第七話 うごめき 其之二
春の夜空に、稲妻のような光が走った。
直後、屋敷の近くで轟音が鳴り響いた。
「槐之介様ーーーーー!!!」
いつものように穏やかに月見をしながら、いつの間にかうとうとと舟を漕いでいた陸離の耳に、ただならぬ叫び声が飛び込んできた。
夜の静けさを切り裂くような声に、胸騒ぎを覚えた陸離は、急いで声のする方へと駆け出した。廊下を抜け、庭を横切り、屋敷の玄関前まで辿り着いたところで、陸離の足が、ぴたりと止まった。
そこには、昼間に元気に送り出した槐之介が、無残な姿で倒れていた。
いつもは艶やかに輝いている金色の髪は、血か土かも分からないほど汚れて乱れている。深い緑の着物もところどころ裂け、そこから覗く肌には、目を背けたくなるほど深い傷がいくつも刻まれていた。額から頬へと流れる血が、整った顔立ちを汚している。
その身体からは、なおも血が流れ続け、足元には黒々とした血溜まりが広がっていた。
「槐之介様……!」
全身を血まみれにした千歳が、槐之介の傍らで必死に呼びかけている。
「いったい、何があったの!?」
陸離が駆け寄ると、千歳は青ざめた顔を上げた。
「陸離様……これは、今までの妖怪とは違います。槐之介様が、ここまで傷つけられるなんて……」
千歳の声が震える。
「これまでの妖どもなら、槐之介様が傷ひとつ負わず、青天霹靂でたやすく一掃できたはずです。ですが、今夜の敵は……」
千歳は言葉を詰まらせた。
「……敵は、何だったの?」
「分かりません。姿も、何者なのかも……何も」
千歳は、槐之介の血で黒く染まった自分の両手を見つめた。
「ただ……黒い何かが、闇の中から現れて……槐之介様が、あれほど抵抗なさっていたというのに……まるで、何もできないかのように……」
「それに……」
千歳は槐之介を見つめた。
「血は……一滴も吸われていません」
「……え?」
「いつもの妖どもでしたら、柘榴様の血が混ざった槐之介様の血を狙うはずなのに……あれは血を吸うことすらせず、ただ槐之介様を傷つけ続けていたのでございます」
千歳の声が、わずかに震えた。
「まるで……苦しむ姿を見て、愉しんでいるように……」
陸離は、ぞくりとした。
まるで、血の呪いと黒き血の根幹にある何かに、一歩近づいたような気がした。
「このような傷……柘榴様の血でも治せぬであろう」
「そもそも、柘榴様がこれほど大量の血をくださるかどうかも……」
「丹若大社へ、今すぐお願いして参ります……!」
ざわめく家の者たちの声を聞いた瞬間、陸離の頭にひとつの考えが浮かんだ。
(そうだ……血)
自分の血なら。
柘榴の血と違って、自分のものだから量を気にする必要はないと思った陸離は迷わなかった。
槐之介のそばに落ちていた青天霹靂を手に取り、自分の手首に刃を当てる。
「陸離様!?」
ためらいもなく、刃を引いた。
白い肌に赤い線が走り、次の瞬間には、鮮やかな赤い血が溢れ出した。
「陸離様、いけません!このような傷を治すのに、それほど血を使えば……陸離様が死んでしまいます!」
瑞穂が、涙を浮かべて必死に叫ぶ。
「大丈夫……!」
陸離は、一片の曇りもない決意をその目に宿し、まっすぐ槐之介を見つめた。
「私が、治してみせる……!」
ぽた、ぽた、と。
手首から流れ落ちた赤い血が、白い腕を伝って滴り落ちる。
陸離はその腕をゆっくりと槐之介の口元へ運び、流れ出る血をその口の中へ垂らした。
すると、今にも息絶えようとしていた槐之介の身体が、ぴくりと動いた。薄く開かれた口から覗いたのは、普段は決して見せることのない鋭い牙。
次の瞬間、槐之介は本能のままに、陸離の手首へその鋭い牙で噛みついた。
「っ……!」
鋭い痛みが走ると同時に、ごく、ごく、と凄まじい勢いで血を吸われていく感覚が、はっきりと伝わってきた。
陸離は槐之介の頭をそっと自分の膝に乗せ、その身体を包み込むように抱きしめた。金色の髪を右手で優しく撫でながら、じっと耐えた。
(……これはやばい、意識が……)
手首から血が抜けていくたびに、身体から力が抜け、手の感覚が徐々に痺れていく。
それでも、身体の痛みなど、もうどうでもよかった。
(この人が生きてくれるのなら、自分の血なんて、いくらでもくれてやる)
何度も意識が遠のきかける。
そのたびに陸離は唇を血が滲むほど噛み、歯を食いしばって耐えた。
――どうか。
神様よ、どうか二度と、私たちを生死の縁でわかたないでください。
そんな胸を刺すような悲しみが、どこからともなく陸離の胸にこみ上げてきた。
――これは、誰の感情なのだろう。
まだ出会って、ほんの数週間しか経っていない。
それなのに、まるでずっと昔から、この人を想い続けてきたかのようだった。この胸にある想いは、もう陸離自身にも止められないほど、大きく膨れ上がっていた。
そんな永遠にも思えたひとときに、槐之介の身体に刻まれていた傷が塞がり始めた。
裂けた皮膚がゆっくりと閉じ、溢れていた血が止まっていく。青ざめていた顔にも、みるみるうちに血の気が戻り、槐之介はゆっくりと両目を開いた。
「……よかった」
その瞳に光が戻ったのを見て、涙でくしゃくしゃになった陸離は、ようやく張り詰めていた息を吐いた。
意識を取り戻した槐之介は、ぼんやりと周囲を見渡した。
やがて、その視線が自分の手首へと落ちる。
「……ッ!」
ようやく状況を理解した槐之介は、慌てて牙を抜いた。
陸離の腕を離すと、今度は逆に、崩れ落ちそうになった彼女の身体を抱き支えた。
「……なぜだ。なぜ、お前がこんなことを……」
槐之介の声が響いた。
いつもの落ち着いた声音からは、想像もつかないほど取り乱していた。
ふと自分の手へ視線を落とす。
そこには、陸離の手首から流れ出た赤い血が、べったりと付着していた。
「それに……この血は……」
槐之介は目を閉じ、腕の中の陸離を壊れもののように大切に、強く抱きしめた。まるで込み上げる感情を押し殺すように、その身体を抱いたまま、深くうずくまった。
驚き。
戸惑い。
喜び。
そして――深い、深い悲しみ。
槐之介の心の奥底に、五百年という歳月の中で少しずつ薄れていったはずの感情が、一気に込み上げてきた。
その目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
まるで、ずっと前になくした宝物が再び手元に戻ってきたかのように、陸離を大事に、大事に抱きしめた。
◇◇◇
そのすべてを、屋敷の外、月明かりの届かぬ物陰から、じっと見つめている者がいるとも知らずに――
「あいつ、とんでもないものを屋敷に隠しやがったな――」




