第二十話
「ウマっていう動物、ロタールは知ってる?」
小走りに走りながら勇は尋ねてみた。返事はない。ロタールの顔を見ると、強張っている。
もう一度、今度は努めて柔らかな口調で尋ねる。小毬の姿のキツネは少しぎこちなくうなずいて、
「知ってる。でも、実物は見たことがない。だって、山にはいないから」
「なるほどね。じゃあ、どんな動物かは分かる? 外見とか、性質とか」
「走るのが速いって聞いたことあるよ。よく分からないけど、自動車くらい?」
「そのくらいかな。動物の中ではかなり速い部類に入ると思う。だから神楽坂はなかなか捕まえられなくて、苦戦しているんだ」
「神楽坂……。僕を捕まえた人……」
そのつぶやきを聞いて、ロタールが怯えている理由に合点がいった。未知の動物、そしてハンターの神楽坂。畏怖する存在が二体も待ち構えているのだから、顔色が悪くなるのも足取りが鈍るのも無理はない。
『場所を聞いたら、胸騒ぎがする理由が一発で分かるぜ。東町二丁目――そう、小毬が壁の崩落事故に巻き込まれたところだ』
「事故現場……」
二の句が継げない勇を尻目に、神楽坂はどこか淡々と説明を追加した。
『複数の目撃証言が寄せられているんだけど、裸馬は今朝からずっと、崩れた塀のあたりを行き来しているみたいだな。といっても、目の前をせわしなく何回も往復しているんじゃなくて、現場を中心とした一帯をランダムな経路で走り回っているって感じらしい』
「塀のあたりを走り回っているということは……。まさか、ブロック塀の崩落事故は裸馬の仕業?」
『いや、違うんじゃないか。壁に人為的に壊された形跡は認められなかったという報道だったから。人の手が加わっていないなら、ウマの胴体なり後ろ足なりも右に同じなんじゃないか? 断言まではできないけど』
「まあ、そうだよね。普通に考えれば」
『ただ、限定された狭い領域をずっと走り回っているっていうのは、今までにないパターンだ。裸馬になんらかの異変が起きているのは間違いない。その異変がなんなのかはちょっと想像がつかないが、こちらにとって不都合な変化である可能性も想定しておかないと。だから、急に呼び出しておいてなんだけど、それなりのことが起きる覚悟だけはしておいてくれ』
そこで通話は切れた。
勇はスマホをしまいながら「なんだよ、それなりのことって」と、心の中で吐き捨てるようにつぶやいたのだった。
少し遠く思えた事故現場も、走ると思いのほか近かった。
勇たちは足を緩めた。道中、裸馬の姿や気配は目にしていなかった。ロタールは人間の姿になっても優れた嗅覚を継承しているらしいが、ウマに結びつくにおいはキャッチできなかったらしい。
ロタールが勇の腕に両腕を絡みつける。震えてはいないが、強張ったような肌の感触から、強い恐怖と不安に苛まれているのが伝わってくる。顔色は少し悪いように見える。
「平気?」
「うん……。自分の脚で立っていられるから、まだ平気」
「妥当な判断基準だね。ちょっと神楽坂に電話にしてみる」
裸馬は事故現場周辺を駆け回っているそうだから、これまでよりも遭遇率は格段に上がっているはず。もしかしたら取り込み中かもしれないとも思ったが、ワンコールで繋がった。
「いいところにかけてきた。ちょうどさっき目撃したところだから、気をつけろ」
「マジか。神楽坂、僕はどうすればいい? 手伝えることはある?」
「そこのところをちょっと話し合っておきたい。ブロック塀があった場所、覚えているな? その前にいるから、そこで落ち合おう」
スマホをポケットに戻しながら短くため息をつく。
勇は最初、ロタールを別の場所に待たせておいて、自分だけ神楽坂に会うつもりだった。ただ、近くで裸馬が出没したのであれば、一人にするわけにはいかない。
「神楽坂が打ち合わせをしたいって言っているから、いっしょに行こう。あいつは銃も持っているし、合流したほうが格段に安全だ」
「大丈夫かな? ぼく、小毬に変身しちゃってるけど」
「僕が上手く説明する。君と僕が出会った日みたいに、君を檻に閉じ込めるなんて真似は絶対にさせないから。あいつは話せば分かる男だから、心配はないよ。さあ、行こう」
手を引っ張って歩き出そうとしたが、ロタールの両足はその場から動かない。視線を合わせると、弱気と不満が入り混じった表情が見返してくる。
キツネを飼いたいと神楽坂に願い出て以来、勇は数々の醜態をさらしてきた。
彼が自覚しているだけでもかなりある。
ロタールはその過去をすべて見透かししていて、そんな頼りない人間に自分の命を任せるのが不安なのかもしれない――そんな荒唐無稽な疑いが勇の胸を過ぎった。
頭の中は読めなくても、立ち居振る舞いから、「自信のなさ」のようなものを読み取った可能性は考えられる。
「大丈夫。大丈夫だから」
半分は自分自身に言い聞かせるように、そう声をかける。
ロタールは不安の色を顔に残しながらも、再び歩き出した。勇もそれに続く。
ここを曲がれば右手に問題のブロック塀が見える、という地点まで来た。勇は首だけを突き出して塀のほうをうかがう。
現場は様変わりしていた。ブロック塀の広範囲が崩れ、ばらばらになったコンクリートブロックが路面上に山を作っている。その残骸と道を峻別するように張られたロープのすぐ外側に、神楽坂がたたずんでいる。ユニフォームであるオレンジ色のベストを着ていて、右手には一丁のライフル銃。
勇が隣を向くと、ロタールは身震いをした。そして、涙が滲む瞳で勇を見つめる。
「大丈夫だよ。今の君は小毬さんの姿なんだから、なにがあっても君は撃たない。断言してもいいよ」
「でも……」
「怖い気持ちは分かるよ。でも、大丈夫。絶対に、君が恐れているようなことは起こらないから。さあ、合流しよう」
抵抗があった。しかし、勇は心を鬼にして無理やり角を曲がった。
神楽坂はすぐに二人に気がついた。
「あれっ? なんで小毬も来てるんだ。俺が呼んだのは勇だけだぜ」
ロタールは勇の背中に隠れた。神楽坂は眉間にしわが生じる。二人で来たこと、小毬の反応、両方に対する違和感らしい。
勇はロタールを肩越しに一瞥してこめかみをかく。
神楽坂への説明義務があるのは分かっていた。ただ、どう言えば納得させられるのか。いざ目の前まで来ても一言も浮かばない。
「ていうか、もう包帯がとれたのか? いや、そもそも、歩いてここまで来られるはずがないよな。脚も怪我をしたんだから。……お前ら、なにかおかしくないか?」
神楽坂が歩み寄ってくる。勇の目は泳ぐ。ロタールは勇の服の袖をぎゅっと握りしめた。
唐突に神楽坂の歩みが止まった。勇はその顔をまじまじと観察して、息を呑んだ。双眸を見開いているのだ。勇たちのほうを向いているが、二人の顔を見ていない。その瞳が捉えているのは、勇たちの背後。
「勇、後ろっ!」
神楽坂は緊迫した声で叫んだ。
「ウマだ! 裸馬……!」
弾かれたように振り向いた。勇のすぐ後ろ、五メートルも離れていない位置に、巨大な青毛のウマがたたずんでいた。
鼻息が虚空へと白く、ほとんど規則的に吐き出されている。藁を連想させる乾いた植物性の匂いがうっすらと漂ってくるように感じるのは、無知な人間の先入観が生み出した幻覚なのか。のちに崩落し、小毬を病院送りにすることになる塀の前ですれ違ったときが、彼我の距離が一番近かったはずなのに、当時よりも裸馬の存在を近く感じる。
漆黒の瞳はぎらついている。
リラックスして立っているように見える四肢に、外的な変化はないにもかかわらず、運動に備えて力が込められたのが勇には分かった。
寒いような暑いような温度に全身が包まれ、体毛が一本残らず逆立つ感覚。
「危ない……!」
神楽坂が絶叫した。
勇は転々と遠ざかるボールを追って道に飛び出した幼児を、タイミング悪く突っ込んでくる暴走トラックから守るようにロタールを激しく抱き寄せ、路面に伏せる。そのすぐ脇を、裸馬が猛然と駆け抜ける。勇は蹄の音と風圧からその事実を把握した。
腕の中にロタールを感じながら顔を上げる。逃げるか戦うか、逃げ腰気味に銃を構える神楽坂に、裸馬はスピードを落とさずにぶつかっていく。ぶつかられるほうは、直前になって回避行動をとろうとしたが、遅すぎた。両者は衝突し、神楽坂の体は大型車に撥ねられたかのように吹き飛ぶ。崩落したブロック塀の瓦礫の山のてっぺんをかすめ、もともとは塀がそびえていた場所を通過、地面を激しく転がりながら勇の視界から消えた。
「神楽坂!」と叫ぼうとしたが、声にならない。
壁を通過して少し進んだ曲がり角、カーブミラーの脇で裸馬は急ブレーキをかけた。ダンスのステップを踏むように四肢の動きで体の向きを百八十度回転させ、地に伏せている勇とロタールに向き直る。
四肢に力がこもる例の気配。直後、裸馬が突進してきた。
逃げるためか、立ち向かうためか――自分でも分からないまま、勇は立ち上がろうとした。
しかし、体が動かない。
くそっ! 立てよ! 動けよ!
自分を励ます声さえも外には出ていかない。肉体的に焦り、精神的にもがくあいだも、アスファルトを叩く蹄の音は着実に距離を詰めてくる。
それがゼロになった暁には、どうなるのか。
頭を踏みつけられるのか。頭蓋骨を砕かれて脳みそをつぶされて、死ぬのか。
僕が守らなければならない、ロタールもろとも。
そのとき、勇の真下で動きがあった。
ロタールが勇とアスファルトの狭間からするりと這い出しかと思うと、勇の顔のすぐ前に立って両手を広げた。
「やめろ! やめるんだ!」
勇の絶叫が響く。裸馬の走るのをやめない。ロタールは直立不動だ。
勇は最悪の事態を覚悟した。反応が遅れながらも避けようとした神楽坂があれほど激しく吹き飛ばされたのに、正面から受けて立つロタールはどれだけの肉体的ダメージを食らうことになるのか。
僕のせいで、小毬さんの体をした、子ギツネのロタールが傷つく。
僕が裸馬目撃の報告をしなかった報い、だとでも言うのか。
責任という過失を犯した責任は、必ずとらなければならないのが、この世界の理なのかもしれない。
――それならば。
「この野郎……!」
人智を越えた力に突き動かされて勇は立ち上がる。ロタールを軽く突き飛ばし、さっきまで彼が立っていた場所に立ち、さっきまで彼がしていたのと同じポーズをとる。
責任をとるのは、僕だ。僕一人でいい。
ウマはぐんぐん近づいてくる。怯む気配はない。止まる気配もない。
しかし、勇は退く気はない。
間違った選択なのかもしれないけど。後悔するかもしれないけど。
でも、絶対に守ってみせる。
「傷つけさせない! お前なんかに、僕の大事なロタールを――」
しかし、恐怖には耐えきれず、目をつむってしまう。
ぶつかられた衝撃は、いつまで経っても感じない。
恐る恐るまぶたを開く。視界の端をなにかが横切った。
「パパ……!」
ロタールが裸馬に走り寄り、ジャンプ。細い両腕を、太く逞しい首へと巻きつける。ぶら下がったまま頬ずりをしている。
ウマはまったく嫌がっていない。それどころか、さも心地よさそうに尻尾をゆっくりと左右に振る。
「パパ、パパ、会いたかった。会いたかったよ……!」
不意に、裸馬と目が合った。
ウマは、軽く首を縦に振った。人間でいえば会釈をするように。ウマらしいというよりも、人間くさい挙動で。
「……あ」
勇はロタールが「変身の達人」と言っていた存在のことを思い出した。




