第十七話
小毬は昏々と眠っている。
動きが見られたのは、計二回、唇から微かに声をもらして小さく寝返りを打ったことくらい。どちらの機会にも、男二人は言葉だけではなく息まで止めて彼女の顔を凝視した。しばらく目は覚ましそうにない、という意見で二人は一致した。
「長々と話をして疲れたのかもしれないな。まあ、眠るのは悪いことじゃない。無理をして元気そうに振る舞うよりも断然ましだ」
神楽坂のその意見に、勇は何度も首を縦に振った。
やがて会話は途切れがちになった。神楽坂は休憩のために病室を出て、勇は残る。
勇は最初、心の中で、あるいは小声で、小毬に話しかけていた。しかしよくよく考えてみれば、彼女は生死の境をさ迷っているわけでも、怪我の痛みに苦悶しているわけでもない。椅子から立ち、室内の中をぶらぶらと歩きはじめる。
病室の設備や備品などにざっと目を走らせたあと、窓辺にたたずんで外の景色を眺める。視線はせわしなく動いたが、病院の正門付近で停止する。
正門のすぐ近くの敷地外、中途半端な地点に棒立ちしている女性がいる。
その顔に、強烈な既視感を覚えた。
肩越しに振り向き、ベッドの上の恋人の寝顔をまじまじと見つめる。それから再び、正門の女性を凝視する。
最初は見間違いかと思った。しかし改めて観察した結果、夢でも幻でもないと勇の心は断定を下した。
ガラスを両手で押して窓から体を離し、走り出す。
廊下は無人だ。走りやすさと、咎められる心配がないこと、二重の意味で都合がいい。休憩室の前に差し掛かると、神楽坂がテーブルに着いて飲み物を飲んでいる。
「神楽坂、ちょっと出かけてくる。もしかしたら長くなるかもしれない。小毬さんは一人にしても大丈夫だと思うけど、一応気にかけておいて。頼んだよ」
「あっ、おい。そんなに慌ててどこへ――」
「知り合いに会うだけだから」
階段を駆け下りる。走行から速足へと切り替え、息を整えながら、受付を通過して出入口の自動ドアを潜る。建物を出ると、正面に見えるのは正門。門柱になかば遮られているが、病室の窓越しに見た女性が同じ場所に立っているのが分かる。
再び走り出す。靴音が響き出したとたん、彼女の顔が持ち上がって勇の存在を捉えた。双眸が見開かれた。
出井小毬。トラから逃げ切った路地裏で忽然と姿を消したその人が、勇の視線の先にいた。いや、病室にいる小毬が本物の小毬のはずだから、偽小毬と呼ぶべきだろう。
偽小毬は彼に背を向けて走り出した。
勇が驚いたのは、その身体能力の高さ。体をターンさせ、駆け出す。その一連の動作は異様なまでに俊敏かつ滑らかで、走るのも速い。追いつけない、とすぐに悟った。
「ちょっと! 待って! 僕は君と話がしたいんだ! 話をする以上のことをするつもりはない。だから、止まって。お願いだから……!」
四肢を振りながら叫んだが、偽小毬は走るのをやめない。それどころか、振り返ったり立ち止まったりすることも。今は病院から真っ直ぐに伸びた道を愚直に走っているが、脇道に入られたら見失ってしまいそうだ。
だから、もっとも効果的だと思われる言葉をぶつけることにした。
「待ってよ。四日間もいっしょに暮した仲じゃないか、ねえキツネ。いや、フルーツロールケーキ?」
キツネという単語を口にしたとたん、偽小毬は一時停止ボタンを押したようにその場にフリーズした。そして、フルーツロールケーキという言葉に反応してゆっくりと気をつけの姿勢になる。勇は走行から歩行に切り替えてターゲットに近づく。
偽小毬はおずおずと体ごと振り向いた。
二人は手を伸ばしても相手にぎりぎり触れられない間合いで相対する。
偽小毬は握りしめた拳を胸に宛て、怯えているようにも見える。怖いし、不安だし、絶望もしていて、それでも一縷の望みに懸命にすがりつこうとしているような。
勇は「安心して」とでも言うように彼女に微笑みかける。
「僕は病院の病室で小毬さんといっしょにいて、病室の窓越しに君を見つけた。だから、君が小毬さんの偽物だということは見抜いている。君は僕の恋人の出井小毬さんじゃなくて、姿は小毬さんだけど実は別人で、正体は僕が昨日まで飼っていたキツネ。そうだよね?」
偽小毬はうなずいた。人見知りの子どものようなぎこちない首の動き。緊張がかなり強いのだろう。
「認めるんだ。素直だね。もし頑なに自分は出井小毬だと主張するなら、ちょっと面倒なことになると思っていたから、ほっとしてる。正直に答えてくれて、ありがとう」
どういたしまして、というふうに偽小毬は頭を下げた。
いい子だ、と勇は思う。出会い頭こそ逃げたけど、何度も呼ばれると立ち止まった。そして、怯えながらも勇との対話に臨んでいる。
おそらく、ちゃんとした理由があるのだ。キツネなりに筋が通った、出井小毬に化けなければならない理由が。
「再会できてうれしいよ。あんなに走ったということは、もう脚は治ったの?」
キツネ、無言で首肯。
「よかった。脚を怪我したのに山で生きていけるのか、心配したけど杞憂だったんだね。
質問ばかりになって申し訳ないけど、大事なことだから訊かせて。偽物だと判明した以上は、君を小毬さんと呼ぶことはできない。人間にとって呼び名はとても大切なものだから。君の名前は?」
「……ロタール」
「えっと、男の子なのかな?」
勇の真正面に立つ、見慣れた姿の女性はうなずく。
「そうなんだ。完璧に小毬さんに化けているし、女の子なのかなって思っていたから、びっくりしたよ。
じゃあロタール、君が小毬さんに化けた理由を訊いてもいいかな。歩きながら話したいんだけど、かまわない?」
ロタールが首を縦に振ったので、進む方向を指し示す。それに対してもうなずいたのを確認して、勇は歩き出した。
行き先は、路地裏でロタールと別れてK市民病院に向かう道中で見かけた公園だと、移動を開始してすぐに告げた。
「公園というのはね、遊具っていう、人間の子どもが遊ぶための大きな道具が置いてあって、他にもベンチとか砂場とか――」
必要性を感じたからこその説明だったのだが、隣を歩くロタールが話し手のほうは向かずにうなずいているのを見て、不要なのだと悟る。
ロタールは出井小毬を見事に演じきっていた。神楽坂からの電話がなければ、勇は最後まで偽物だと気づかないままだっただろう。人間の生態や人間界の常識についてある程度把握していうからこそ、そんな芸当ができるのだ。
「どこから話せばいいかが分からないんだね。無理もないと思う。でもね、それは僕も同じだよ」
うつむいていたロタールの顔がゆっくりと持ち上がり、勇の顔を直視した。
「だけど、それだと永遠に話がはじまらないから、そうだな。僕たちが出会ったところからなら一番話しやすいかもしれない。君は人間に危害を加えて、被害者の依頼を受けた神楽坂に捕獲されて、殺されそうになったんだけど、それを阻止するために僕が飼うことにしたんだ。自分が危うく殺されるところだったこと、ロタールは分かっていた?」
「うん。半分……」
「半分?」
「パパが言っていたんだ。野生の動物が、人間が生活している場所で檻に入れられたとき、キツネの場合は死ぬ確率が半分、生きたまま住んでいた場所に帰される確率が半分だって。トラやクマよりも生存確率は高いけど、安心はできない。だから人間に出会ったら、基本的には距離を置くようにしなさい。たっぷりと間合いを確保したうえで、自分に害をなす存在かどうかを注意深く見極めなさい。パパはそう教えてくれたよ」
「人間のことはみんなパパから教わったの?」
「うん。ぼくが小さいときから、いろんなことをたくさん教えてくれたよ。パパは変身の達人で、なんで達人かっていうと、人間のことをたくさん知っているから。パパはY山にたくさんいるキツネの中でも、一番って言ってもいいくらい人間に詳しいんだ」
父親に言及したのを境に、ロタールの語り口は明らかに軽やかになった。
相槌を打ちながら、地面から湧き水がじわじわと滲み出すように、喜びが胸の中をゆっくりと広がっていくのを勇は感じていた。大切な情報を知れたのももちろんだが、それ以上にロタールが普通にしゃべってくれるのがうれしい。
「なるほどね。人間の世界に興味があるってロタールは言ったけど、君が町中で人間に捕まってしまったのは、どうしてなのかな」
「人間界に一人で遊びに行きたいってパパにお願いして、許可をもらったから遊びに行ったんだ。人間界自体には、パパといっしょなら何度も行ったことがあるんだけど、一人前のキツネだって認められないと一人では行けないから」
一定以上の年齢になると自動的に承認されるのか。それとも、試験のようなものに合格しなければならないのか。今の発言からは判断がつかないが、神楽坂によるとロタールは「大人になりかけの子ども」だそうだし、恋人さえもまんまと騙すクオリティで小毬を演じていたから、どちらの基準もクリアしていそうだ。
「一人で行くことにしたのはぼくの意思だよ。人間界を一人で自由に歩き回るの、すごく楽しみだった。でも、同じくらい怖さもあって。この地区は人間が多いから行ったらだめだよとか、こういう人間は危害を加えてくるから見かけたらただちに逃げなさいとか、事前にパパからたくさん注意されていたから。出発の日が近づけば近づくほど怖くなってきたんだけど、でも勇気を出して人間界に出かけた。やっぱり行くのがすごく楽しみだったし、一人前だって認められたかったから。一人でもちゃんと人間界に行って帰ってこられるキツネに成長したんだって、心配性なパパに証明してみせたかったんだ」
「勇気を出したんだ」と言ったあたりから、ロタールは少し胸を張った。しかしすぐに、眉の形が傾斜の緩やかな八の字に変わる。
「ちゃんと気をつけていたつもりなんだけど、夢中になっていろんなところを歩き回っていたら、子どもの人間たちに見つかっちゃって、捕まえられそうになったんだ。その人間たちを振り切って、安全とされている地区まで戻ってくるのに成功したから、つい油断しちゃって。人間の世界にはハンターっていう職業の人がいて、僕たちみたいな人間に飼われていない動物の『狩り』をすることを、うっかり忘れていたんだ。追跡してきたハンターに追われて、必死になって逃げたけど脚に怪我をして、そのせいで捕まっちゃった。そうして檻の中で絶望しているぼくの顔を、檻を覗き込んだ勇が見たんだよ」




