第十六話
「まだあるのか。今度こそやばい告白じゃないだろうな」
「また怒られそうだけど、もしかしたらかなり重要かもしれない。
キツネをY山に放した帰り、路面電車じゃなくて徒歩で帰宅したんだよ。そうしたら、東町二丁目あたりかな。古い民家が建ち並ぶ、さびれた雰囲気の地区なんだけど、その地区の細道を歩いていたときに裸馬を目撃したんだ。道を猛スピードで走ってくるから、壁に貼りつくようにして避けて、事なきを得たんだけど。青毛のウマだった」
「……マジかよ」
「報告を怠って悪かった。完全に言い訳になるけど、東町二丁目なんて辺鄙な場所、用もないのに通るのは不自然だろ。地名を言ったら絶対に事情を訊かれるし、そうしたらキツネのことも話さなきゃいけないんだって考えると……」
「勇、俺がマジかよって言ったのにはもう一つ意味がある。東町二丁目って言ったよな? 壁に貼りついて裸馬を避けた場所」
「そうだよ。その町名と番地で間違いないよ」
にわかに真剣さを増した神楽坂の口調と目つきに、軽く気圧されながらも首肯する。
「その壁はどんな壁だった? 生垣だったとか、漆喰塗りだったとか」
「壁というか、塀だね。ブロック塀。高さは三メートルくらいだったかな。日当たりが悪いせいかところどころに苔が生えていて、古そうだった」
「そのブロック塀だ。小毬は『壁』と言っていたが、正確には塀。小毬は東町二丁目のブロック塀の脇を歩いていたら、それが突然崩れたんだよ。一枚の壁だったものが、突如としていくつものコンクリートの塊に分解されて、小毬に降り注いだんだ」
勇は息を呑んだ。神楽坂は険しい表情で言葉を紡ぐ。
「コンクリートブロック、手で持ってみたことはあるか? 女や子どもなら持ち上げるのも苦労するような重さだ。そんなものが、一個じゃなくて十個もニ十個も、最高で三メートルの高さから降ってくるんだぜ? もっと大きな怪我を負っていてもおかしくなかった。
小毬の話によると、頭上で音がしたっていうんだよ。そのときは音の正体は分からなかったみたいだけど、積まれていたブロックが崩れはじめた音だったんだろうな。事態が呑み込めないながらも身の危険を感じて、その場から離れようとしたら、塀が崩れてブロックが降ってきたわけだ。咄嗟に両手で守ったから、幸いにも頭部への直撃は免れたけどね。
近くの住人の話によると、道で車同士が衝突した音かと思ったそうだから、さぞすさまじい衝撃だったんだろう。おそらく、運が悪ければ死んでいた。こうして小毬の寝顔を眺めながら話をできている今があるのは、奇跡なんだ」
沈黙が降りる。放置すれば永遠にでも続いていきそうな、深い、深い、無声状態。
「裸馬はたしか、災いの前兆を示すという話だったよね」
破ったのは勇。沈黙を打破する勇気があったというよりも、沈黙に甘んじる勇気がなかった。
「目撃後すぐに裸馬のことを君に報告していれば、未来は変わっていたかもしれない。小毬さんはその道を通ることもなくて、怪我はしなかったかもしれない。通っていたとしても、異変にもっと早く気がついて回避行動をとっていた可能性も――」
「いや、そうじゃない。そうじゃないよ、勇」
神楽坂は少し語気を強めた。
「お前を責めているわけじゃないんだ。小毬が怪我をして入院する羽目になったことも、裸馬を報告しなかったことも、キツネを山に帰したことだって、すべてお前に責任はない。俺が言いたいのは、下手をすれば死んでいたかもしれない事故に巻き込まれたのに全治一か月の怪我で済んで、こうして久しぶりに三人が同じ場所に集まって、和気あいあいと言葉を交わした。小毬は俺に対して強い想いを持っていたけど、決して感情的にはならずに、少なくとも表面的には和気あいあいと。それは俺たちにとって素晴らしいことで、喜ばしいことで、大げさでもなんでもなくて奇跡みたいなもので、俺たち三人はこの奇跡を祝福するべきだ。そう言いたいんだよ」
「……神楽坂」
「怪我をして入院する羽目になった小毬まで喜ぶべきだっていう意見は、あいつにとっては不本意かもしれない。でもとにかく、総合的に考えて、今回の件は俺たちにとってプラスになったっていう認識を俺は持ってるよ」
一度は飼うと言って引き取っておきながら、キツネをY山に帰したこと。
帰す直前になって、キツネの脚の怪我に気がついたこと。
裸馬を目撃した報告を怠ったこと。
トラと遭遇したさいの対応がまずかったこと。
最近の僕は情けない。とても他人からの尊敬を勝ち得るような振る舞いはできていない。
でも、周りの人間の反応と対応は、僕が思っていた以上に寛大だし、優しい。
ありがたいな、と思う。
それ以上に強く、期待に応えないとな、と思う。
もう二度と、大切な人に迷惑をかけたくないから。
「なんか……ありがとうな、神楽坂」
「おいおい、どうした急に」
本気で戸惑っているのが分かる神楽坂のリアクションだ。
「こういう機会もめったにないし、言っておかなくちゃいけない気がして。とにかく、今回の件をポジティブに捉えようっていう君の意見、正しいものだと思う。反省も大事だけど、今後どうするかがより大事になってくるんじゃないかな」
「ああ。俺たちは今と未来にしか生きられないんだから、未来を見ないと」
「あの件以来、神楽坂は遠慮がちだったけど、これからはもっと小毬さんと会ってあげろよ。一か月も入院しなければいけないとなると、小毬さんもさびしいだろうし。もちろん僕も積極的に見舞いに行くつもりでいるけど、話し相手は多いほうがいいから」
「小毬に対するよそよそしさで言えば、お前に勝る人間はいないだろ。前々から違和感があるんだよ。学生時代から付き合いがある同い年の恋人に、なんでさん付けなんだ? いい加減直せ」
「ああ、それね。一応、『出井さん』呼びから進歩はしているんだけど。もう癖になっているというか」
「大事に、大事に扱いすぎなんだよ。言っておくけど小毬は、人からよいしょされたりちやほやされたりするよりも、同じ目線でわいわい盛り上がるほうが好きなタイプだぜ? 恋人だった期間がお前よりも長い俺が言うんだから、間違いない」
「それは知ってるけど……」
「そういう『そうするべきなのは分かっていますが、僕の能力では無理です』みたいな、軟弱な心構えが諸悪の根源なんだよ」
神楽坂はいささか大げさに眉をひそめ、親友の眉間に人差し指を突きつける。
「びびりすぎなんだよ、お前は。お前がトラだと思っている猛獣は実はハリボテだし、渡ろうとしている川は実際よりも水深が浅いんだよ。一筋縄ではいかなさそうに見えても、暴虎馮河の心意気で――いや、使い方がちょっと違うか」
「ぼう……なに?」
「なんだ、知らないのか。暴虎馮河っていうのは故事成語だ。出典は中国の古典――論語だったかな? 虎と素手で戦い、大河を徒歩で渡るっていう意味で、ようするに無謀な真似をするということだな。本来は血気にはやって無茶をする人間をたしなめるときに使うんだろうけど、勇、お前は暴虎馮河くらいでちょうどいいんじゃないかって俺は思うぜ。無謀だと感じることをするくらいが上手くいくコツなんだよ。臆病なお前の場合は」
「暴虎馮河、か。うん、覚えておくよ」
「また一つ賢くなったな」
「ああ、おかげさまで。実践できるのかは別問題なんだろうけど」
「だから、そういう考え方が駄目なんだって」
「あ、そうか。そうだよね。トラに立ち向かう勇気を持つのも、僕の場合なかなか道のりが遠そうだなぁ」
二人の男は存分に語らう。
永遠にそのままであるかのように、窓枠に切り取られた外の世界には空色のみが広がっている。




