第二十二話
カールによると、ロタールがはじめて一人で山を下りた日、夕方には早くも自らも人間界へ赴いたそうだ。
しかし、懸命の捜索も虚しく息子は見つからず、帰宅。
「話によると、その日は空き家に入り込んで眠ったそうだ。恐怖はあったが、思いのほかよく眠れたと笑っていたよ。夕方には帰ると約束したにもかかわらず、門限を破るどころか無断で外泊するとは……。まったく、身の程知らずの不良息子め」
カールの声は怒っていなかったが、再び、今度は小さくため息をついた。
翌日、改めてカールは捜索に乗り出した。怪しいところを隈なく見て回ったが、見つからない。成果を上げるどころか、カール自身が人間に捕まりそうになり、やむなく捕獲者の指を噛み、怯んだ隙に逃走するという一幕もあった。
「神楽坂を怪我させてしまったから説得力はないだろうが、私が人間に危害を加えることはめったにないのだよ。あれは不覚としか言いようがないな……」
神楽坂は「指を噛まれたという市民からの通報を受けて、噛んだキツネを捕獲した」と言っていた。ロタールは子どもだから、むきになって過失を認めたがらないのかと勇は考えていたが、神楽坂が勘違いしていたというのが真相らしい。
「持久力と走行速度を考えて、ウマに変身して捜すことにした。短期決戦で片をつけるつもりだったのだが、見つかるはずもなかったんだな。なぜって、勇が家に連れ帰って飼っていたのだから」
「すみません、カールさん」
「いや、いいんだ。息子を延命させるために必要な手続きだったみたいだからね。私はウマとして毎日のように町を駆け回り――」
カールが一方的に話す時間が長くなる。彼はときどき顔を上げて息子の様子を確認するひと手間すらも惜しんで口を動かした。
勇が飼育を断念したことでロタールは山に帰ってきた。カールの喜びようは激しかった。
ロタールは勇に飼われていたことや、人間界で見た興味深い光景などを嬉々として語り、語り疲れて眠りに落ちた。
カールは息子の寝顔を眺めながら、今回の事態が起きた根本の原因について思案した。ロタールは前々からずっと人間と人間界に興味を持っていたから。それが最大の要因なのは間違いないが、他にもありそうだ。子どもたちのほとんどを早くに亡くしたという事情もあり、ロタールには多大な愛情と期待をかけてきたが、それがプレッシャーになって逃げ出したのかもしれない。カールにはそう思えてならなかった。
その罪滅ぼしと、悲劇の再演を防止する意味から、カールはロタールを甘やかすことにした。さんざん振り回されたことを怒らなかったし、親に心配をかけるなと説教もしなかった。「しばらくは人間界に行くのは禁止だ」と言いたい気持ちも、ぐっと我慢した。それどころか「恋しくなったころにまた行けばいい」と勧めさえした。
「ロタールはその言葉を額面どおりに受け取った、ということですね」
「そういうことになる。私としては虚を突かれた形だから、動揺はすさまじかった。今度こそロタールが死んでしまう気がしてならなかった。私は今度は最初からウマの姿で町を駆け回った。目立ちすぎて、ハンターが出動する騒ぎになった。殺されるのはロタールではなく私かもしれない。そんな新たな予感に急かされ、血眼になって捜し回った。当時は自分の行動を客観視するゆとりはなかったが、今になってみれば、あの時点で私は少々おかしくなっていたんだと思う」
「ブロック塀が崩れた現場付近を重点的に捜していたみたいですけど、なにか理由があるんですか?」
「もしかしたら、ロタールと事故になにか関係があるのかと思ってね。他に有力な手掛かりもないから、一本の藁にすがってみることにしたわけだ」
いつの間にかロタールは境内で一人遊びをするのをやめ、二人のあいだに腰を下ろしている。
なにか興味深い現象でも見物するように、しゃべる父親の顔をじっと見つめている。珍しく大人しいなと勇が思ったのも束の間、いきなり父親の脇腹をくすぐって発言の邪魔をする。眼差しでたしなめられると、聞き分けよく行為をやめる。そうかと思うと、勇の体にぴったりと抱きつく。唇を触り、口の中に指を入れようとする。その手をやんわりと止めて「危ないよ」と目で警告すると、そっぽを向いて境内の景色を眺める。やっと大人しくなったかと思うと、それも束の間、また父親にいたずらの手を伸ばす。
着信音が三人の動きを止めた。神楽坂を病院に連れて行った仕事仲間からだ。緊張しながら通話アイコンをタップする。聞こえてきた声は明るく、「精密検査の結果、脳に異状は認められなかった。神楽坂はすでに意識を取り戻していて、今日にも退院できる」と告げた。
二人の大人は晴れやかな表情を見合わせた。勇が電話で伝えられたことを改めて伝えると、ロタールは白い歯をこぼした。勇はロタールに向かって両手を広げ、ロタールは勇に抱きつく。抱擁が解かれるのを見計らってカールは言った。
「お別れのときが来たようだね」
「そうですね。むちゃくちゃ長くはなかったけど、濃密で充実した時間でした。とても貴重で楽しい経験で、なおかつ思い出に残る――」
「あー、まとめに入ってるー。人間ってそういう上手いこと言うの、得意だよね」
左右の大人の顔を忙しなく見比べながらのロタールの発言だ。カールは息子の顔を覗き込み、
「どうした、ロタール。勇との別れを悲しんでいないように見えるが、どういうわけかな」
「当り前だよ、パパ。だって、ぼくはキツネの姿で勇と四日もいっしょに暮らしたんだよ。それに、今日は小毬の姿でデートまでした。ぼく、今とっても満足しているんだ。だから、もうすぐお別れだとしても悲しくなんてないよ。永遠にお別れするわけじゃないしね。
いろいろあったけど、こんな楽しい体験をたくさんできたのも、勇がぼくを飼ってくれたからだよ。ありがとう!」
屈託のない笑顔。さわやかな声。
込み上げてくるものがある。
殺処分になりそうなロタールを飼うか飼わないかの葛藤。
手探りでロタールを飼育する態勢を整えていったこと。
ロタールをY山に帰すという決断、そして自己嫌悪。
ロタールが小毬さんに化けているとは知らずに楽しんだデート。
迷ったとき、苦しかったときもたくさんあったけど、でも。
『ありがとう!』
ロタールのその一言ですべて救われた。報われた。
あのとき、キツネを飼うという決断は、間違いじゃなかった。
今、勇ははじめて心からそう確信できた。
「人間界への思い入れ、君への思い入れ、大切な人との別れ……。もっとごたごたしたことになるかと危惧していたが、杞憂だったようだな」
カールが勇にそう耳打ちした。微笑んでいる。二人のあいだに挟まるロタールは、父親の肩に側頭部を押しつけ、にこにこしながら勇のことを見ている。
「人間界はいいところだな。たった数日過ごしただけで、一匹のキツネをこんなにも成長させるのだから。うちの家族の何匹かの死に関係しているから、正直マイナスイメージもかなりあったのだが、私の認識にもいい意味で変化があったよ。ありがとう」
「お礼を言われるようなことはしていません。でも、僕たちの世界が好きになったんだったら、ぜひまた遊びに来てください。キツネの姿でも、人間の姿でも、その他の動物の姿でも。あなたたちなら変身していてもきっと気づきますから」
親子は顔を見合わせ、晴れやかな笑みで勇に向かって深くうなずいた。
世界はそろそろ暗くなりはじめていたが、短い石段の最上段はあたたかな光に輝いていた。




