第七話
目覚めたとき、山に帰すか、このまま飼い続けるか、勇の気持ちは半々だった。
しかし、庭の隅に置いたケージまで行き、その中で体を丸めていたキツネが物憂げな表情で見返してきた瞬間、「山に帰す」という選択肢を載せた皿が一気に最深部まで落ちた。
キツネは単に、寝ていたところを起こされたから寝ぼけていただけなのかもしれない。
しかし、選びがたい二択に長々と悩まされ、早く楽になりたいと心の底の底で思っていた勇は、こう解釈した。
キツネは精神的にまいっている。たぶん、ホームシックにかかっているんだ。神楽坂の約束を守れなかったのは情けないけど、命よりも大切なものなんてない。
山に帰してあげよう。
エサを与えたあとでケージに戻ってくれたのは助かった。
首輪を外すのは、つけるときと同じく問題はなかった。扉を閉めた音に反応してキツネが振り向く。勇は複雑な表情でその眼差しを受け止める。置き場所からケージのケースを持ち出してきて、ファスナーを開けながら告げる。
「さあ、行こう。三日前以来の外出だ」
キツネ入りのケージは相変わらず重い。三日前よりもさらに重く感じられる。エサをたくさん食べていくらか太ったからなのかもしれないし、単に三日前の重量を勇の体が忘れてしまっただけかもしれない。
所定の手続きを経て路面電車に乗り、出会った日に利用した一つ前の駅で降りる。
舗装された狭い道を登る。ケースを取り外して景色を見せてあげようかとも思ったが、万が一のことを考えてやめておく。通気のためにファスナーは少し開けている。植物や土の濃密な匂いは届いているはずだが、キツネは大人しいままだ。
未舗装の分かれ道があったので、そちらに進む。二百メートルほど登ると開けた場所に出た。バスケットコート一面よりもひと回り広いくらいの面積。奥手に控えた密生した草木が山のはじまりを告知している。
その緑のそばまで行き、ケースからケージを取り出して扉を開ける。ひとまず様子を見守る僕の視線の先で、キツネは自らの意思でケージから出た。なにかに導かれるような、ふらついてはいないがどこか不安定な足つき。はじめて柳内家の庭に連れてこられたときのような真剣さで周囲を観察している。
「キツネ、お別れだね」
真横にしゃがんで声をかける。呼びかけられたほうは振り向き、飼い主の顔をじっと見つめる。
「いろいろ考えたけど、君は山で暮らしたほうがいい。だって君は、なにをしているときでも物憂そうで、元気とやる気が感じられなくて、生きる意欲を失っているみたいだから。どうすれば元気になってくれるのか、僕なりに考えたんだけど、冴えたアイディアは浮かばなくて。最終的に、野生に帰るべきだっていう結論に至ったんだ」
キツネはまばたき一つせずに話を聞いている。
「君は人間の指を噛んだそうだね。たぶん、悪意があったわけじゃなくて、やむを得ない事情があったんだと思う。でも、君に非はないのだとしても、人間界のルールを破ってしまったわけだから、この世界は君にとって生きづらいのかもしれないね。そういう意味でも、君は帰るべきだ。……さようなら」
手を左右に振る。キツネはじっと勇のことを見ている。山を指差す。キツネは動きに釣られたように指されたほうを向く。数秒のあいだ山をじっと見つめ、それから歩き出した。
右後ろ足を引きずるような歩き方で。
「え……!? ちょっと、ちょっと待って」
突然の大声に、キツネは全身を硬く緊張させて勇を振り向いた。勇は慎重な足取りで獣へと接近する。キツネは逃げるそぶりはみせない。
「ちょっとごめんね」
ひざまずき、土下座をする途中のように頭を低くして、キツネの右後ろ脚を食い入るように見つめる。患部は内側にあった。膝に当たる部分の内側の毛が産毛程度にまで薄くなり、十円玉大ほどのピンク色の肉が目立っている。ほんの少し腫れてもいるようだ。
「怪我、していたんだね……」
勇は上体のかたむきを戻して呆然とつぶやいた。
彼はキツネの捕獲シーンを直接見ていないが、十中八九そのさいに負ったのだろう。
元気がない原因は精神的なものだと勇は考えていた。それが、まさか、怪我のせいだったなんて。
怪我が回復するまで待って、改めていっしょに過ごしてみて、本当に人間界に適応できるかを検証してみるという手もある。
「……でも」
怪我の痛みがキツネを大人しくさせていたのだとしたら? 人間の指を噛んだのが本性だとしたら?
やはり、ここでお別れしたほうがよさそうだ。
「あ、そうだ。いいものがあるんだった。ちょっと待ってね」
勇はポケットから真っ赤なハンカチを取り出し、右脚の患部に巻きつける。出血はしていないが、剥き出しのまま放置しておくよりも回復は早まるはずだ、という判断からの処置。
手が体に触れるにもかかわらず、キツネはいっさい拒絶しない。別れを察して、触られるのを特別に許可してくれているように思えて、切なさは増した。その感情を抑えつけながら、簡単にはほどけないようにしっかりと結びつけた。
「きつくないかな? うん、大丈夫そうだね。今度こそお別れだね。……さようなら」
再び手を振る。キツネはじっと勇を見つめる。手を振るのをやめても視線は外さない。行ってもいいよ、というメッセージを双眸に込めて見つめ続ける。
やがてキツネは視線を切り、山に向かって真っすぐに歩き出した。少し引きずるような足の運びだが、歩くのに支障はなさそうだ。
体が植物の陰に隠れる。ハンカチの鮮やかな赤色が、葉が大きく揺れる音とともに視界から消えた。
「……行っちゃったな」
勇はしばらくその場にしゃがみ込んでいたが、やがて立ち上がって山道を引き返した。
勇は駅舎の手前で道を折れ、線路沿いの道を進む。
人気のないほう、人気のないほうへと進む。そうするうちに、いつしか築年数の古い民家が建ち並ぶ、日当たりの悪い舗装道路を勇は歩いていた。人通りはまったくなく、静かを通り越して寂れた雰囲気だが、今の彼の心境にはふさわしい。
考えるのは、キツネのこと。
「怪我、してたとはなぁ……」
キツネは体を丸めて横になっている時間が長かった。とはいえ、連れ帰って四日目、いよいよお別れというときになって、はじめて気がつくなんて。
動物はしゃべらないうえに我慢強いから、病気や怪我を発見しにくいという話は聞いたことがある。だからこそ、飼い主の日ごろの観察が大事になってくる。その意味では、僕は完全に飼い主失格だ。
元気がないのは、怪我をしているから。そんな単純な可能性に思い至らなかったなんて。
ケージの中にいる時間が長かったとはいえ、キツネは外を歩き回ることが何度もあったのだから、そのどこかで気づいてあげるべきだった。
問題があったのは、日常生活についてもそうだ。
もっとなにか、キツネのためにできることがあった気がする。彼あるいは彼女の――そうだ、僕はキツネの性別をまだ知らない。名前だってとうとうつけないままだった。
「子ネコを捨ててきたトラウマを払拭する」という、利己的な動機から飼い主に名乗りを挙げたのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
「……それにしても、神楽坂と小毬さんにどう説明すればいいのかな」
後悔と反省がひと段落すると、そんな懸念が浮上した。
神楽坂はキツネを捕獲し、勇に譲渡を決めた張本人だ。報告すれば、「なぜ事前に俺に相談しなかった」と怒り出しそうだ。それとも、「ほら、言わんこっちゃない。お前に野生の動物を飼うなんて無理だ」? いずれにせよ、今よりももっと惨めな気持ちになるのは間違いない。
そして、出井小毬。
彼女はキツネをかわいがっていた。飼育を放棄したと知ったら、落胆するだろうし、勇に失望もするだろう。そして、その事実を報告せざるを得なくなるそのときは、デートをする明日になる公算が高い。
「どうしよう……」
遅くなる一方だった歩みがとうとう止まる。ちょうどそばにあった苔生したブロック塀に肩を預け、特大のため息。
直後、異音を聴き取った。
音は彼が進もうとしていた方向の遠方からだ。ボリュームが次第に高まっていく。なにか硬いものが規則的に地面を叩く音。急速に接近してくる。
勇はブロック塀に体を寄せて全身を緊張させる。
ほどなく、彼の視界になにかが映った。黒い塊だ。車、ではない。人間、でもない。向かってくるのは、人間よりも大きななんらかの生物。
正体をそこまで絞り込んだのと、正体を完全に悟るまでには、数秒しかかからなかった。
漆黒のたてがみ、漆黒の体毛、漆黒の瞳、漆黒の蹄、漆黒の尾――。
青毛のウマだ。
神楽坂が追っている、裸馬……?
裸馬は速度を緩めない。道端にたたずむ勇の存在を認識しているのか、いないのか。自分よりも大きな生き物に猛然と迫ってこられる恐怖は筆舌に尽くしがたい。
逃げられるものなら逃げたかった。しかし、ブロック塀が前方にも後方にもずっと続いていて、衝突するよりも先に逃げ込めそうな場所はない。彼の背丈の倍ほどの高さがあるため、よじ登るのも不可能。
塀に体の前側をぴたりとつけ、やり過ごす態勢に入る。それでも恐怖は克服できない。塀の表面に爪を立ててかたく目をつむる。
次の瞬間、なにかが高速で駆け抜けていった音と風圧。
風はすぐにやみ、音は急速に遠ざかる。
まぶたを上げて音を目で追うと、ふさふさした真っ黒なしっぽが曲がり角に消えたところだった。遠ざかってもなお、蹄がアスファルトを叩く音が響いていたが、ほどなく聞こえなくなった。
「裸馬……」
呆然自失から抜け出すには時間がかかった。
恐怖のあまり取り落としたケージが路上に転がっている。目と手でチェックしたが、どこも破損していない。裸馬は進路に転がる障害物を軽やかに飛び越えたらしい。
「神楽坂に報告しないと」
ジーンズのポケットからスマホを取り出したが、あと一回画面をタップすれば通話、というところで思いとどまる。
裸馬の目撃場所を伝えれば、「そんな辺鄙な場所でなにをしていたのか」と神楽坂は追求してくるだろう。そうなれば、キツネを山に帰したことを打ち明けざるを得なくなる。
「いや、でも、そんなことで連絡しないなんて……」
間違ったことだ。それは勇自身ももちろん気がついている。
命はなによりも尊い。裸馬の被害に遭って死者が出る悲劇を未然に防ぐために、速やかに神楽坂に報告するべき。無責任にキツネを飼おうとした恥ずべき汚点を告白することくらい、人命と比べればなんでもないのだから。
「いや、でもな……」
裸馬が走り去った方角を見据えたり、再度ブロック塀にもたれて腕組みをしたりと、かなり長いあいだ逡巡した。その末に勇が選んだのは、
「やめておこう」
スマホをポケットにしまい、うつろなケージを提げて歩き出した。
キツネが不在の柳内家はさびしい空気が蔓延していた。
鳴くことも、活発に活動することもなかったのに、不在というだけでこのさびしさ。はっきり言って、勇の想定をはるかに超えている。
そういう人だと理解しつつも、デート前日だというのに小毬は連絡の一つも寄越さないのも相俟って、気分は沈む一方だ。
『待ち合わせ時間、場所、デートプラン、すべておととい決めたとおりでいきましょう。明日、楽しみにしています』
勇はそんなメッセージを送ったが、案の定返信はない。
「まあ、小毬さんはそういう人だから」
声に出してつぶやき、返信がない件は無理やり割り切りをつけた。すると今度は、寿司街道に出没するトラの件が心配になってきた。
もしトラが現れて、僕たちに襲いかかってきたら、僕は小毬さんを守れるのか?
難しいんじゃないか。かっこつけたい勇に代わって、正直者の勇がさばさばとそう答える。念頭には、裸馬と遭遇した経験があった。
道が狭く、相手の体は大きく、さらには走行速度が尋常ではなかったとはいえ、ただ脇を走り抜けただけのウマ相手に、僕はあんなにも怯えた。あんな調子では、牙を剥き出しにして襲いかかってくる猛獣相手に、毅然と対応できるわけがない。
「神楽坂が協力してくれれば――」
トラの駆除の要請はすでに断られている。もう少し粘り強く交渉してみるべきだったと悔やんだが、後の祭りだ。
裸馬の目撃を神楽坂に伝えなかったのと同じで、もう済んだこと。
「いや、大丈夫だ。きっと大丈夫だ。デートの日はトラは絶対に出ないし、裸馬は誰かに危害を加える前にきっと捕獲される」
裸馬はかなり大きい。しかも全身が真っ黒で目立つ。そのわりに目撃情報が少ないのは、あの苔むしたブロック塀があった道のような人気のない場所を好んで走行しているからなのだろうが、プロフェッショナルの神楽坂なら必ず足取りを掴むはずだ。そしてきっと、速やかに捕獲、あるいは駆除される。そうに決まっている。
しかし、つぶやけばつぶやくほど虚しくなってくる。虚しさが臨界点に達すると、今度は怖くなってきた。
「こんなとき、ペットの一匹でも飼っていれば、心が少しは楽になるのかな」
無意識にこぼれた言葉が、自分自身に対する皮肉だと気がつくだけの心のゆとりさえ、勇からは失われていた。




