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暴虎馮河  作者: 阿波野治
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第一話

 アスファルトの地面の上にぽつんと置かれた、「猫・小型犬用」というタグがついたケージ。

 その中に、一匹の獣が押し込められている。

『思ったよりも小さいな。大人になりかけの子どもってところか? まあ逆よりはましだろう。別のケージとってくるの、面倒くせぇからな』

 つい先ほどの神楽坂の発言を思い返しながら、勇は観察の目を獣の体に這わせる。

 トースト色の体毛。ピンと立ったネコのような黒い耳。イヌにそっくりな鼻と髭と口。ボリュームたっぷりのしっぽ。

 檻の中のキツネは、体を丸めてじっとしている。勇がいる位置からは顔ははっきりと見えない。

「気になるか? 勇はキツネを見るのははじめてだっけ」

 ケージから少し離れた場所から、民家のフェンスにもたれた神楽坂が声をかけてきた。

 目の覚めるようなオレンジ色のベストを着用し、右腕には『神楽坂鳥獣捕獲センター』の腕章。ペットボトルのスポーツドリングを飲んでいる。

「だったと思う。キツネの被害は多いの?」

「多くはないが、珍しいというほどでもないって感じかな」

 神楽坂はペットボトルをクーラーボックスにしまって留め金をかけた。汗に濡れた金髪を手櫛で整えながらケージへと歩み寄り、勇の隣にしゃがむ。

「昔は多かったっていう話は聞くけど、今はクマやトラが幅をきかせているよな。図体のでかいやつらが。東北ではかなり頻繁にクマが出るらしいじゃないか」

「ニュースでよく言っているね。人を見ても逃げないって」

「クマがびびって逃げるのはトラくらいだろ。日本列島における野生動物の王は、今やクマじゃなくてトラだ。自然保護団体さまの血の滲むような努力のおかげで、近年ぐんぐん個体数を増やしているからね。

 だけど出る杭は打たれる運命だから、あいつらの天下もそう長くはないとは思うぜ。けっきょくはこいつみたいな、知恵があって上手く立ち回れるやつが最後には勝つんだ。

 ――なあ、そうだろう?」

 神楽坂はケージの格子の一本を掴むと、強めに揺さぶった。キツネは弾かれたように顔を上げた。真っ黒な瞳が神楽坂をじっと見つめる。

 勇は一瞬呼吸を止めた。

 キツネは女性的で美しい顔貌を持つ生き物だと、彼はこのときはじめて知った。

「キツネという種族の天下がいつ訪れるのかは知らないが、お前という個体の旅路はこれでおしまい。お前は人間が作ったルールなんて知ったこっちゃないよな。でも人間として、人間に怪我を負わせた獣を野放しにはしておけない。恨むなら自分の若さを恨め」

「殺処分、されるんだ」

「ああ、お役所からそういう指示が下っているからね。……おい、どうした? その顔、なんか不満そうだけど」

 勇はそれには答えずに、黙ってケージのキツネを見つめ続ける。そんな勇の横顔を、神楽坂は無言で見つめる。

 キツネは神楽坂から視線を切ると、再び体を丸めた。

 人間たちを怖がっているようには見えない。少なくとも、過度には。

 ……あのときの子ネコたちと同じように。

 ごくり、と勇の喉が鳴る。

「神楽坂」

 タブレット端末をいじっていた神楽坂は、自分を呼んだ人間のほうを向いて「どうした」と応じる。勇は神楽坂に視線を合わせて言った。

「このキツネ、どうせ殺すんだったら僕が飼ってもいいかな?」

「ああ、いいぜ」

 神楽坂は友人からの申し出を即諾した。

 勇は驚くというよりも拍子抜けしてしまった。最終的に受け入れられるのだとしても、「動物を生半可な気持ちで飼うな」といった、厳しい言葉をまずは浴びせられる覚悟をしていたのに。

「……マジか」

「ああ、マジだ。ちなみにキツネの飼育だけど、現行の法律では特に禁止されていなくて、届出なども不要だから。

 まあ、たとえ禁止されていたとしても、友だちの頼みなら喜んで融通したけどな。似たような金稼ぎは金持ち相手にやっているんでね」

「……詳細は訊かないでおこうかな」

「そうしてくれると助かる。お礼に、そのキツネはタダで譲るよ」

 神楽坂はワゴン車の後部座席を探り、真っ黒な革製の鞄のようなものを取り出してきた。ケージ専用のケースだ。暗くすることで動物の精神状態を落ち着かせ、鳴いたり暴れたりするのを防ぐ効果があるという。

 神楽坂はキツネ関連の知識を惜しげもなく披露し、簡易的ながらも飼い方のアドバイスもした。

 勇は熱心に相槌を打ちながら、次第にプレッシャーが高まるのを感じている。

「育て方によってはイヌ並みに懐くらしいぜ。リードをつけて散歩させたりとかさ。まあ、お前なりに愛でてくれ」

「急なお願いだったのに、いろいろありがとう。助かったよ」

「困ったことがあれば相談してきてくれ。じゃあそのケージを――」

 突然『ツィゴイネルワイゼン』が聞こえてきた。

 神楽坂がベストのポケットからスマホを取り出し、ケージから遠ざかりながら電話に出る。ていねい口調だったので仕事関係だとすぐに分かった。

 神楽坂は一分足らずで通話を終え、引き返してきた。ファスナーが鋭く閉まる音が場を軽く引き締める。

「勇、悪い。家まで乗せていってやりたかったんだけど、急用が入った。悪いけど一人で、いや一人と一匹で帰ってくれ」

「別にいいけど、歩きはきついから路面電車にしたいな。動物を乗せてもいいんだっけ」

「手続きを経ればなにも問題ない。運転免許を持ってない同僚がたまに利用するから、情報に間違いはないぜ」

「ありがとう、なにからなにまで。恩に着るよ」

「お手とおすわりとちんちんでも教え込んで、俺が遊びに行ったときにでも見せてくれよ」

 神楽坂は社用の白いワゴン車の運転席に乗り込む。

 友人とはいえ、一個人のわがままをどうしてすんなり聞き入れてくれたんだ?

 訊こうか否か、逡巡しているあいだに運転席のドアが閉まった。エンジン音を唸らせながら社用車が遠ざかった。


 プラスティック製の持ち手を握ってケースを持ち上げてみる。ずっしりとした手応えに、思わず小さくうめいてしまった。

「出発するよ。駅には十分くらいで着くからね」

 客のまばらなこぢんまりとした喫茶店で、テーブルを挟んで対座する連れに話しかけるくらいのボリュームで、キツネに声をかけた。

 反応はない。鳴かないし、暴れない。それどころか、身じろぎさえも。

 眠っているのだろうか? それとも、怯えて縮こまっている? 捕まえた直後の様子を見たかぎり、人間を過度に怖がっているようではなかったけど。

 ファスナーを開けて中を覗いてみたい気もする。しかし好奇心よりも、不用意に干渉が逆効果になる懸念が上回った。勇は歩き出した。

「おっと、ごめん。揺れちゃったね」

「手が痛くなってきたから、ちょっと休憩。一分だけ待って」

 自然とキツネに話しかけていた。

 ひとりごとを口にしている自分にも、周りからどう見られているのかも、ほとんど気にならない。自分にもキツネにも何事もなく、我が家に帰れればそれで充分だ。

 駅員による審査は至極簡単なもので、あっさりと乗車許可が下りた。

 車内に客の姿はまばらだ。勇は日射しが射し込む窓を背にする席に腰を下ろす。ケージは膝の上に置く。生き物が中にいるのだな、という重み。

 乗客は誰も勇には注目しない。ケースが普通のバッグにしか見えない形状で、なおかつキツネが大人しいからだろう。

 車窓越しに流れる景色を眺める。看板に記された店内、店先に立てられた幟が誇示する商品名、道路標識。

 キツネの名前、決めないといけないな。

 心の中でつぶやき、穏やかな気持ちで考えはじめた。


 キツネを飼ってみたい。

 そんな思いが、キツネの美顔に気がついた瞬間に芽生え、キツネが殺処分されてしまうと知ったのを境にぐんぐん膨らみはじめた。

『勇、捨ててきなさい。どうせ最後まで責任を持って飼えるわけがないんだから』

 母の厳しい言葉が、十五年ぶりに甦った。

 少し遅れて、父の冷ややかな目つきが脳裏を過ぎる。

 小さなダンボール箱を胸に抱え、うつむいている少年。

 しきりに洟をすする。音もなく、とめどなく、涙が頬を伝う。

 ダンボール箱の中の小さな獣たちも鳴いている。

 十歳の勇は、いったんは自宅へと拾って帰ってきた子ネコたちを、両親の猛反対に遭って元の場所に捨ててきた。「勇は最後まで責任を持って子ネコを飼えない」という両親の言葉に、彼は論理的な反論ができなかった。

 あのときの自分のように「普通」から逸脱した真似をしても、お前の繊細な心が傷つく結果に終わるだけだ。あの一件でお前は懲りただろう? また同じ過ちをくり返すつもりか?

 年齢不詳のもう一人の自分がそう諭した。一理あるな、と二十六歳の勇は思った。

 ただ、同時に、こんな思いも湧いた。

 でも、もしキツネをきちんと飼うことができたら、あの事件のショックを払拭できるのでは?

 キツネの命を救えることを考えれば、むしろ名乗りを挙げないほうが愚かなんじゃないか?

 反論の言葉は見つけられなかった。

『このキツネ、どうせ殺すんだったら僕が飼ってもいいかな?』

 だから勇は、神楽坂にそう申し出たのだ。


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