第二話
降車駅から自宅までは、キツネの捕獲地点から乗車駅までよりも距離がある。我が家の玄関までたどり着いたときには汗だくだった。
冷たい麦茶で渇きを潤し、縁側まで駆け戻る。ケースからケージを取り出すと、キツネは鉄格子越しに空を仰ぎ、窮屈そうに頭を左右に振るった。移動中はずっと大人しく、逆に不安だったが、体調などは特に問題なさそうに見える。
「今日からここが君の家だよ。どう? 気に入りそう? 庭は狭いし、植木も立派ではないけど、そう悪くはないんじゃないかな」
キツネはしゃべる勇の顔をじっと見つめていたが、発語が途切れると庭を見回しはじめた。マツ、ツバキ、サンゴジュ、ヒイラギ、ツツジ。父方の祖父母が遺していった庭木たちが、初夏の蒼穹の下で青々と葉を茂らせている。
できるなら庭を駆け回らせてやりたいが、ケージから出すのは怖い。生垣は手入れが充分ではなく穴だらけだから、逃げる意思があるなら簡単に逃げてしまいそうだ。キツネはイヌのように懐く、と神楽坂は言っていたが、イヌ用のリードを買ってきて外に繋いでおく、というのが無難な対策だろう。
「とりあえず、慣れるまではケージの中、かな」
窮屈な思いをさせるのは心苦しいが、他にいい方法はなさそうだ。
勇はキツネの横顔を盗み見る。
マツの木の奥の暗がりを見据えるその顔は、相変わらず端正だ。好奇心旺盛な子どものようでもあるし、人目を意識して澄ましているうら若い女性のようでもある。
「イヌでもネコでもなくキツネ、か」
これからどんな毎日が僕たちを待っているのだろう?
想像してみたものの、いかんせん広がりに欠ける。
風が運んでくる湿った土と植物の匂いを感じながら、期待よりも不安のほうが大きい現実を、勇は認めざるを得ない。その感情を拭い去れないのは、キツネがあまりにも大人しすぎるから、そしてその原因が掴めないからなのだと気がついている。
キツネは飽くことなく、いつか自由に駆け回ることになるかもしれない空間を眺めている。
空腹の自覚が、縁側の板張りの床から勇の尻を引き剥がした。
「キツネにエサをやらないと」
気がついたのは、ささっと炒め物でも作ろうと、冷蔵庫のチルドケースから薄切りの豚肉を取り出したときのこと。
調味料などで味つけをしなければ、種類によっては人間用の食べ物を与えてもかまわない。神楽坂はそう話していた。
浅い小皿に百グラムほど取り分けて持っていく。匂いを察知したようで、相変わらず庭を眺めていた顔を勇に向け、真っ黒な鼻をうごめかせた。
「ほら、ごはんだよ」
割り箸でつまんで鼻先まで持っていく。鼻の動きがいっそう盛んになる。おもむろに口を開けて首を突き出し、豚肉を一口でおさめた。箸先を噛んだらしく、首を引っ込めるときにほんの少し引っ張られた。
あっという間に嚥下し、口元を舐める。物欲しそうな目つきで勇を凝視する。もうひと切れ、さらにひと切れと与えていく。キツネは差し出されるたびに迅速に食いつき、ほとんど一瞬で平らげる。あっという間に小皿が空になった。
「おいしかった? 気に入ってくれてうれしいよ」
キツネは勇の顔をじっと見つめながらも、舌での口元の掃除に余念がない。満足さよりも物足りなさが勝っている目つきに見える。
「今日はこれでおしまい。また明日の朝にあげるから、そのときまでのお楽しみにね」
ケージから離れて自身の食事作りに取りかかる。
鳴いておかわりを欲しがるようなら一考したかもしれないが、キツネは大人しかった。調理しているときも、食事中も、食器を洗っているときも。
「なんとかやっていけそう、かな」
フライパンの底にこびりついた焦げつきをスポンジで丹念に落としながら、勇はそっとつぶやいた。
飲み水は、食器棚の奥に眠っていた小さめのシチュー皿に入れた。ケージに入れると中が狭くなるし、扉を開けるのが怖いので、ケージにぴったりとくっつける形で外に置いた。
キツネは水に気がつくと、細長い口を格子の隙間から突き出し、舌をめいっぱい伸ばして二・三回舐めた。そして、再び体を丸めた。
困ったのはトイレだ。検索した情報によると、室内飼いのイヌネコ用のシステムトイレで代用できるそうだが、大きすぎてケージの中には入らない。水のように外に置いてしてもらうわけにもいくまい。
さんざん悩んだ末、畳んだ新聞紙を格子の隙間から中に入れ、床とキツネの体のあいだに挿し込んだ。水入れのときとは違い、キツネはにおいを嗅ぐことさえしない。
「……大丈夫かな」
問題が起きたらその都度対処法を考えるしかない。ため息とともにケージのすぐ隣に腰を下ろす。
見計らったように、スマホの着信音が鳴り出した。
「小毬さん――」
ではなかった。かけてきたのは、神楽坂。
「キツネ、どう? 上手くやってる?」
「今のところは。食事、水、トイレ――ひととおり用意はしたよ。ただ、ケージから出すのは怖いね。閉じ込めておくのはかわいそうだけど、今のところはためらってる」
「当面は入れておくべきだろうな。まずは環境に馴れさせたほうがいい」
「僕と同じ意見なんだ」
「トラだろがキツネだろうが、飼うのだろうが狩るのだろうが、動物相手に焦ってもいいことは一つもないぜ。子どもみたいなものと思っておいたほうがいい。思春期じゃなくて、二・三歳の年端もいかない子どもだとね。電話越しに鳴き声が聞こえてこないってことは、大人しくしているんだろ? だったら現状がキツネにとってベストな環境ってことだと思うぜ」
「本当に大人しいね、このキツネは。たしか、指を噛まれた市民が通報したんだっけ。とてもそんな真似をしたとは思えないよ」
「大人しくて人懐っこかったとしても、パニックになって人間を攻撃するとかは、野生の場合は普通にあるからな。お前のキツネもそのタイプなんだろう。そういう意味でも殺処分を回避できてよかったんじゃないか?」
「本当にそうだね。ところで、急用の件は大丈夫だったの?」
「裸馬が走り回っているっていう通報があってね」
「裸馬……?」
文字どおりの意味だ、と神楽坂は答えた。鐙だの鞍だのはつけていない、生まれたままの姿のウマを裸馬というんだ。
「ウマ自体は昨日から目撃されていて、捜索したんだけど手がかりなしで、いったん打ち切っていたんだよ。その裸馬は青毛、ようするに全身が真っ黒で、競走馬みたいに図体がでかいらしい」
「そんなのが野放しになっているんだ。万が一、走っているウマと人が接触したら――」
「大事故だな。ウマは人間を食わないが、全速力でぶつかられたら自動車事故に遭うようなものだ。下手すれば死ぬ」
「トラやクマに近い危険度ということ?」
「そういう認識ではいる。なにが厄介って、裸馬はまだ人間に危害を加えていないから、殺せないんだよ。まずは捕獲を試みなくちゃいけない。車みたいに馬鹿でかい生き物を、だぜ」
「難敵だね」
「まったくもって。ああ、そうそう、今回の裸馬に関しては少々奇妙なことがあってね」
「奇妙なこと?」
「下手すりゃ死人が出るってことで、ある程度人員を割いて必死に探し回っているんだけど、いまだに誰も裸馬を目撃できていないんだ。仮にもプロの俺たちが、数人がかりで探しているっているのに」
「そうなんだ」
「俺が探しはじめたのを境に目撃情報は絶えているから、大人しく我が家に帰った可能性もないわけじゃない。でも、そういう例って俺自身は経験したことないし、残念ながら違うんじゃないかって思ってる。仮に帰っているんだとしても、ある程度時間と労力を費やして探して、『一生懸命探しましたが、残念ながら発見できませんでした』って報告して、依頼者を心情的に納得させないといけない。そういう意味でも面倒くせぇ。裸馬が町中を駆け回るのは災厄が起きる前兆って言われているし、嫌な予感がするんだよな」
「ジンクスみたいなものがあるんだ?」
「あくまでもジンクスだけどな。なにかの本で読んだことがあるんだけど、あいにく出典までは記憶していないよ。気になるなら勝手に調べてくれ」
通話が終わったあとの時間は平穏に過ぎていった。キツネはずっと大人しく、まるでペットなんて飼っていない昨日までの日々が続いているかのようだった。
就寝時間になったので縁側まで足を運ぶ。キツネは眠っていたようだったが、勇の片足が床板を軋ませたとたん、弾かれたように顔を上げた。闇の中で瞳が一瞬光った。邪魔をしてしまったかな、と微かに苦笑をこぼす。
「おやすみ。ゆっくり寝るんだよ。……そういえば、君の名前をまだ決めていないなぁ」
ケージをカバーで覆いながら言葉をかける。ファスナーを締める直前、一人と一匹の視線は重なる。キツネはきょとんとした顔をしている。
「僕もゆっくり眠るよ。また明日」
締めたあと、その場でじっとたたずんで様子を見た。キツネは鳴くことも暴れることもない。
「安眠できそう、かな」




