第三話
目を覚ましてからしばらくは、ベッドで体を横たえたままぼんやりしていた。
寝起きの頭に最初に浮かんだのは、キツネのこと。
体勢はそのままに耳を澄ませる。聞こえてくるのはスズメのさえずりだけ。キツネはケージの中で大人しくしているらしい。
寝返りを打った瞬間、キツネが静かでいるもう一つの可能性がぱっと浮かんだ。
ベッドから出て、ともすればもつれそうになる両足を懸命に動かして縁側まで走る。
キツネはケージの中にちゃんといた。目覚めていた。首を少し持ち上げて飼い主を見つめる。この人間、やけに慌てているようだけど、なにかあったのかな――そんなきょとんとした顔で。
トイレは、していない。
水は、三分の二ほどに減っている。
「体調はよさそうだね。安心したよ。窮屈だし、シーツの一枚も敷いていないから、寝心地はよくなかっただろうけど。朝ごはん、すぐに持ってくるから」
キツネはあっという間に豚肉を平らげた。もうくれないと察すると、注いだばかりの新鮮な水をたっぷりと飲み、口元に散った水滴を舌で掃除してから体を丸める。
「僕も食事にしようかな。午前中はこの場所には日が射さないから、ゆっくり二度寝をするといいよ」
そう声をかけてから、自分の朝食のためにキッチンへ。
自分一人のときは起床後すぐに朝食をとっていた。自分の用事を後回ししてなにかの世話に時間を費やすのは、大変だが気分がいい。
これが当たり前になるというのなら、なかなか幸せな日常といえそうだ。
フライパンの中の卵を菜箸で軽快にかき混ぜながら、そう思った。
キツネは外に出たそうなそぶりは見せない。ただ庭に興味があるようで、たいていの時間を熱心に眺めることに費やしている。そして、ずっと大人しい。
神楽坂によると人間の指に嚙みついたそうだが、勇が手や顔などを近づけて警戒心を露わにして身構えたりしない。逆に、怯えたり嫌がったりすることも。
人間にある程度耐性がついているのかな、という印象だ。性格的にずぶといのか、それとも場数をこなしているのか。
情緒面では問題なさそうだが、環境面での不備が気がかりだ。
ちゃんとしたトイレ。庭に繋いでおくためのリード。開放的で寝心地のいい寝床。ぱっと浮かぶだけでもたくさんある。
「必要なものを買いに行かないと」
ペットショップは近くにないが、近所にある大型ホームセンターのペットコーナーは品揃えが充実している。キツネ用の商品はさすがに売っていなさそうだが、神楽坂はイヌ用やネコ用で代用できると言っていた。最低限必要なものはそこで買い揃えて、足りないものがあればオンラインショップを利用すればいい。
「問題は小毬さんがいつ来るか、かな」
今日は午前中に、出井小毬が柳内家を訪問する予定になっている。
ただ、彼女はマイペースだから、午前中のいつに訪問するのかは未知数だ。合鍵は渡してあるので、留守ならば家の中で帰宅を待ってくれるはず。ただ、勇としては恋人を待たせたくない。
「……どうしよう」
小さくため息をつき、メッセージアプリのアイコンをタップ。送信済みのメッセージを確認する。
『打ち合わせはいよいよ明日ですね。何時くらいだったらこちらに来られそうか、決まったら連絡をください』
送信したのが昨日の午前十時だから、もうすぐ丸一日が経とうとしている。
今日来る予定を忘れているわけではない、はずだ。たぶん、いつもどおり連絡を怠っているだけ。ただ、ここまで長時間音沙汰がないとさすがに不安になる。
「どうする、キツネくん」
ケージ越しに呼びかけると、今度は顔を向けてきた。
目と目が合って忽然と気がついたのは、キツネがオスかメスかもまだ知らないということ。そして、決めなければと思いながらもいまだに決めていない名前のこと。さらには、キツネの存在を小毬に伝えていないこと。
「――そうだ」
小毬はかわいいものが好きだ。感性が独特なところがあるから、「かわいい」の基準が普通ではないときもあるが、このサイズのイヌ科の動物はたぶんストライクゾーンに入っている。
『言い忘れていたけど、僕、今日からキツネを飼いはじめたんですよ。かわいいですよ。打ち合わせのついでにぜひ見ていってください。画像も送りますね』
以上の内容のメッセージを送ると、二分後に返信が送られてきた。
『行く行く! いつものお店でフルーツロールケーキを買って行くから、十一時までお行儀よく待ってて』
指定時間の十分前に勇は柳内家の門前に出た。
閑静な住宅地の真っ白な道は、無人。通行する車もない。
「いつもこうなんだよな……」
小毬が来る日はそわそわしてしまって、彼女が来るのを待ち構えてしまう。待ち合わせに遅刻する常習犯、早く来たためしがない人なのに。
約束の時間が来ても小毬は現れない。さらに十分が経ち、やきもきしはじめたころ、
「勇くん! おーい!」
振り向くと、道の彼方から女性が歩いてくるのが見えた。
貴婦人のように悠然とした歩の運び。「いつものお店でフルーツロールケーキ買ってくる」という文言から、その店がある方角に九十パーセント以上意識を割いていたのだが、現れたのは正反対の方角だった。
「ごめんね、遅くなって。ロールケーキ、約束どおり買ってきたから。あ、ちなみに、店は空いてたよ。遅れたのは純然たるわたしの気まぐれだから。ごめんねー」
小毬は透明感のある声で淑やかに笑い、有名洋菓子店のロゴが入った袋を胸の高さに掲げてみせた。
今日彼女の身を覆うのは、純白のワンピース。勇や神楽坂は「お嬢さまのワンピース」と呼んでいる、外出時に好んで着る一着だ。さらさらの砂色のロングヘアからは、これもおなじみの花の香りが淡く漂い、出井小毬らしい雰囲気を演出するのに一役買っている。
「事故などには巻き込まれていなかったみたいで、ほっとしました」
「勇くんってば、心配性だね。ケーキを買っておうちに来るだけなのに、なんか大げさ」
「心配にもなりますよ。ほら、最近、町中にもトラとかクマがよく出るみたいじゃないですか。それから、これは昨日神楽坂から聞いた情報なんですけど、市内を裸馬が走り回っているみたいで」
「ああ、そうなの。ところで、神楽坂くんは元気だった?」
「あれ……。裸馬に対するリアクション、なんか薄くないですか」
「だってウマなんて、トラやクマよりも怖くないもの。牙も爪もないし。背中に人間を乗せて草をむしゃむしゃ食べる、ただのかわいい動物じゃない」
「小毬さんはずいぶん肝が据わっていますね。全速力で走っているウマにぶつかられたら死人が出るって、神楽坂はかなり警戒していましたよ」
「じゃあ、神楽坂くんは元気なんだね。人間って元気じゃないと、なにかに警戒する気力なんて湧かないもの」
「そうですね、あいつは元気です。裸馬の件で忙しそうだけど、それはそれとしてって感じで。立ち話もなんですし、上がってください」
フルーツロールケーキの袋を受け取り、恋人と肩を並べて木製の門を潜る。




