第五話
「そもそもキツネさんに一人で留守番を任せるのって、どうなんだろうね」
ロールケーキを食べて紅茶を飲み干し、いざホームセンターへ向かおうかというときになって、小毬がそんなことを言い出した。ケージの中のキツネを真上から見下ろしながらの発言だ。彼女は食べているあいだも、恋人が皿洗いをしているあいだも、ケージの横から一歩も動こうとしなかった。
「大丈夫だと思いますよ。昨日の夜、僕が寝ているあいだもずっと大人しかったし、鳴き喚いて近所迷惑なんてことにはならないんじゃないかな」
「だとしても、さびしい思いをさせるのはかわいそうだよ。……わたし、キツネさんとお留守番しようかな」
「できませんよ。お客さんにそれはさすがに失礼ですから」
しかし、無理を道理にしてしまうのが出井小毬という人なので、
「お客さんじゃなくて恋人だから。二人で賢くお留守番するから、トラとクマに気をつけていってらっしゃい。裸馬にもね」
ということになった。
「キツネのことはそっと見守るだけにしておいてくださいね。余計なちょっかいはかけちゃだめですよ」
別れぎわにそう忠告すると、小毬は「子どもじゃないんだから」と笑っていた。視線はキツネに釘づけで恋人のほうは一瞥もせず、勇は軽く嫉妬してしまった。
買うものを買って帰宅すると、柳内家は静かだった。買ってきたものを然るべき位置に置いているうちに、少し静かすぎる気がしてきた。
居ても立っても居られなくなり、荷物を放り出して縁側まで走ると、正座した小毬がケージにもたれかかっていた。中では黄金色の体の獣が丸くなっておさまっている。
「小毬さん! どうされたんですか? なにかトラブルでも――」
覗き込んだ顔は、眉はリラックスした形で静止し、唇は微かに開いている。安眠の中にいるのは一目瞭然だ。
慌てふためいた五秒前までの自分も忘れて、勇はその顔に見とれた。
小毬は突然、「んっ」と声をもらしてケージから上体を離し、両腕をめいっぱい天へと突き出して伸びをした。
勇はその隙に大慌てで姿勢を正す。恋人が寝ぼけ眼を注いできた瞬間に声をかけた。
「眠っていたんですか? 後ろから見たら、ぐったりしているように見えたから慌てましたよ。そんなに待たせたつもりはなかったんですが」
「わたし寝てたの? 恥ずかしいな、人のお家で」
はにかみ笑いがこぼれる。それに続いて、人目もはばからずに大口をあけてあくびをしたので、勇はどぎまぎしてしまった。
「それは全然かまわないですけど。そんなことより、大丈夫ですか。キツネになにかされませんでしたか」
「寝ていたこととキツネさんは無関係よ。むしろ関係は良好。勇くんが買い物をしているあいだ、ずっとお話をしていたから」
「話?」
「もちろん相槌は打たないけど、こっちが話していることの内容を理解して、ちゃんと耳をかたむけてくれているって感じるの。楽しかったよねー、キツネさん」
ケージを覗き込むようにして微笑みかける。キツネは顔を上げて小毬を一瞥し、庭に視線を戻した。人声が自分に向かって飛んできたから反応しただけなのだろう。ただ、呼びかけられたと分かったから注目したように見えなくもない、そんな挙動ではあった。
「そろそろお暇しようかな。キツネさんとお話できて満足できたし。明後日のデート、楽しみにしているね。勇くんもキツネさんも、ばいばーい」
子どものように大きく手を振って小毬は帰っていった。
勇はケージをゲッケイジュの陰に静かに置いた。キツネは体を丸めたまま首をもたげ、ゴムのような黒い鼻を絶え間なくひくつかせる。
ケージの扉をそっと開ける。キツネは接近した手に注目したが、すぐにそっぽを向いてにおいを嗅ぐ作業に戻った。
キツネのために買った真っ赤なリードは、すでにゲッケイジュの枝に結びつけてある。リードの先端には、同じく赤一色の首輪を接続済みだ。あとは首輪をキツネの首に装着する工程を残すのみ。
「首輪、つけるよ」
キツネが再び勇の手元に注目した。
首輪をキツネの首に素早く巻きつけ、留め金をかける。上手くいった。かたいような柔らかいような不思議な感触の黄金色の体毛からそっと手を離すと、おのずとため息がこぼれた。
「おいで。扉は開いているよ。そんな窮屈な場所からは出ておいで。ほら、こっち、こっち」
扉を開け放したまま、リードがぎりぎり届かない距離まで後退し、檻の中の獣に向かって手招きをする。キツネはきょとんとした顔で飼い主を見ている。キツネは人語を解するという説を小毬は唱えていたが、勇の言葉が伝わっているようには見えない。
「もう密室ではなくなったよ。外に出られるよ。さあ、おいで」
関心は勇から庭へとシフトしてきたようで、また鼻の動きがせわしなくなってきた。
勇は小さく息を吐いてケージに歩み寄る。しゃがみ込んで見下ろしたキツネは、もはやにおいを嗅ぐことにも飽きつつあるように見える。
噛んできたら、嫌だな。外に出したとたん暴れ出したら、どうしよう。
懸念はある。一方で、自分が怖がりすぎていることにも勇は気づいている。
細く長く息を吐いて覚悟を決めた。そっと首輪を掴み、
「ごめんね」
外に向かって思いきり引っ張る。ちょうど首輪とケージの出口が重なったあたりで抵抗感を覚えたが、それを上回る力で一気に引きずり出した。
首輪からはただちに手を離した。後ろ歩きをして距離をとり、様子を見守る。
キツネは体に付着した水滴を払うように全身を震わせた。そして、興味津々といったふうに周囲を見回す。尻を地面にぴったりとつけた姿勢で、その場から動こうとしない。時間が経つにつれて、尻を地面に押さえつけている重力が弱まっていき、下半身の緊張が緩和されていくのが見てとれる。
やがて、依然としてその場から一歩も動かないものの、尻が地面から四本の脚でしっかりと立った。
「大丈夫そう、かな」
勇は口の両端を上げ、庭から縁側へと上がる。別室からトイレや寝床などの必要なものを持ってきては、任意の地点に置いていく。
キツネがその場から動こうとせず、庭を眺めるのではなく勇の動きを目で追っていることは、作業しながらも彼は気がついていた。ただ、いずれ新しい住まいに興味を持って散策でもし出すだろうと、高をくくっていた。
しかし、キッチンで水入れに水を入れて戻ってきて、唖然とさせられた。
キツネがケージの中に戻っているのだ。体を丸めて目をつむるという、見慣れたポーズをとっている。
扉は開け放たれているにもかかわらず、寝床などの体を休める場所も用意してあるにもかかわらず、定位置に。
僕は、やっぱり、キツネを飼うべきではなかったのでは……?
水入れをなかなか地面に置けなかった。
キツネはケージの中で居眠りをしたあと、再び外に出て庭木や地面のにおいを嗅ぐなどした。興味深そうに植え込みの中に上半身を突っ込んでもいた。落葉樹が落とした枯れ葉の前足でかき分ける姿も見られた。水を飲んでいるところも見た。喉が渇いていたらしく、舌を長いあいだ動かしていたのも知っている。
システムトイレに排泄したのも確認した。
昼食には用意していた鶏ささみを平らげた。
キツネはゆっくりと新しい環境に適応している。
しかし、「僕はキツネを飼うべきではなかったのでは?」という思いはずっと胸に残り続けた。
『また裸馬が出たらしい。例によって人員不足だから、手伝ってくれ』
キツネの世話を終え、自室の安楽椅子に深々と腰かけたところで、神楽坂からのメッセージが届いた。
『分かった。キツネのことで親切にしてもらったし、報酬は半額でいいよ』
『そこまでの働きをした覚えはないけどな。でもまあ、お前がそう言うならそれでいこう。昼までがっつり手伝ってくれ。報酬の半額と、昼飯でどうだ。ステーキをおごってやる』
『いいね。交渉成立だ』
通知された時刻よりも十分ほど早く、白亜のワゴン車が柳内家の門前に停まった。慌ただしく玄関ドアを施錠して表に出ると、運転席のドアが開いて神楽坂が顔を見せた。
「神楽坂、早いじゃないか。少し慌てたよ」
「五分以内だから誤差の範囲内だ。さあ、乗ってくれ」
助手席に乗り込む。車内をうっすらと漂う獣臭。シートの硬さ。勇がドアを閉めるや否や、車が発進する。
「キツネに留守番をさせるのははじめてだから、それだけが心配だね。二日過ごしてみた感じ、たぶん大丈夫だと思うけど」
後部座席に用意されていた制服――オレンジ色のベストと腕章――を身に着けながら勇は言う。
「飼い主が大丈夫だと思うなら大丈夫だろ。キツネは元気か? エサは食べてる?」
「大人しくて、ケージからあまり出ないね。でもエサはしっかり食べているから、その点では安心してる」
「それはなにより。キツネに名前はつけたか?」
「いや、まだだよ。早く決めなきゃとは思っているんだけど」
「相変わらず優柔不断だな。いつまで経っても勇気も意気地もない。勇の名前に偽りありだな」
神楽坂はさも呆れたというように小さく息を吐いた。
言い返したい気持ちはあったが、沈黙を返した。
自分から飼うと言い出したくせに、二日目の時点で早くも自信が持てなくなっていて、その心の負担が命名を後回しにする原因になっている。
そんな情けない告白、できるはずがない。
「じゃあ、本題入るぞ。裸馬の件だけどな――」
今日はおとといぶりに姿を見せたこと。目撃証言を聞いたかぎり、おとといに目撃された裸馬と同一個体で間違いないこと。裸馬による損害は現時点では確認されていないこと。裸馬に振り回されなければならないことへの嘆きと愚痴。
「はい、到着」
停車し、二人は降車する。
田畑と古い木造民家が混在した地区だ。ワゴン車は狭い舗装道路の路肩、いくつかの粗大ごみが置かれた空き地の前に停まっている。周囲に人気はない。彼方には小高いY山の緑が見える。
「神楽坂、ここは?」
「裸馬が目撃された領域のだいたい中心って感じの場所だ。といっても目撃情報自体がまだまだ少なくて、足取りが掴めないから、聞き込みしないといけない。手分けてやろうぜ」




