第二十一話
「このおウマさんはね、ぼくのパパだよ」
裸馬の首に抱きついたまま、首を大きく後ろにかたむけて、にこにこ顔で勇の顔を見ながらロタールは言う。
「ウマに変身できるなんて知らなかったから、気づくのが遅れちゃった。そのせいで神楽坂を撥ねちゃったし、勇のことも撥ねそうになって、ごめん。――とにかく、パパと話をしてくるからちょっと待っててね」
「えっ、待つって……」
「キツネは人前だと集中力が保てなくて、変身ができないんだ。パパみたいな熟練のキツネでもね。それに、話が長くなっちゃうかも。なるべく五分以内に済ませるね!」
ロタールは軽やかな身のこなしで裸馬の背中によじ登った。両腕の締めつけをきつくし、首にぴったりと頬を密着させる。勇に甘えるときに見せていたような表情だ。
裸馬はさっき見せた会釈をして、背中のロタールとともに角を曲がって姿を消した。勇はすぐさま友のもとへ走った。
ブロック塀があった場所の奥は、雑草が生い茂る狭い空き地で、神楽坂はその中央付近に横たわっていた。仰向けに四肢を投げ出した姿勢で、身じろぎ一つしない。
「神楽坂!」
駆け寄って顔を覗き込む。眠っているときのような表情。気を失っているが、胸が規則的に上下している。
慎重な手つきで体のあちこちに触れ、目視も織り交ぜて確認したが、怪我は右手の甲の軽い擦り傷だけだった。
「よかった……」
心からの安堵のつぶやきをもらした直後、近づいてくる足音を耳にして勇は我に返る。地べたに寝かせておくのも悪いと思いつつも、塀の残骸を跨ぎ越して道に戻る。
ちょうど道の角を曲がり、一組の男女が勇のいるほうに近づいてくるところだった。一人は、純白のスーツ姿、金色の長髪を後頭部で一つに結んだ、精悍な顔つきの三十歳くらいの男性。もう一人は、その男性に恋人のように抱きつく、小毬の姿のロタール。
一人と二人は道路の真ん中で相対した。男性の野性味ある造作の顔に微笑が灯り、親しみやすい印象が満面に行き渡る。
「ロタールから話は聞いているよ。息子が山を出てからの数日間、真心のこもった世話をしてくれたそうだね。最愛の息子の命を救ってくれたうえに、貴重な経験までさせてくれて、ありがとう。どちらの好意にも心から感謝しているよ」
男性は深々と頭を下げる。その様子を隣からじっと見つめていたロタールは、三秒遅れで自分も頭を下げた。
軽く下げただけの息子とは違い、父親のそれは長く続く。勇がひと声かけようとしたところで、ようやく持ち上がった。眉根を寄せたうえで眉尻を下げた表情に変わっている。
「息子が迷惑をかけたこともそうだが、君の友だちに怪我をさせたことも謝らなければいけない。もともと息子を捜していて気が立っていたうえに、君の友だちは銃を持っていたから、つい攻撃的になってしまったんだ。君の友だちを跳ね飛ばしたあとも攻撃をやめなかったのは、君がハンター仲間で、銃を隠し持っているのではと疑ったからだよ。疑わしくとも自制するべきだったのだが、やはり、頭に血が昇っていたのだろうな。人間のように理性的に振る舞える自信はあったのだが、我々獣にとってはまだまだ難しい課題らしい」
「最初、僕をスルーして神楽坂に突撃したのは、そういう理由からだったんですね」
「信じてはもらえないだろうが、手加減はしたつもりだよ。私の目的はハンターを殺すことではなく、銃を発射させないことだったのだからね。ところで、君の友だちの容体は?」
「大丈夫です。雑草がクッションになったみたいで、手にちょっと擦り傷を負っただけでした」
「そうか……。安心したよ」
男性は短い言葉に込められた想いに見合った表情を顔に浮かべた。ロタールもそうだが、元はキツネといっても感情表現は実に人間らしい。
「自己紹介が遅れたが、私はカール。この子の父親だ」
カールは息子の頭を優しくぽんぽんと掌で叩く。ロタールは父が説明しているときも頭を下げているときも、ずっと父の腕にしがみついたままだ。
「普段はY山で息子と二匹で暮らしている。人間界まで下りてきたのは、息子を捜すためだ。私にとってロタールはかけがえない存在でね。どの動物にとっても我が子は大切だが、私にはいっそう大切に思う事情があるんだよ」
「ぼくのママも、きょうだいも、みんな交通事故とか病気とかで亡くなっちゃって。だからパパはぼくのことをとても大切にしてくれているんだ!」
彼らしい朗らかな声でロタールは説明した。
親子は顔を見合わせてうなずき合う。カールが語を継ぐ。
「ロタールが行方知れずになったことに動揺するあまり、君の友だちを含む、多くの人間に迷惑をかけてしまった。重ね重ね、君たちにはすまないと思っている。私も人間界における常識についてはそれなりに勉強しているが、こういうときに加害者に求められているのは、被害者が知らない加害者の情報を伝えることなのだろう? 君が知らない場所でした私の行動や、君が知っている場所でした行動の原理などを」
カールは周囲を軽く見回し、
「今日大きな事故が起きたばかりの場所だ。今は無人だが、今後誰かが様子を見に来ないとも限らない。落ち着ける場所で話がしたいから、近場で、人間があまり来ない場所に移動したいのだが」
「分かりました。ここから徒歩五分くらいかな、小さな神社があるのでそこに行きましょう」
勇は『神楽坂鳥獣捕獲センター』の面識のある職員に電話し、神楽坂をK市民病院に連れて行くように依頼した。事情を説明するさいには、細道にもかかわらずスピードを出しすぎた車に撥ねられたと偽った。
職員は嘘を嘘だと疑う様子もなく、神楽坂を車に乗せて現場をあとにした。勇は物陰で待機していたキツネの二人とすぐさま合流し、目的地へ。
神社は丈の高い木々に四囲を囲まれ、さびれた住宅地の一画にひっそりと建っている。
一人と二匹は朱色の鳥居を潜る。境内は無人だ。
「わー、すごーい。大きな木がいっぱい! あっ、なにこの動物。イヌ? トラ? キツネじゃないよね」
神社を訪れたのははじめてらしく、ロタールは子どもらしくはしゃいでいる。勇ははらはらしながら見守る。狛犬を撫でるのはほどほどで切り上げ、柵の外側から神木を見物するなど、最低限のマナーは守れているようだ。
「勇、座ろう」
カールに促されて石段に腰掛ける。参道の終点、賽銭箱と本坪鈴がある場所に上るための、たった三段の短い階段、その最上段に。
「さて、どこから話そうか。私たち親子がY山で暮らしていることには触れたと思うが――」
カールには永遠の愛を誓った伴侶のメスギツネがいて、彼女とのあいだに複数回の妊娠・出産で合計九匹、子どもを儲けた。五男四女。
しかし、伴侶は交通事故――麓の道路で、走行する自動車に撥ねられて即死した。子どもたちも病気に罹ったり、母親と同じく不幸な事故の犠牲になったり、Y山に棲息する大型の肉食獣に捕食されたりするなどして、相次いで他界した。
カールのもとに残されたのは、四男のロタールのみ。
「我々野生動物にとって、たくさん産んだ子どもが一匹も生き残らないことはざらにある。それは重々承知しているのだが、我が子を失うというのは、死因がどうであれつらいものだ。今となっては、込み上げた悲しみに足が止まることは少なくなったが、ときどき妻や子どもたちのことを思い出すよ。悲しみに打ち沈むことはもはやないが、永遠にいなくなってしまった存在をたびたび思い出すこと、それ自体が喪失を克服しきれていない証拠なのだろうね」
カールは言葉を切り、自らの膝に落としていた双眸を話し相手に転じる。勇は「分かります」というふうに深くうなずく。
柄杓を手に、物珍しそうに手水場を眺め回している息子に向かって、カールは「いたずらをしてはいけないよ」と声をかけた。ロタールが手にしたものを元の場所に置いたのを見届けてから、再び話しはじめた。
「ロタールはたった一匹の生き残った子どもだから、惜しみなく愛情を注いだよ。同時に、他の子や母親のような目には遭ってほしくない一心で、人間界のことを厳しく教え込んだ。人間の言葉で言うところの英才教育だな。その成果として、息子は今回君を騙した」
「はい、見事に騙されました。神楽坂が小毬さんといっしょにいると電話をかけてくるまで、デートをしているのは小毬さん本人だと完全に思い込んでいました。言動のこまかな部分に違和感を覚えることはありましたけど、別人とまでは疑わなくて。見た目は小毬さんそのものだし、振る舞いも彼女そっくりだったし。人間世界の常識も幅広くインプットされているみたいで、すごいですね」
「対象を知悉したほうが精密に変身できるからね。他の子どもたちと比較しても、ロタールには変身の才能があるようだ。『長生きするためには必要だ』と口酸っぱく言ったから、奮起したという側面もあるのだろう。指導が厳しすぎるだろうかと悩むこともあったが、よくついてきてくれたよ」
カールは目を細めている。
「そもそもの話なんですけど、キツネって人間に化ける能力があるものなんですね。カールさんはウマにも化けていたから、正確には動物に変身する能力、かな。キツネという生き物は、フィクションの世界ではたしかにそういう描かれ方をしていますけど、まさか実際にそうだなんて」
「この世界のすべてのキツネがそうなのかは分からないが、Y山で暮らしているキツネはみなその能力を持っているよ」
父親ギツネは平然と言ってのけた。
「もちろん、上手いか下手か、能力を積極的に使いたがるかなるべく使わないようにするかは、個体によって違う。ロタールや私のように巧みなキツネもいれば、人間らしき生物に姿になるのがやっとのキツネもいるというふうにね。
変身能力を行使する意欲については、消極的なキツネが多いね。我々は基本的に山で過ごしているときは変身しないから、実質的に人間界に行くのに消極的ということなのだが。私たちは本質的に人間を恐れているし、キツネにとって人間界のルールは複雑すぎて、適応するのが面倒なのだよ。毎日腹が七・八割満ちるくらい食べられて、安全で寝心地のいい場所で眠れれば、それで万々歳。そう考えるのがキツネという生き物なのなのだよ」
「ロタールは人間界に積極的に関わろうとしているけど、そういうキツネは珍しいんですね」
「ああ、少数派だ。私と二匹で人間界に出かけたときにも、ロタールはさんざん怖い思いをしてきた。他の子どもたちのように、その体験が人間世界を忌避することに繋がることも少なくないのだが、ロタールは逆に興味関心を深めていった。しかし私は――」
「その好奇心がロタールに不幸をもたらすことを恐れた、ということですか?」
「そのとおりだ。キツネにしては過保護と言わざるを得ないが、私はこれまでの経験から、家族を失うことを恐れる気持ちがキツネ一倍強いんだよ。だから、それとなくY山に釘づけにするように仕向けたのだが、功を奏さなかった。禁じることで欲望をより高める結果になってしまったのだよ」
「なるほど……。僕は結婚をしていなくて子どもはいませんが、そういう教育方針は逆効果だという話はよく聞きます」
「人間もそうなのか。我々よりもはるかに頭がいいはずの人間でも、同じ過ちを犯すものなのだな。ある意味慰めになったと言うか、なんと言うか……。
そもそもの話、キツネの世界の掟として、子どもをいつまでも親のもとに縛りつけてはならない。生存や子孫を残すためにともに過ごすのだとしても、自主性は尊重しなければならない。『一匹だけで人間界に行きたい』と言い出した息子を止める口実を見つけられず、親子二匹で出かけるときよりも入念に注意事項を言い聞かせる、くらいしか対策が思い浮かばなかった。変身能力も知識もすばらしいものを持った子だから、大怪我はしないだろうと踏んでいたのだが、まさか初っ端から人間に捕まるとはね」
大きなため息があふれ出した。カールの口からだ。これまで彼がため息をつく機会は何回かあったが、もっとも規模が大きかった。




