第六話
勇と神楽坂は約束の十二時半にステーキハウスの駐車場で落ち合った。
「どうだ、勇。成果のほどは」
「あるんだったらその場で連絡を入れているよ。神楽坂は?」
神楽坂は外国の俳優のように肩をすくめた。予想どおりの反応に、勇の顔に薄い笑みが浮かぶ。二人は黙って制服を脱ぎはじめた。
二人は店の看板メニューである牛サーロインステーキがメインのセットを注文し、舌鼓を打つ。
神楽坂はおかわり自由のライスを、茶碗三杯は軽くありそうな量を皿に装い、大口を開けて頬張ってはろくに噛まずに嚥下している。やけ食いの趣がなくもない。
勇がそれを指摘しなかったのは、神楽坂の機嫌がよくなさそうに見えるからに他ならなかった。
「まあ、仕方ないさ。いろんな意味でしんどいけど、仕事だと思って駆けずり回るしかない。これだけ目撃者がいるんだから、いずれぶち当たるだろ」
神楽坂の物言いはさばさばとしている。どことなく物憂げでもある。ステーキを切り分け、ブラックペッパーソースを経由してから口へと運ぶ、一連のナイフとフォークの動きのほうが活発なくらいだ。
「ねえ、神楽坂。手伝いは午前だけという話だったけど、午後からも手伝おうか?」
紙ナプキンで口元を拭い、勇はおもむろに提案した。大きな肉片を口に押し込んだばかりの顔が、押し込んだばかりのものを咀嚼しながら相席者を見返した。
「その代わり、頼みたいことがあるんだ。裸馬の件が片づかない中でこのお願いは不躾かもしれない。無理にと言うつもりはないけど、説明だけはさせてほしい」
「なんだよ、もったいぶって。単刀直入に言えよ」
「明後日、小毬さんとデートする予定なんだけど」
勇は説明する。小毬の希望で昼食は寿司街道で食べることになったが、その界隈では最近トラが頻繁に出没しているらしい。彼女は根拠もなく楽観しているが、僕は不安でたまらない。
「だから、神楽坂に寿司街道に張り込んでもらって、もしトラが出た場合は排除してもらいたいんだ。もちろん、報酬は既定の額をちゃんと払う。規定の倍、いや三倍払ってもいい。……どうだろう?」
「なるほどね。事情と言い分は分かった」
神楽坂はフォークを置いて座席の背もたれにもたれ、腕組みをした。彼と付き合いが長い勇には、その一連の動作を見ただけで返事の方向性を察した。
「残念ながら要求は呑めない。協力したい気持ちはあるけど、裸馬の件には真剣に取り組みたいんだよ。お前や小毬が大事じゃないということじゃなくて。分かるだろ?」
「分かるよ。そもそも、この話はするべきじゃなかったのかもしれない。……悪かった」
「いや、謝るようなことじゃない。仕事に体を拘束されているだけで、協力したい気持ちはしっかりあるんだから。というわけで、日々野生動物と戦っている俺が、気休め程度ではあるがトラ対策を教えて進ぜよう」
「トラ対策?」
神楽坂はうなずいて腕組みをほどき、ステーキの切れ端を口に放り込んだ。何度か咀嚼したのちにグラスの水で流し込み、
「ネコって素早く動くものにじゃれつくよな。紐とか、布切れとか、そういうものに」
神楽坂はテーブル脇の紙ナプキンを一枚とり、自らの顔の前でひらひらと振る。勇はうなずく。
「正確にはネコ科の動物って言うべきだね。YouTubeとかで観たことないか? ライオンが子ネコみたいにボールを前足で転がして遊んでいる動画。あるいはマタタビを与えられて陶然としているところを。なにが言いたいかというと、サイズは違えども、ネコ科の動物はみな習性や嗜好を同じくしているってことだ」
「だからトラも紐とか紙切れとか、そういうものにじゃれつきますよってことだね。それがトラ対策とどう関係が?」
「トラに襲われたときはな、勇、真っ赤なハンカチを投げろ。ボールみたいにくしゃくしゃに丸めて、敵の鼻面めがけて投げつけるんだ」
神楽坂は紙ナプキンを手早くボール状に丸めてテーブルの上に放る。ステーキをのせた鉄板の縁に当たって静止する。
「ボールはぶつかる手前で自然にほどけて元のハンカチに戻る。虚空を舞うひらひらしたそれにトラは関心を惹かれ、じゃれつく。人間を襲うことよりも本能に従う――ようするに、素早く動くものと戯れることを優先させる。話をまとめると、一枚のハンカチと、いざというときに行動に踏み切れる勇気さえ持ち合わせていれば、逃げるための時間稼ぎができるってことだな」
唖然として見返した神楽坂の顔は、いたって真剣だ。
「いや、マジで効果的なんだって。実証実験でも効果は確認されている。騙されたと思って、やってみ」
「できればやりたくないな……。ていうかそれ、本当に効果あるの? 実証実験って言ったとき、お前、にやついていたよな」
「もともとこんな顔だよ。いや、マジで効果あるからね。実証実験は嘘で、単なる経験則なんだけど」
「嘘じゃないか」
「ただ一つ注意してほしいのが、ハンカチは赤いものじゃないと効果がないってことだな」
「どうして赤なの? マタドールが操る赤い布的な意味合い?」
「マジレスすると牛は赤色を識別できないぞ。たしかトラも同じだったはず」
「そうなんだ。で、赤じゃないといけない理由は?」
「さあな。実験したわけじゃないから俺には分からない。でも、とにかくそういうことになっているんだよ」
「……大丈夫かな」
「寿司街道は人出が多いから、最悪、他の人間を犠牲にして逃げればいい。人間を食うようなトラは、栄養状態や老若男女の違いで獲物を選ばないから、近くにいる高齢者なんかを囮にすれば逃げおおせられるんじゃないか。ただし小毬は、小毬だけはしっかり守るんだぞ。頼りにしてるぜ」
だったら僕の頼みを承諾してくれよ。
そんな言葉が喉元まで出かかったが、これ以上食い下がっても神楽坂をいらつかせるだけだろう。
「恋人なんだから当たり前だ。なにがあおろうと小毬さんだけは絶対に守る。約束するよ」
力強くそう答えて、長らく止まっていた手をまた動かしはじめた。
トラ対策の赤いハンカチのことは、ステーキハウスの外で神楽坂と別れるころにはもう失念していた。しかし、キツネのエサを購入するために立ち寄ったスーパーマーケットで、その色のハンカチを見かけて思い出し、
「お守り代わりに持っておこうかな。本来の用途で使うのでもいいし」
豚こま切れ肉と鶏むね肉とともに購入した。
帰宅すると、キツネはケージの中で体を丸めていた。最後に見たときも同じ場所、ほぼ同じ姿勢だ。ずっとその姿勢だったわけではないだろうが、込み上げてくる切なさは誤魔化しようがない。
「キツネ、ただいま」
キツネのためというよりも、切なさを和らげるために呼びかける。名無しの獣は両目を半分開いて勇の存在を確認し、すぐにまぶたを閉じた。
どうしてキツネはこうも元気がないのだろう。エサはきちんと食べているから、体調に深刻な問題は抱えていないはずだけど。僕のやり方にどこかまずいところがあるのだろうか。
「……やっぱり、飼うべきじゃなかったのかな」
キツネを家に連れ帰って以来、何度となく思ってきたが、声に出したのははじめてだ。
それを分水嶺に、「キツネを飼うべきじゃなかった」という後悔の念が見る見る膨らんでいる。
勇はダイニングテーブルの椅子に浅く腰かけ、今後もキツネの飼育を続けることの是非について考えてみる。
キツネは弱っているところを保護されたわけではない。人間の指を噛んだのだから、むしろあり余るほど元気だった。
しかし、勇の家に来てからのキツネは一転して大人しくなり、ケージから出ることすらまれだ。元気がなくなった理由は不明。今のキツネを見ても、我が家の庭を元気いっぱいに走り回る未来はとても想像できない。
「Y山に、逃がす……」
無意識にこぼれた言葉に、勇は目が覚めた思いだった。
町中にそびえるY山では多種多様な野生生物が棲息する。今飼っているキツネがもともと住んでいたのは、まず間違いなくそこだろう。
故郷のAから、別の自然環境であるBに移動させるのは問題かもしれない。しかし、故郷に戻すのであれば支障はないのでは?
むしろ、野生時代を忘れないために、なるべく早期に帰したほうがよくないか?
「……いや、だめだ」
勇は頭を振る。
責任を持って飼うと神楽坂には約束している。いくらそのほうがキツネのためになるとはいえ、その対応はあまりにも無責任じゃないのか?
彼は葛藤し続けた。尻が痛くなるまでは同じ椅子に腰を据えたまま。椅子を立ってからも、状況や場所を問わずひっきりなしに。
しかし、就寝時間が来ても結論は出なかった。




