第十五話
小毬の微かな寝息が聞こえてきた。
前後して、廊下では人の行き来がちらほらと観測できるようになった。せわしなく行き来する病院関係者、どこか落ち着きがない見舞い客、今にも止まりそうに緩慢ながらも懸命に四肢を動かす入院患者。
「小毬、俺のことを責めていたな」
神楽坂がおもむろに小声でつぶやいた。
「直接的ではなかったけど、俺には分かったよ。小毬は遠回しに俺を責めてた。勇の穏やかな性格を褒めたり、俺のことを『昔と比べると丸くなった』なんて皮肉めいたことを言ったりして。お前はどう思った?」
「僕もその意図は察したよ。ああ、神楽坂を非難しているなって。小毬さんって、そういう当てつけみたいな真似はまずしない人だから、ほんのちょっと怖かったよ。ただ聞いているだけでも」
「やっぱりそうか。これは絶対にあいつの前では言えないから、眠った隙に言っておくんだが――やっぱり、恨んでいたんだなぁ」
「当たり前だろ」と語尾に被せるように言ってやりたかった。ただ、弱っている人間をいじめるような発言をするのはフェアではないとも思う。だから、ただ一言「そうだね」とだけ返した。
神楽坂は唇を少し尖らせ、不貞腐れているようにも見える顔を作って黙り込む。十秒ほどそうしてから語を継いだ。
「分かっていたけど、でも予想以上だったよ。復讐、みたいなものなのかな。三人が揃った場で言うなんて、とんだ復讐だよな」
「というよりも、神楽坂と二人きりのときに言うのが怖かったんじゃないかな。小毬さんも、まさかお前が当時みたいな真似をするとは思っていないだろうけど、恐怖は理屈では抑えきれない感情だし」
「……ああ、そうか。それもそうだな。気がつかないほうがどうかしている。……本当にだめな男だな、俺は」
「小毬さんとしては、今日でもうその件には区切りをつけたつもりでいると思う。神楽坂はむしろ喜ぶべきじゃないかな」
「区切りをつけた? なぜそう言い切れるんだ? 根拠を教えてくれよ、根拠を」
神楽坂はしゃべっているときもずっと小毬の寝顔を眺めていて、勇を一瞥すらしない。気まずいのだろう。プライドが邪魔をしているのだろう。
勇はそれが非難に値する態度だとは微塵も思わない。
「なんでって、恋人だからに決まっているだろ。小毬さんなら、小さな復讐をしただけできっと満足する。水に流す。そういう人だって僕は知っているから、断言したんだ」
「恋人だから、か。……強い言葉だな」
「当り前だよ。僕は小毬さんの恋人なんだから、誰かに誤解されれば解くために全力を尽くす。身を挺してでも小毬さんを守るための行動をとる。人間の友だちが相手でも、人間の言葉が通じない連中が相手でもね」
言葉を止めると同時、勇は寿司街道でトラの群れに遭遇した一件を思い出した。
あのときの勇は、小毬を守るための最善の行動をとれたとは言い難い。むしろ彼女が、自分と恋人の命を守るための最善の行動をとり、結果二人の命は助かった。「身を挺して守る」という理想からはかけ離れた振る舞いだった。
それにもかかわらず、神楽坂相手に偉そうなことを言っている自分を、沈黙の中で勇は嫌悪する。
情けない。恥ずかしい。
でも、情けない、恥ずかしいで終わらせたくない。
今後は、絶対に、なにがあっても小毬さんを守るんだ。
それが僕にとっての償いだし、責務でもあると思うから。
「まあ、そうだよな」
先に沈黙を破ったのは神楽坂だった。
「そう振る舞って当然だよな。……ああ、今日の俺、だめだな。とことんだめだ」
「一番痛い思いをしているのは小毬さんだろ。そんな痛みくらい、我慢しろよ」
弱っている人間をいじめるようで気が進まないと、さっきは辛辣だと受け取られそうな言葉を引っ込めた勇だが、今回は自制しなかった。
今日は珍しく、神楽坂相手にも強気に出られている。
本来、学生時代から付き合いがある同い年の同性に対しては、このくらいフランクな態度で接するのが普通なのだろう。
学生時代は、明確にとは言えないまでも上下関係があり、それが勇と神楽坂のあいだに壁となって立ち塞がっていた。
小毬と結ばれてからは、恋人を奪った後ろめたさが常につきまとった。
しかし、学生時代はもはや今は昔だし、罪悪感に苛まれる日々からはそろそろ解放されてもいい頃合いのはずだ。
小毬にとっての区切りは、彼女の昔からの友人である二人の男にとっても区切りであり、なおかつ転機でもあるのかもしれない。
「ねえ、神楽坂。この機会に言わなきゃいけないこと、伝えてもいいかな」
「なんだ、なんだ。犯罪を告白するとかじゃないだろうな」
丸椅子が軋み、神楽坂は体ごと勇を向いた。
「法に反することじゃないよ。ただ、お前は怒るかもしれないし、そうでなくても呆れるかもしれない。――キツネを逃がした。というか、帰した」
「それ、マジ?」
「ああ。三日坊主、いや四日か。僕なりに精いっぱい世話をしたつもりだけど、心を開いてくれなくて、自信なくなっちゃってさ。元は野生なんだし、元いた環境に帰したほうがキツネも幸せだと思って、Y山に放したんだ。……ちなみに、キツネはY山に住んでいるんだよね?」
「ああ、そうだ。そのキツネが山から出てきたところを見たわけじゃないが、この町で見かける野生生物の生息地はだいたいY山だからな。というか、水くさいじゃないか。事前に俺に相談の一つもしてくれないなんて」
「気が進まなかったんだよ。安易に生き物を飼うんじゃないとか、そういう説教をされるんじゃないかと思うと、怖くて。仮に正直に言っていたとしたら、したよね?」
「したと思うな。いや、確実にしたよ。野生の鳥獣と関わる仕事に従事する人間として、絶対に言わなくちゃいけない事例だ。友だち相手だろうと誰であろうと」
「……やっぱり?」
「当り前だ。というかそもそも、勇はどうしてキツネを飼い出そうと言い出したんだ? そういえば訊いていなかったけど」
「キツネという生き物に思い入れや思い出があるとか、そういうことでは全然ないんだ。ケージを覗き込んだら思いのほかかわいい顔をしていて、殺処分されるのはかわいそうだって情が湧いた、ただそれだけ。捨てネコを飼いたいとねだる幼い子どもと大差ないよ。……二十六の大の大人が、なにやっているんだって感じだよね。お前に小一時間説教されても仕方ないって覚悟しているよ」
「小一時間は長いな。でも、苦言の一つも言わないのは違うよな。お前もすでに分かっているみたいだが、言ってほしそうだからわざわざ言ってやる。お前は無責任だ。中途半端な心構えで飼い主に名乗りを上げるべきじゃなかった」
神楽坂はどこかさばさばと断罪する。怒られるよりも、呆れられるよりも、勇の心には響いた。下唇を軽く噛んで目を伏せる。
「幸いにも軽傷だったとはいえ、人に危害を加えたキツネだからな。クマやトラが頻繁に街中に出現していることからも分かるように、自然界もこのところ食料事情が厳しいらしくてね。人間が暮らす世界で食料を調達することを覚えた動物は、必ずまた出稼ぎに来る。その結果人間に危害を加えるというのも、ありがちな話だ。仮にお前が逃がしたキツネが同じ加害行為を犯したら、下る判決は確実に死刑だぜ。もう二度と、お前の助命嘆願を聞き入れるつもりはない。そこは覚悟しておけよ」
「ああ。そこまで甘ったれじゃないよ」
沈黙が下りる。勇はすぐに思い出した。
「そういえば、もう一つ言っていなかったことがある。キツネと、君の仕事、両方に関係することなんだけど」




