第四話 春の月下は夢うつつ
この世界に来たあの日から数えて、二週間。
身寄りのなかった陸離は、いとも簡単にこちらの生活に馴染んでいた。
外出こそできないものの、屋敷の中では何不自由なく過ごさせてもらっている。思い返せば、これほど気を抜いて生きたことは、今まで一度もなかった。
昼間は槐之介がほとんど屋敷にいないが、他の家の者たちとは仲良くしていた。
陸離は数日おきに少しずつ血を分け与える。ほんの微量の血であっても、それで誰かが楽になるのなら、陸離にとっては嬉しいことだった。
ただ、ひとつだけ。
呪いのことをもっと聞きたいと思っているのに、槐之介とはなかなか顔を合わせることができない。昼間はほとんど屋敷におらず、帰ってくる頃には陸離が眠っていることも多かった。
だから陸離は、夜になると縁側に居座るようになった。
月が昇り、柔らかな月明かりに照らされた庭の桜の木が、百花の香を含んだ春風に揺れている。風が吹くたび、満開の花びらがひらひらと舞い落ちていく。月を眺めながら、用意してもらった酒を次々と盃に注ぎ、ぐいぐいと飲み干していく。
(いつの時代も、夜桜は美味な酒によく合いますなぁ)
元の世界で仕事でもプライベートでもよく酒を飲む陸離にとっては、これ以上にない良い暇つぶしであった。
――そう、暇つぶしのはずだった。
けれど本当は、槐之介が帰ってくるのを、ずっと待っていた。
あの日の夢を見て以来、陸離はどうしても、あのギャップが気になって仕方がなかった。
夢の中で見た、少しだけ髪の短い槐之介。
あの桜の木の下で、永遠に続けばいいと笑った彼。
夢の中で感じた、言葉にできないほどの愛おしさ。
――あれが何だったのか、会って確かめたかった。
だから今夜も、夢に出てきた桜を縁側から眺めながら、槐之介の帰りを待っていた。
「ひとりで、やけ酒とは。ずいぶん景気よく飲んでいるな」
「……!」
うとうとしていた陸離の耳に、聞きたかった声が届き、ふいと顔を上げた。
桜の木の枝に、槐之介が腰掛けていた。
月を背負い、夜風に金色の髪を揺らしている。
(美しい)
陸離は思わず目が離せなくなった。
夜桜にこんなにも似合う人がいるのかと思うほど、その姿は美しかった。
そして何より、ようやく会えたことが、たまらなく嬉しかった。
「やけ酒なんかじゃないもん。それと……おかえりなさい」
陸離は珍しく、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「あぁ」と槐之介は言うと、ひらりと木から降りて、陸離の目の前までやってきた。
陸離はふと、槐之介の着物と、腰に差した愛刀――「青天霹靂」に、黒い血がびっしりとついていることに気づいた。
「血がいっぱい……お怪我、ありませんか?」
「なんだ。俺の心配でもしているのか?」
槐之介が、意地悪そうな笑みを浮かべる。
「こんなに血がついてたら、そりゃ心配しますよ」
「そうか。ずいぶん可愛いことを言うようになったな」
陸離は一瞬きょとんとしたあと、むっと眉を寄せた。
(なんなの、この人。いちいち言い方が嫌味なんだけど……)
槐之介は、少しだけ口角を上げた。
「しかし、これは俺の血ではない。お前も知っての通り、この世では赤き血は、妖力を増幅させる唯一のもの。その赤き血を吸った俺らの血も、また例外ではない」
(じゃあ毎日、血を吸った妖怪に襲われ戦っている……ってことなのかな)
「ってことは、今日も柘榴様のところにいらしたのですか?」
「なんだ、もうそこまで知っておるのか」
槐之介が少しだけ目を細める。
陸離は盃をぎゅっと握り、酒を見つめた。
「俺は戦いに妖力を使うからな。家の者たちよりも多くの血を飲まなければ、すぐにあのように干からびてしまう」
「じゃあ、私の血でもいいじゃないですか?」
「ならん。お前の血など、まずそうで飲む気にもならん」
陸離は、しばし無言で槐之介を見つめた。
(……この人、ほんっとに失礼だな)
せっかく心配してやったというのに、これである。
陸離は呆れたように小さく息を吐いた。
そう言って、槐之介は陸離の隣に腰を下ろした。
陸離は、いい雰囲気だったはずなのにそんな暴言のようなことに、それ以上言い返すことができなかった。
そんな陸離を見て、槐之介は小さく息を吐き、陸離の手にある盃へ手を伸ばした。
そのまま陸離の手ごと盃を持ち上げ、酒を一気に飲みほした。
「そんな難しい顔をするな。仕方ない、俺がお前のひとり酒の相手をしてやろ」
その言葉に、陸離は思わず顔を上げた。
「それ、一人酒じゃないじゃん」
「それもそうだな」
陸離がむすっとすると、槐之介は愉快そうに笑った。
二人はそのまま、春の夜桜の下で二人酒を飲み始めた。
「槐之介さんと、春風の香りをまとった夜を過ごせて、なんだかわからないが懐かしい気持ちになります」
陸離は、心に思ったことをそのまま言葉にした。
それなりに酔った槐之介は目を見開き、なぜか懐かしそうに陸離の顔を見つめた。
(変なこと、言っちゃったかな……)
「さあさあ!槐之介さんもたくさん飲んじゃって!」
そう言って陸離は槐之介に酒をすすめ、自分も負けじと飲み続けた。
やがて二人は、用意された酒をすべて飲みほした。
――そして、最後まで「まだまだいける」と豪語していた二人は、揃って縁側に転がるようにして眠りこけていた。
◇◇◇
そんな陸離は、また夢を見た。
黒い靄がかかり、何もかもが不明瞭な視界の中。
ぼんやりと浮かび上がったのは、見慣れた縁側だった。
その隣には、盃を手にした槐之介がいる。
満足そうに目を細め、いつものように酒を口にしていた。
今日と同じ、春風の香りをまとった夜。
月明かりは眩しいほどに庭を照らし、桜の花びらが、二人の間を静かに舞い落ちていく。
――このまま、ずっと。
そんな気持ちだけが、夢の中に静かに残っていた。




