第二十三話
鳥居を潜ったところで別れることになった。
「キツネだったときのロタールを放した場所まで行って、そこで別れましょうか?」
勇はそう提案したが、カールに「神楽坂や小毬の様子を見に行ってあげなさい」と言われた。人間の大人よりもキツネの大人のほうがよっぽど大人だな、と内心で苦笑した。
「私も親子水入らずで人間界を歩きたい気分なのでね。だから、ここでお別れにしよう」
「そうですね」
「ねえねえ勇、お別れのチューする? 人間の世界にはそういう習慣があるって、パパから聞いたよ。する? ねえ、する?」
「いや、遠慮しておく。姿は小毬さんでも、中身は男の子だからね。本物の小毬さんとするよ」
「なるほどー。じゃあ、パパとしてよ」
「それもやめておく。……実は、小毬さんとはまだキスをしたことがないから、がんばってみるよ」
「うん、がんばれー。勇なら絶対にできるよ」
「ありがとう。君に言われたら、なんでもできる気がしてくるよ」
「ぼくもがんばるから。なにをがんばるのかは――ちょっとよく分からないけど、とにかくなにかしらがんばるよ」
「いい心がけだね。人間界から応援しているよ。気をつけて帰るんだよ」
「うん、気をつける。でも、パパがいるから絶対に大丈夫だよ」
「そうだね。いっしょだから安心だ。――カールさん、いろいろありがとうございました」
「こちらこそ。では、そろそろ」
カールは深々とお辞儀をし、ロタールは元気いっぱいに手を振り、去っていく。姿が見えなくなるまで見送り、ふうと息を吐く。
「小毬さんとキス、か」
勇は二匹が去っていったのとは反対方向に向かって歩き出す。
病院までの道中ずっと、さわやかな風が勇を励まし続けた。
数時間ぶりに顔を合わせた小毬は、元気を取り戻していた。
「ひと眠りしたら、よく分からないけどなぜかとても元気になったの。なぜかはよく分からないんだけどね」
掌で口元を隠しながら呑気に笑う。いつもの小毬らしい姿に、勇の口角は自然と持ち上がる。
「勇くんはどこへ行っていたの? わたしが寝ているあいだにお出かけしてきたんだよね。浮気? 浮気かな」
「神楽坂の手伝いですよ。あいつ、仕事中にちょっとした怪我をしてこの病院に入院しているんだけど、知ってました?」
「えっ、ほんとに?」
神楽坂の怪我について説明しようとしたが、キツネたちのことを抜きには難しいとすぐに気がつく。
勇は覚悟を決めて「実は――」と切り出した。
小毬は最初信じられないというふうに目を丸くして、少し時間が経つと子どものように瞳を輝かせて、終わりに差しかかるころには唇を結んで相槌を打ちながら、恋人が語る非現実的な物語を最後まで聞き届けた。
「へえ、そんなことがあったんだ! なんていうか、とってもすてきね。すごく胸がわくわくしちゃった」
嘘をついていると思われないだろうか? 怪我をして入院をしてつらい思いをしているのに、荒唐無稽な作り話をするなんて失礼だと思われないだろうか?
そんな懸念もあったのだが、話を聞き終えての第一声、小毬らしい底抜けに明るい声が吹き飛ばした。
「その子たちとはまた会う約束なんでしょ? 何日後にとかはっきり決まっていないけど、とにかくいつか会おうって。そのときは、わたしもいっしょに行きたい。だめかな?」
「だめなわけがないですよ。二匹とも小毬さんとも会いたいと言っていましたし。特に、ロタールはむちゃくちゃ楽しみにしてましたよ。ぜひ二人で会いに行きましょう」
「またわたしに変身してもらって、どちらかが本物ですかクイズとか、やりたいね。勇くんが戸惑うところが見たいな」
「さすがに分が悪くないですか。本人との対決は」
「じゃあ、カールさんと親子対決をしてもらおうかな」
会話の内容が普段小毬と話すときのそれに近づいてきて、ああ日常だな、と思う。
二人は誰にも邪魔されることなく、心おきなく言葉のキャッチボールを楽しんだ。
キツネたちが人間界を去った翌日に神楽坂は退院した。
それから小毬の怪我が完治するまでの一か月間、勇と神楽坂は揃って彼女の見舞いに訪れ、かいがいしく看病した。協力して一つの目的に臨むことで自ずと距離は縮まり、三人の絆はより強固なものとなった。
「神楽坂はキツネの変身能力の一端にも触れていないから、キツネたちのことを話しても真実だと信じてもらえないどころか、混乱する可能性が高いと思います。僕がいいと言うまで、神楽坂には話さないようにしてくれますか」
小毬にはそう要請し、了解を取りつけてある。
勇は今のところ神楽坂に秘密を打ち明けていないが、漠然と計画は立てている。ロタールやカールが再び人間界にまで遊びに来たときに、もっともらしい理由を持ち出して神楽坂とキツネたちを引き合わせて、変身能力を披露してもらい、超自然的な力の実在を否応にも信じさせるというものだ。
神楽坂が退院した一週間後、勇はふと、ロタールと出会った日の寿司街道での事件の顛末が気になった。
五頭ものトラが同時に一か所に現れるという大事件。それにもかかわらず、あの日はいろいろあったせいですっかり失念していた。僕とロタールは無事に逃げ切れたけど、他の人たちは大丈夫だったのだろうか?
ネットニュースを確認したところ、死傷者は一人も出なかったことが判明した。現場に居合わせた人々の証言や、専門家の意見が紹介されていたが、誰もがこの結果を奇跡だと認識しているようだ。
勇はなにか上手くいきすぎている気がしてならなかった。野生動物が人の住む場所まで姿を見せる理由は、食料不足。飢えた五頭の猛獣が全頭大人しく引き下がったというのは、違和感がある。
謎の答えを求めて記事を精読すると、「現場に駆けつけたハンターが五頭のトラを撃退」という文言が目にとまった。居ても立ってもいられなくなって神楽坂に電話をかけた。
「ねえ、神楽坂。もしかして君は、デートのときにトラを追い払ってくれたの?」
「なんだよ。変な時間にかけてきたと思ったら、変なこと言いやがって。デートっていうのは、お前と小毬のデートか? どのデートのことだよ。お前らのスケジュールなんていちいち把握してないって」
勇は望みどおりの行動をとった。神楽坂はすぐに趣旨を呑み込んだらしく、親友の話を遮った。そして、こう答えた。
「撃退したのは俺じゃなくて、同僚のハンターだ。偽の依頼をでっち上げて、寿司街道を見張っているように命じたんだよ」
「……そうだったのか。でも、裸馬の件で忙しかったんじゃないの? 君一人だけじゃなくて、会社全体がっていう意味だよね」
「そうだよ。でも、さすがに人員を一人割く余裕くらいならある」
「ねえ、神楽坂――」
忙しいところ、手数をかけて悪かった。恩に着るよ。ありがとう。
そう伝えて、この件は終わりにしてもよかった。ほんの少し、そちらの選択肢にも惹かれた。
しかし、優劣でいえば圧倒的に、疑問をぶつけたい気持ちが勝った。
「なんで君は、こうも僕に親切なの? トラを撃退だけじゃなくて、それ以前のもろもろのことも含めて。神楽坂にとって僕は、恋人を奪った人間だよね。それなのに、全体的に僕に親切すぎないか。キツネとか裸馬とかトラとか――あのときは動物絡みの騒動が多くて、神楽坂にはたくさん助けてもらったよね。だからこそ、前々から抱いていた違和感が高まって、訊かずにはいられなくなって、実際に訊いてみたのが今日だったっていう経緯なんだけど」




