。
しばらくこうしていたい気持ちもあったが、本来の目的を忘れたわけではない。一瞬会話が途絶えた隙をついて、すかさずこう切り出した。
「訊くのが遅れましたが、小毬さんはどうしてこんな大怪我を? 神楽坂によると壁が崩れて、それに巻き込まれたという話だったけど、そもそもどうして壁が崩れたんですか?
小毬は神楽坂に視線を投げた。投げられたほうは、打ち返すように軽く顎をしゃくる。彼女は真剣さと柔和さが併存した表情を恋人に向けながらしゃべる。
「今日は勇くんとデートの約束だったでしょ。朝の九時に、駅前の『ジキルとハイド』で」
「そうですね。その約束でした」
「わたし、ぎりぎりの時間に家を出たの。ぎりぎりというのは、速足で歩いたらぎりぎりで待ち合わせ時間に間に合うかな、くらいの時間という意味ね」
「はい」
「わたしね、急がなかったの。急がないどころか、わざとゆっくり歩いた。しかも、遠回りになるコースをわざと選んで喫茶店まで行ったの。
さて、いきなりですが問題です。わたしはどうして、そんな待ち合わせ相手に失礼な行動をとったのでしょうか」
「えっと、それは……。遅刻したことを僕に怒られるのが怖くて、喫茶店に行くのに抵抗があったとか?」
「怒られる? まさか!」
男二人が軽く驚いてしまうくらいの大声を小毬は発した。
「勇くんなんて怒っても全然怖くないよー。というか、本気で怒れないでしょ。怒っているときの勇くんって、役者さんが下手な演技をしているみたいだよね。本人は必死なのかもしれないけど、見たり聞いたりしているほうは思わず笑っちゃう感じの。そんな人に雷を落とされるのを怖がるなんて、あり得ないよ」
「恋人相手にひどい言い草だな、小毬」
「いいんだ、神楽坂。正しい意見だなって僕も思うし。でも、その説が否定されちゃったら、他の可能性は見当もつかないよ」
「あ、ごめん。そんなつもりはなかったんだけど、回りくどくなっちゃったね。単刀直入に言うとね、勇くんを弄びたかったの」
「僕を弄びたかった?」
「どういうことかというと、勇くんって怒らないでしょ。怒ったとしても、本当の意味で怒っていない。全然怖くないし、人格批判とか頭ごなしの否定とか、そういうこちらが傷つくようなことは絶対に言わないし、しない。そういうあなたをからかって遊ぶのが、昔からのわたしの趣味なの。からかうこと自体も楽しいし、ストレス解消のために利用することもあるし、みたいな。気づいていた? そういうあなただからこそ、わたしは恋人になりたいって思ったんだよ」
小毬は元恋人に一瞥をくれた。神楽坂は元恋人には見向きもせずに、ただ頬を指でかいただけだった。
勇はどう答えていいか分からない。
わざと約束時間に遅れるような真似をしても怒らない、だから好き、惹かれた、恋人になった――。
高校一年生のときからの謎、勇が魅力的な人間ではないのに友だち付き合いを続けた理由は、ようするにそういうことだったらしい。
「今日もわざと遅れて行こうとして、運悪く、問題の壁に差しかかったところでそれが崩れて、わたしはばらばらになった破片の下敷きになった。警察の人が話してくれたんだけど、もともと老朽化していて建て替える必要があったんだけど、工事費用が高額で所有者が二の足を踏んでいたみたい。わたしが被害者になったのは、正真正銘の偶然。わたしが通りかかるところを狙って誰かが故意に壁を壊したとか、そういうことではないんだって。
わたしが悪いわけじゃなくて、直す必要があるのに放置していた所有者に責任があるんだろうけど――でも、やっぱり、一番悪いのはわたしだと思う。だって、わざと遅れて到着するために遠回りをしようとして、普段は通ることをない道を通った結果の事故なんだから。今までさんざん勇くんをからかってきた悪人のわたしに、天罰が下った。そういうことじゃないかな」
違う、と勇は心の中で反論する。
天罰なんかじゃない。小毬さんは悪くない。悪いのは、ただただ運。絶対にあなたは悪くない。
「優しい人ほど傷つくなんて、そんなの不条理だよね。あってはならないよね。今まで、わたしは勇くんの優しさに甘えていたの。調子に乗って、痛い思いをしているのを知っていながら見て見ぬふりをしていた。ほんと卑怯な女……」
嫌な思いなんてしていない。小毬さんは悪くない。だから、お願いだから、自分を責めるのはもうやめて。
発声に備えて勇の唇は半分ほど開いた。しかし、けっきょく、この言葉も外には出さなかった。そして、いったん呑み込んでしまうと、もう一度気力を振り絞るのは難しい。
「これからはもっと人の気持ちを考えるようにしないと。人の気持ちを考えて行動できる人間にならないと。……ちょっと眠くなってきたから、静かにお願いね」
小毬は二人に向かって順番に微笑みかけ、目をつむる。
病室に静寂が落ちた。




