第四話
「あ、キツネさんだ!」
勇がキッチンでロールケーキを切り分けていると、朗らかな声が遠方でぱっと花開いた。包丁を置いて慌てて駆けつけると、小毬は四つん這いになってケージを覗き込んでいた。双方ともに興味津々といったふうに双眸を見開き、見つめ合っている。
軽く突き出された無防備な尻に、勇は状況も忘れて釘づけになる。しかしそれも、視界の端でなにかが動き、そちらへと視線を転じるまでだった。
恐る恐ると形容するにはあまりにも大胆に、小毬は右手の人差し指をケージの中に挿し入れて――。
「ちょっと! ストップ、ストップ! 危ないですよ、小毬さん」
小毬は反射的に右手を引っ込めた。少しぐらついた体を、引っ込めたばかりの右手を床について安定させる。その場に正座して肩越しに勇を振り向き、
「びっくりした。ロールケーキは?」
「切りましたけど、嫌な予感がしたので矢よりも速く飛んできたんです。ケージに指を入れようとしているのを見て、マジで焦りましたよ……」
「大げさだよ。ケージの中で暴れ回っているんだったら、さすがに触ろうとはしないよ。勇くんは相変わらず臆病だよね」
小毬は呑気に笑っている。勇はあえてはっきりと分かる形でため息をつき、気持ちを切り替えるとともに、「目の前でため息をつくくらいには、さっきの向こう見ずな行為に怒っている」ことを表明した。
「伝え忘れていましたが、そのキツネ、人の指を噛んだ前科がありますよ。大人しそうに見えて、いざというときに牙を剥きかねないから、僕は焦ったんですよ。ていうか、ほんとに怪我とかしてません? 痛みはないけど牙が指を掠めたとか……」
「ない、ない。キツネさんは口を開けてすらいないのに、怪我するわけないでしょ。ほら、とってもきれい」
小毬は右手を勇の目の前に差し出してくるくると半回転をくり返す。細く、白く、傷一つない指。彼女の顔の笑みは継続中だ。
「この子ね、あたしがケージを覗き込んだらね、じっと見返してくるの。その瞳が赤ちゃんみたいに真剣で、それがかわいくて。ぬいぐるみみたいだよね、もふもふふわふわで」
「とにかく、怪我はないみたいでよかったです。マジで焦った……」
「大げさね、こんなにかわいいのに」
小毬の視線は再びケージの中に注がれる。
「ところで、この子の名前は? 男の子? 女の子?」
「名前はまだ決めてません。オスかメスかも分かっていないです。ずっとケージの中なので」
「ああ、そうだったんだ。勇くんらしくもなく適当だね」
「すみません。一人暮らしを始めてからペットを飼うのははじめてなので、気が回らないこともたくさんあって」
「この子はたぶん女の子じゃないかな。きれいな顔してるもの」
根拠としては弱い気もしたが、「そうですね」と同調しておく。
「まずは名前を決めてあげなきゃ、だね。かわいそうだもの。じゃあ、フルーツロールケーキを買ってきたからロールケーキちゃんね。決定! ぱちぱちー」
「あの、一応僕が飼い主なので」
「『ロールケーキ』じゃなくて『フルーツロールケーキ』にしておく?」
「いや、そういうことじゃなくて」
「いいと思うけどな、ロールケーキちゃん。キツネさんもロールケーキもふわふわでかわいいでしょ」
「まあ、そうかもしれませんが。名前も含めて、話すべきことをダイニングで話し合いましょう。ロールケーキも用意してるので」
「えー。キツネさん、見たい」
「話し合いが終わってからにしましょう」と言ってもよかった。ただ、少し拗ねたような表情で、しかも上目づかいでお願いをされると、実質的な選択肢は一つに絞られる。
「分かりました。じゃあ、ロールケーキと紅茶はこっちまで持ってきます」
小毬は「やったー」とガッツポーズし、胸の前で両手をぱちぱちと鳴らした。
床に置いたさいに紅茶が少しこぼれたので、勇はリビングからティッシュを持ってきた。不在の隙に、小毬はフルーツロールケーキをキツネに与えようとしていた。
キツネはケーキぎりぎりまで鼻を近づけてうごめかせたが、そっぽを向いた。「あー」という残念そうな彼女の声。
「だめですよ、小毬さん。人間の食べ物を動物にあげるのは。糖分に塩分に化学調味料――動物にとってはよくないものばかりですから」
こぼれた紅茶をティッシュで拭きながら苦言を呈する。
「なんだか意識が高い人のお言葉みたいだね。わたし、意識がY山くらい低い人だから、頭が痛くなってくる」
小毬は食べさせようとしていた一口分を自分で食べ、「うん、おいしい」とうなずく。
恋人に言葉で促されて、勇もロールケーキをフォークですくう。
「おいしいですね。シンプル・イズ・ベストなホイップクリームとスポンジ生地に、小さいけど存在感のある四種類のフルーツが絶妙に調和していて、無限に食べられそうです」
「あはは、なんだかグルメ評論家みたいなコメントだね」
二人は上機嫌にロールケーキを堪能する。
「そういえばだけど、どうしてこの子を飼おうと思ったの? 勇くんって特別動物が好きなイメージはなかったけど」
口元についたクリームを指で拭い、その指を舌でぺろりと舐めて小毬は問うた。彼女はフォークを動かす手を止めてキツネをじっと見入ったり、性懲りもなくロールケーキを食べさせるそぶりを見せて勇を慌てさせたりするせいで、食べ進めるスピードが遅い。
「かわいそうだと思ったんですよ。この子は人を噛んで、といっても指を噛んで軽傷を負わせただけだったんですけど、そのせいで殺処分しなければいけなくなって。だけど、見てのとおり優しそうな顔をしているし、命を終わらせるのはかわいそうだと思って、神楽坂に『僕が飼いたい』と申し出ました」
「そっかー。そんな経緯があったんだね」
小毬は皿にこぼれたいちごのかけらを器用にすくって自らの口へと運び、咀嚼しながらキツネの顔をじっと見つめる。キツネはリラックスしているように見えるが、気だるそうでもある。
「何度見てもきれいなお顔だね。優しそうなお顔。わたしがちょっかいをかけてもずっと大人しく横になっているし、とても人に危害を加えるような子には見えないよねー。この子が犯したっていう傷害事件、実は別キツネの犯行とかじゃない?」
「他にキツネの目撃情報はないみたいだし、残念だけど噛んだのはこの子で間違いないと思います。窮鼠猫を嚙むということわざもありますし」
「そっかー。でも、追い詰められたネズミになっていないときはこんなに大人しいんだから、外に出してあげたいよね。自由に走り回らせてあげたい」
「必要な道具は今日買いに行くつもりです。小毬さんが帰ったあとにでもゆっくりと」
「えー、それ、なんかわたしが邪魔者みたい」
「あ、いや、そんなつもりは。荷物が多くなるし、買い物時間が長くなりそうだし、迷惑かと思いまして」
「面倒なことを分担するのが恋人同士でしょ。わたしも手伝わせて。いっしょに行きたい」
言われてみればたしかに、小毬の同行を拒む合理的な理由はない。
「じゃあ、明後日のデートの打ち合わせが終わったあとで、二人で買いに行きましょうか」
「はーい。じゃあ、今すぐに出発しよう。善は急げ!」
「えっと、言ったばかりのように、打ち合わせが終わってからですね」
勇は微笑ましく苦笑し、一口でおさめるには少し大きいひとかけらを無理やり気味に自らの口に押し込んだ。
「チケットは買ってあるし、コンサートに行くのは確定ですね。時間的には、コンサートが終わったあとで少し遅い昼食ということになりますけど、小毬さんはなにか食べたいものはありますか」
「お寿司! わたし、寿司街道にあるお店でお寿司が食べたい」
寿司街道は勇や小毬が暮らす町にある、文字どおり寿司店が軒を連ねる通りだ。値段は割高だが味は申し分ないとの評判で、最近は訪日外国人観光客に人気があると、勇はローカルニュースで見聞きしたことがある。
「この春に新規出店したお店とか、リニューアルオープンしたお店がたくさんあるらしくて、雰囲気がちょっと変わっていると思うんだよね。行きたい、行きたいと思いつつ、もう三年も足が遠のいていて。だから今はどんな感じなのか、実際に足を運んで、食べて、確かめてみたくて」
「僕も久しく行っていないですね。子どものころに両親に連れて行ってもらって以来かな。近所に回転寿司のチェーン店があるから、どうしてもそっちで済ませちゃうんですよね」
「充分クオリティ高いもんね、回るほうのお寿司屋さん。神楽坂くんもそうだったけど、男の人ってなんで、お寿司を食べているのに麺料理を注文するのかな。炭水化物がかぶっちゃう」
「麺というか、汁物が食べたくなるんですよ。そういう小毬さんはエビばかり食べますよね。普通の茹でエビから創作系まで」
「それはしょうがないよ、おいしいんだから」
寿司関係の話題でひとしきり盛り上がったあと、小毬が思い出したように、
「ああ、そうそう。寿司街道には一つだけ問題があるんだった。勇くんはすでに神楽坂くんから教えられていそうだけど」
「いえ、特になにも。どんな問題ですか?」
「あのあたり、トラがよく出るらしくて。この前も、三日前かな。白昼堂々トラが通行人を襲って、負傷者が何人か出たみたい」
日本でトラが野生化したという話は、約二十年前、勇や小毬たちの子ども時代からちらほらと聞かれるようになった。勇たちが住む町で特に目撃情報が多いのは、市内にあるY山とその周辺。
恋人という、もっとも身近な人からトラの話題が出たことではじめて、首筋に刃のきっさきを突きつけられたような恐怖を感じた。激しくはないが生々しい恐怖を。
「あそこの人たちはトラの出没に慣れているみたいで、迅速に対応して撃退したそうだけど、そうはいっても死傷者ゼロは無理ゲーよね。わたし、逃げ遅れる自信あるよ」
「だめじゃないですか。……いや、まあ、相手が相手だから無理もないんでしょうけど」
小毬は、目の前で歩行者信号が点滅をはじめても絶対に走って渡ろうとはしない。学生時代の体育の授業は見学に回ることが多かった。泳げないし、泳ぐ練習をしたこともないという。病弱とまでは言えないが、運動神経が悪くて体力がないイメージはたしかにある。
「というか、トラが出るってやばくないですか。本気で襲いかかられたら、生き延びるのはまず無理ですよね。キツネに指を噛まれるのとはわけが違いますよ」
「毎日来るわけじゃなさそうだし、まあ大丈夫じゃない?」
「いや、大丈夫じゃないですって。最悪死にますよ」
「でも、いざというときは勇くんが守ってくれるでしょ?」
「それは、もちろん。もし小毬さんが目の前で襲われたら、命を投げ出してでも助ける覚悟ですけど、わざわざ危険地帯に赴くのはいかがなものかと」
「でも、お寿司を食べたい気持ちは変えられないから。ねえ勇くん、お願い」
お得意の上目づかいの懇願が出た。
いくつか反論の言葉が浮かんだが、小毬から注がれる眼差しがアウトプットを断固として許さない。一瞬たりとも目を逸らせない時点で勝負は決まったようなものだ。
「分かりました」
なんとか視線を外し、恋人の顔を視界から締め出したとたん、そんな言葉が唇からこぼれた。すぐにまた目と目を合わせる。
「行きましょう、寿司街道。トラの心配はしないでください。小毬さんのことは死んでも守りますから」
「わー! 勇くんの頼もしい言葉が聞けた!」
小毬はにこにこ顔で拍手をする。キツネが不思議そうに顔を上げたのが視界の端に映り込んだ。




