第十八話
「そっか。危険性は分かっていたし、気をつけてもいたんだけど、失敗しちゃったんだね」
「うん、失敗しちゃった。経験が浅いうちが一番危ないから、パパといっしょのときの最低十倍は注意深く振る舞いなさいって、パパからは言われていたんだけど……」
「ロタールを捕まえたのは僕の友だちのハンターで、神楽坂っていう名前なんだけど」
ロタールはどこか泣き出しそうな顔でうなずいた。
「あいつから聞いた話だと、あいつの会社には『キツネに指を噛まれた。危険だから捕まえて処分してほしい』という依頼があったみたいだね。ロタールは人間に捕まりそうになって、パニックになってつい噛んじゃったのかな」
「人間の指は噛んでないよ。そもそも、勇の友だちの神楽坂に捕まるまでは、体と体が触れ合うくらい人間に接近を許したことなんてなかったし。人間の家の庭に置いてある植木鉢にいたずらするとかはあるけど、人間に直接危害を加えたことは一度もないよ」
「そうなんだ。聞いた話とちょっと違うね。……僕の勘違いかな」
もしかするとロタールは、怖い思いをしたのが、あるいは頭に血が昇ったのが原因で、そのときの記憶が飛んでしまったのかもしれない。あるいは、キツネ界では「人間に危害を加えるのは恥ずべきことだ」という価値観があって、それに背いてしまったのを認めたくなくて意地を張っているとか。
小毬の姿になったロタールの表情からは、真実は見え透かない。たしかなのは、今優先させるべきはそれを追求することではない、ということだ。
「君はミスをして捕まってしまったけど、僕が君を飼うことにして、君の命は助かった。このことをロタールはどう思った?」
「大変なことになっちゃったって思ったよ。人間に捕まったのも飼われるのも、はじめての経験だから。でも、勇はいい人そうだし、ひどいことをされるとは思わなかったよ。でもね、でもね――」
「でも?」
「今になって振り返ってみたら、やっぱり不安が強かった気がする。だって、ずっと勇の家で暮らすことになって、おうちには二度と帰れないかもしれないでしょ」
ロタールの瞳は潤んでいる。当時を思い出して、込み上げてくるものがあったのだろう。
勇は胸が締めつけられた。
自分が飼っていたのはただのキツネではなく、人間のような心を持ったキツネ。その認識のもとに、ロタールと過ごした五日間を振り返ると、彼の気持ちに配慮した振る舞いができていなかった気がする。ロタールは勇に「いい人そう」という第一印象を持ったそうだが、期待に応えられたとはとても思えない。
「じゃあ、実際に生活してみてどうだった?」
「考えごとをする時間が長かったよ。勇は僕をきちんとお世話をしてくれたけど、二日目くらいまではおうちに帰りたい気持ちのほうが強かった。でもそのあとは、勇に恩返ししなくちゃっていう気持ちになったんだ。だって、勇はぼくの命の恩人でしょ」
「……そんなふうに思ってくれていたんだ」
「うん。でも、恩返しっていっても、なにをすればいいのかが全然分からなくて。それに、ぼくは首輪をつけられているから、なにをするにしてもまずはそれを外さなきゃいけない。人間に化ければ一発なんだけど、人間に見られていたら無理だし、怪我のせいで体調も万全じゃないし、心の状態だって……」
「いろいろと不都合があって、難しかったんだね。ロタールが考えた恩返しというのが、小毬さんに変身ということでいいんだよね」
「そうだよ。何日目だったかな? 小毬が家に来たでしょ」
「二日目だね。僕とのデートの打ち合わせが目的だったんだけど、そういえば、縁側の君が入ったケージのそばで話をしたんだったね。小毬さんの話を聞いて、彼女に化けることを思いついたのかな」
「そうだけど、そうじゃないよ」
「どういうこと?」
「あのね、二人はとても仲がよさそうで、二人はお互いに相手のことが大好きなんだって分かって、とってもうれしくなったんだ。勇ともっと仲よくなりたいと思ったし、小毬とも仲よくなりたいって思った。でも、その時点ではまだ、小毬に化けようっていうアイディアは思いついていなかったよ。どちらかに化けたらもう片方は偽物だって気づくかな、意外と気づかないかもとか、そういうことをちょっと考えたくらいで」
「じゃあ、直接のきっかけは?」
「勇が一人で買い物に行ったこと、あったでしょ。小毬にお留守番を任せて。そのときにね、小毬、勇のことをいろいろ話してくれたんだ。勇が家から出てすぐに話しはじめて、途中で寝ちゃうまでのあいだ。内容は、勇のどこが好きとか、勇が今までにしたことへの感謝の言葉とか、そんな感じ」
小毬は勇が出かける前、デートの打ち合わせをしているさなかにも、時おりロタールに話しかけていた。投げかけた言葉に反応したように見えたのを根拠に、キツネは人語を解するという説を唱えたのは彼女だった。彼女がロタールに投げかけていた言葉はすべて、その説が正しいという前提のもとに発信されているようだった。
恋人が不在の隙に恋人への想いを吐露していたのだと思うと、勇の体温は上昇する。
「それから、後日予定しているっていうデートのプランを教えてくれたよ。喫茶店で待ち合わせをするところから、お寿司屋さんがいっぱい建ち並んでいる通りでお寿司を食べるところまで。それを聞いているうちに、楽しそうだなって、全然関係ないぼくまでわくわくしてきて。もし変身できるコンディションなんだったら、小毬のふりをして勇とデートできたら楽しいだろうな、失敗のショックも帳消しになるだろうし、恩返しにもなる。もしチャンスがあるんだったら試してみようかなって、そのときはじめて思ったんだ」
「実際に変身して、途中まで僕を見事に騙した、というわけだね」
「小毬はプランについてすごく詳しく話してくれたから、そのおかげだよ。きっと勇とのデートが楽しみで、楽しみで仕方なくて、キツネでもいいから話してみたくなったんだろうね。
上手に小毬になりきれたのは、勇からもらったハンカチも大きかったよ。勇に命を助けてもらったから、なにか恩返しをしたいって思った、というところまでは話したよね。それなのにハンカチまでプレゼントしてもらって、それも負けないくらいうれしくて、こっちの分も併せて恩返しもしなくちゃいけないなって思って。その思いのおかげで、難しかったけど上手にできたんだよ」
「ハンカチは、怪我を悪化させないためのものだけど……」
「知ってるよ。でも、別に血が出ているとかではなかったよね。もちろんちょっと役に立ったけど、ぼくにとってはプレゼントのようなもの。はじめて一人で人間界に来た記念品、みたいな。あの日小毬が教えてくれたから、赤いハンカチの意味は知っていたよ。トラはキツネにとって恐ろしい存在だし、トラ対策のためにっていう気持ちももちろんあった。でも一番の理由は、ぼくにとって大事なものだからだよ。肌身離さず持ち歩きたかったし、持っていたらデートも上手くいく気がしたんだ」
あと一歩で身震いするところだった。
ロタールが人間的な考えにもとづいて行動していたこと。自分が知らなかった場で、自分に関係のある人々が、いかに活き活きと活動していたか。ささいな出来事に、いかに多くの存在や想いが関与していたのか。
そのすべての事実が勇の魂を静かに震わせる。魂が震える現象のことを感動と呼ぶのだと、二十六歳にしてはじめて知った。
言葉が止まったのを不安に感じたらしく、ロタールが横顔を見つめている。君のせいで黙っているんじゃないよ、というふうに勇はロタールに微笑みかけ、
「また疑問が一つ湧いたよ。ロタールはどうして、変身が僕にばれたら逃げたの? 『実は変身していました、理由はこうです』って種明かしをしてもよかったんじゃないのかな。対応がちょっと腑に落ちないんだけど」
「だって、電話していたときの勇、怖い顔していたでしょ」
「……ああ、そうだね。あれは、小毬さんが事故に遭って入院したって聞いたから、そのせいだよ。別にロタールのことを怒っていたわけじゃない。というか、あの時点での僕の認識は『なぜ小毬さんが二か所に同時に存在しているんだ? ドッペルゲンガー?』って感じで、目の前の人が君だってまだ気がついていなかったから、怒る以前の問題っていうか」
「つまり、ぼくの勘違い?」
「そうなるね。ロタールははじめて一人でこっちまで来て、いきなり捕まって殺されそうになって、臆病になっていたのかもしれない。でも、僕は絶対に君を怒ったりしないよ。考えてもみて。僕は君の命を救った人間だよ? というかそもそも、小毬さんに変身した時点で君の大勝利だ。たとえ中身が別人だったとしても、小毬さんの姿をした人に乱暴な真似はできないよ」
ロタールの顔が太陽に照らされたように明るくなる。勇が両手を広げると、ロタールは突進するように抱きついてきた。顔を胸に思いきり押しつけ、両腕で強く締めつけてくる抱きつき方は、母親の優しさに感極まって肉体的な密着を求める子どもを連想させる。ただ、肉体は小毬なので、勇の心拍数と体温は不可抗力的に上昇する。
言葉巧みに騙して劣情を満足させる行為を誘導したようで、罪悪感がなくもない。でも、ロタールが満足してくれるならそれでいいと、自分に言い聞かせた。
抱擁を解いたのはロタールからだった。あたりをきょろきょろと見回したかと思うと、やけに真剣な目で勇の顔をまじまじと見つめ、
「公園ってどこにあるの? 話、終わっちゃったけど」
「あ……すっかり忘れてた」
勇は思わず苦笑いをこぼした。ロタールからの視線に気がつき、苦味のない微笑へと切り替える。
「もう少しで公園に着くから、遊具で遊ぼう。絶対に楽しいよ」




