最終話
入道雲が青空を気持ちよさそうに遊泳している。
朝も早いというのに蝉時雨が騒々しい。その鳴き声が暑気を煽るようで、日陰にいるのに汗ばんでくる。
神社の石段の最上段に腰を下ろした勇は、汗が肌を滑り落ちるのに任せて恋人を待っていた。合流後は駅まで行き、駅ビルでのショッピングを中心に据えたデートをする予定になっている。
汗を拭こうと思って気がついたが、今日はハンカチを持参するのを忘れていた。
彼はこのデートで、大いなる企てを実行に移すつもりでいるのだが、なんとも幸先が悪い。事前に決めてあった待ち合わせ時間をニ十分も遅れているのも、いつものこととはいえ心が乱れる。
勇はふと思い立ち、起立してジーンズのポケットから財布を取り出した。今日のデートと、己の企みの成功を祈願しようと思ったのだ。
少し迷ったが、この程度の金額を出し惜しんでいるようでは男がすたると、千円札を抜き出して賽銭箱に投入する。二度柏手を打って一礼し、「どうか僕に勇気をください」と胸の中で唱える。作法が正しいのかは分からないが、奮発したのだから神さまも大目に見てくれるだろう。
「千円、か」
それだけの金があれば、ほんの少し豪華な食事ができた。ほんの少し豪華なプレゼントを贈ることだって。努力の方向性、ちょっと間違えてないか? 付き合いはじめて長いのに、小毬さんとの仲をなかなか縮められない原因は、こんなところにあるのかもしれない。
「――勇くん!」
「わっ!?」
いきなり背後から声をかけられたので、驚いた拍子に石段から足を踏み外した。しかし、背中を支えられたので転落は免れた。体勢を立て直して体ごと振り向くと、
「小毬さん」
小毬は「やあ」というふうに右手を挙げた。外出時にはおなじみの純白のワンピース。大人びた目鼻立ちとは好対照な、あどけない笑み。勇の大好きな笑顔。
「なにしてたの、背中に悲愴感漂わせちゃって」
「暇なので拝殿を見物していただけです。賽銭に千円を投じて後悔なんて、二十六にもなってするわけがないですよ」
「そうよね。悔やむような金額を神さまにお裾分けしても、得られるご利益も得られないもんね」
「ところで小毬さん、今日は帽子をかぶっていないんですね。夏場の外出時はいつもかぶっているのに」
「帽子? ……ああ、帽子か」
小毬は瞳を少し大きくして頭の両サイドを指先で軽く押さえ、見えるはずもないつむじを目視しようとするように極端な上目づかいになる。まるで自分が帽子をかぶっていない事実に、恋人から指摘されてはじめて気がついたようなリアクションだ。
「帽子はね、こっちまで来ている途中に忘れていることに気がついたんだけど、まあいっかと思って。日陰ばかり通ってきたから、汗はかいてないよ」
「相変わらずいい加減、いや自由奔放ですね」
「まあね」
小毬は腰に両手を当てて胸を張ってみせた。
「もしかして、ここに来るのが遅かったのも、遠回りをしたからですか」
「ううん。なんとなく、この時間帯くらいに来たい気分だったから」
やっぱり自由奔放、いや、いい加減だな。勇は微笑ましくため息をついた。
「あ、でも、勇くんは汗いっぱいかいているね。ここ、そんなに暑いかな?」
「実は、僕も小毬さんと同じく忘れ物をしちゃって。ハンカチなんですけど」
「わたしは持ってるから、拭いてあげるよ」
二人とも石段から下り、小毬はワンピースのポケットからハンカチを取り出す。見覚えのある赤さに、勇は軽く息を呑んだ。
そういえば、時間稼ぎのためにトラに投げつけた赤いハンカチは回収していなかった。小毬さんはあのあとひそかにハンカチを――。
そこまで考えたところで、勘違いに気がつく。ハンカチを投げたのは小毬に化けたロタールだったのだから、あのときと同じもののはずがない。
「拭くよー」
その赤が視界を覆い尽くすように接近し、勇の思案は打ち切られる。
そこはかとなく不器用な、しかし優しさのこもった手つきで、小毬は恋人の顔に浮いた汗を拭いていく。肌に布を軽く押しつけながら這わせるというよりも、透明な雫のひと粒ひと粒を狙って点を打つように。
ハンカチと手が大きく邪魔をしているが、両者の物理的間隔は狭い。だから顔がよく見える。口をぽかんと半分開けていて、それでいて瞳は妙に真剣で。そのギャップに注目すれば、間抜けな印象もなくはない。しかし、出井小毬という女性に惚れて、惚れて、惚れ抜いた勇からすれば、欠点も美点だ。無防備に開いた唇のみずみずしさに気がついたのを境に、彼の心臓は早鐘を打ちはじめる。
ここだ、と勇は確信する。
ここしかない。ここで勇気を出さなければ、賽銭を出し惜しみするよりもはるかに男がすたる。
病院で小毬さんは僕の慎重さを優しさと解釈し、褒め称えたけど、あれは神楽坂の過去の過ちを非難する意図もあった。うれしかったけど、甘えてはいけない。
暴虎馮河。
トラを討とう。大河を渡ろう。
「小毬さん――いや、小毬」
ハンカチを動かす手が止まり、それとともに手が下ろされる。現れたきょとんとした顔が勇を見つめる。唇は相変わらず開いたままで、永遠にそうであるかのようにみずみずしい。
不意に、蝉時雨がやんだ。
もはやためらいは微塵もない。
勇は小毬の肩を掴み、強く握りすぎたと気がついて少し緩め、抱き寄せるとともに自らも体を近づけ、唇に唇を重ねた。
柔らかい。それでいて弾力があり、軽く押し当てただけなのに押し返してくる。
帽子をかぶってこなくてよかった、と勇は思う。小毬さん愛用の帽子は鍔が広くて、キスをするのに絶対に邪魔になって、はじめてする僕は手こずっただろうから。
勇は唇を離した。ほのかに息苦しくなったからだ。ワンテンポ遅れて両手を離し、右足、左足と後ろに移動させて少し間合いをとる。唇に潤いがくっついてきたようで、なかば無意識に右手をその部位に宛がっていた。
小毬は唖然とした顔を晒していたが、恋人と目が合うと、白い歯を見せつけるようににっこりと笑った。
「びっくりした。まさか勇くんからするとは思わなかった。わたし、はじめてなのに」
「はじめて? 小毬は神楽坂と――」
「あ」
小毬ははっとして掌で口を隠した。勇は思わず眉をひそめてしまうくらい強い違和感を覚えた。
彼女は口から掌を外し、そこはかとなく妖艶に微笑する。
「せっかくいい感じだったのに、ミスしちゃった。――まだまだだなぁ、ぼくも」
今度は勇が「あ」と声をもらす番だった。
いっせいにセミたちが鳴き出した。
小毬の肩越しに、鳥居を潜って境内に駆け込んでくる、鍔の広い帽子をかぶった恋人の姿が見えた。




