第二十四話
「なるほどな。主張は呑み込めたよ」
束の間の沈黙を挟み、神楽坂は語を継いだ。
「付き合い長い友だち相手に語るの、恥ずかしいから嫌なんだけど、一回くらい話しておくべきなんだろうな。といっても、長々と語るつもりはないぜ。事前に原稿も用意してきていないのに」
再び間が生じた。恥ずかしがっているのか、話すことを整理しているのか。
小さく息を吐いてから神楽坂は語り出した。
「俺は子どものころからろくでもないやつだったよ。お前のことをいじめたりとかしてさ。俺自身は、自分のことは明るいお調子者くらいに評価していて、お前とか他の大人しい同級生とかに対する行為は愛のあるいじりだと思ってた。――という俺の話を聞いて、勇は『なにが愛のあるいじりだよ』って忌々しい気持ちになったんじゃないか? ほんとそうだよな。言った俺自身もそう思う。あんなもの、やられているほうからすればいじめ以外のなにものでもない。でも、昔の俺はそれが分からなかった。加害者である自覚、相手を傷つけている自覚は薄かった。いや、ほぼゼロだったと言っていい。ようするに、二重の意味でろくでもないやつだったってことだな」
話し出す前の沈黙は恥ずかしかったからだったんだな、と勇は断定する。神楽坂の声には照れ隠しの笑いの気配がこもっていて、しかも早口気味なのだ。
「そのろくでもなさが噴出したのが――勇は覚えているか? 小毬との関係で揉めて、俺がお前に銃口を突きつけた件」
「忘れるわけがないだろ。忘れろって脅されても忘れられないよ」
「まあ、そうだよな。愚問っていうのはこういうことを言うんだろうな。
凶器でお前を脅して言うことを聞かせようとした件、あの一件は、俺の本質である傲慢さや無神経さが最大限に現れていたよな。気弱な勇が相手であれば、死に至る暴力の行使をほのめかして威嚇すれば、こっちに不利な形勢もきっと逆転できるはずだっていう傲慢さが。
でも、お前は俺の目論見を見事に挫いた。俺がいくら怒鳴っても、すごんでも、お前は断乎として屈さなかった」
「そうだったね。内心ではもちろんむちゃくちゃびびっていたけど、正攻法で説得しても勝機はなさそうだったから、毅然とした態度を示すしかないと思ったんだよ」
「なるほどな。俺はあの失敗で、自分がいかに愚かで醜い人間かに気づいて、猛省したんだ。ありがたいと思ったよ。だって、人殺しになるか・ならないかの瀬戸際だったわけだから。人を殺せば死刑になる可能性もあるんだから、過ちを未然に防いでくれたお前は、俺の命の恩人も同然。命の恩人には感謝の気持ちを持って、機会があれば親切という形で恩返しをするのは当たり前だろ。ようするに、そういうことだ」
「命の恩人、か。あの件は、土壇場での忍耐力とか、自力で過ちを自覚できたこととか、君の力もかなり大きかったと――」
「あー、はい、はい。そういうのはいいから。そういう中途半端な加害者擁護は」
蠅を手で払うような手ぶりをしたのが目に見えるような、面倒くさそうな神楽坂の声。
「素直にありがとうって言って、もうこの話は終わりにしようぜ。ていうか、通話自体終わろう。恋人同士でもないのに長話とか、したくないだろ。お互いに」
「……そうだね。ありがとう」
通話は神楽坂のほうから切った。
人は自分の性格から逸脱した行動をそう簡単にとれるものではない。僕も経験からそれはよく分かっている。それができた神楽坂はすごい。
そんな趣旨のことを言いたかったのだが、機会を逃してしまった。
「まあ、いいか」
すがすがしい気持ちでひとりごちる。
会う機会はいくらでもある。伝えるタイミングがいつか訪れるだろう。訪れないまま、伝えたい気持ちが雲散霧消してしまったのなら、そのときはそのときだ。
退院後の神楽坂は、勇に仕事への協力を持ちかけることはめったになくなった。
入院してちょうど四週間後に小毬は退院した。
退院後、勇と町を散策するのがメインのデートを何度もした。もともとポジティブで能天気な彼女は、再び不幸な事故に遭うおそれは微塵も抱いていないらしく、高い壁や塀などがある道も平然と通った。古そうなブロック塀を見つけると、
「これ、ちょうど今日くらいに崩れそうじゃない? 今日っていうか、三秒後かも」
などと言いながら、側面を手で何度も強く叩き、勇を慌てさせた。そうするさいの彼女は、実年齢よりもニ十歳若い、いたずら好きのおてんば娘のような笑みを満面にたたえるのが常だった。
後遺症がないのは肉体も同じだ。手の怪我も脚の怪我も完治し、傷跡などもいっさい残っていない。ワンピースの袖や裾から覗く四肢は白くみずみずしく、事故前のように恋人の目と心を快くさせる。
勇は相変わらず小毬に対して消極的だ。ロタールと約束したキスは、いつまで経ってもできそうにない。
ただ、小さな進歩がないわけではない。
勇のほうから手を握るのがデートのさいの定番になった。初心で微笑ましい積極性に、小毬はすぐさま手を柔らかく握り返すことで応えた。二人が手を結んだままでいる時間は以前よりも明らかに長くなった。
「小毬さん。入院中に神楽坂と三人で話をしたときに、『もう少し人の気持ちを考えて行動できる人間になりたい』という意味のことを小毬さんが言ったんですけど、覚えていますか」
イタリア料理店で夕食を終え、肩を並べて歩く月明かりに照らされた夜道で、会話が途切れたタイミングを見計らって勇は切り出した。彼は珍しくアルコール少量飲み、いささか気持ちが大きくなっていた。その力を借り、唐突なのは承知のうえで、長らく伝えられずにいる言葉を今日こそ伝えようと目論んだのだ。
「そんなことを言った気もするけど、突然どうしたの?」
「僕個人としては、わざわざ変える必要はまったくないと思いますよ。だって僕は、自由気ままな小毬さんが好きなんだから。自由気ままな人だからこそ小毬さんが好き、と言い換えてもいいかもしれません。もちろん、性格や振る舞いが少しくらい変わっても、好きという気持ちは微塵も揺るぎませんけどね。揺らぐことなんて絶対にありません。断言してもいいです」
沈黙が降りた。予想はつかないが、とにかくなにか言葉を返してくるだろうと考えていたので、勇は当惑した。それはすぐに羞恥の念に変質した。快不快はともかく、突拍子もない発言だと受け取られたに違いないと思うと、恥ずかしさはぐんぐん膨らんでいく。
わずかながらも心身を侵していた酔いはすっかり醒めた。明るすぎる月光が、柳内勇という人間の卑小さを照らし出して暴露しているようで、叶うものなら暗い路地裏に逃げ込みたかった。
「そう言ってくれて、肩にこもっていた力が抜けたよ。ありがとう」
やがて信号待ちで足を止めると、小毬は静かにつぶやいた。
「変わるか変わらないかは神さまのみぞ知ることだけど、どちらだとしても、わたしはわたし。これからもよろしくね」
その後は黙っている時間が長かったのが嘘のように、小毬は活発にしゃべった。「これからもよろしくね」の返事をする機会を勇は見出せない。恋人の言葉に相槌を打ったり、意見したりすることでその代替とした。
これでいい、と思った。
月明かりの下を歩くことはもはや苦痛ではなくなっていた。




