第十四話 奥にある悪意
夜の湖畔で、宝寿はじっと陸離を見つめていた。
いつまで見とるんじゃ、この人は――そう思った刹那、宝寿の視線がふいに動いた。
(また、どうした……?)
戸惑う陸離を、宝寿はさらに強く抱き寄せる。
先ほどまで軽やかだった風が、急に荒々しく吹き始めた。
宝寿は空を見上げ、眉間に深い皺を刻んでいた。
「来たな」
ついさっきまで輝いていた月に、いつしか灰色の雲がかかっていた。風が湖面を打ち、波紋が幾重にも広がっていく。
陸離にもわかる。
何かが来る。
何か、良からぬものが、こちらへ向かってきている。
宝寿の視線を追うと、湖の向こうに広がる森から、無数の妖怪どもが姿を現した。
角あるもの、牙あるもの、異形のもの――その姿はまちまちで、まるで百鬼夜行のごとく、森から次々と湧き出してくる。どれも陸離の知る「妖怪」という言葉にふさわしい姿をしていた。
「っ、どういうこと?!」
「とにかく、俺から離れんなよ」
宝寿は陸離を左腕で抱え込んだまま、背中に担いでいた槍を右手で抜き放った。
その眼差しから、先ほどまでの余裕は跡形もなく消え失せていた。
「来るぞ」
森から妖怪たちが一斉に飛び出した。
一匹。
また一匹。
次々と迫り来る妖怪を、宝寿は槍の一撃で薙ぎ払っていく。
振り抜かれた槍が夜気を切り裂き、妖怪の身体を吹き飛ばした。地面に叩きつけられた妖怪は、黒い煙となって消えていく。
右へ薙ぐ。
返す刃で、左。
飛びかかってきた妖を槍の柄で打ち落とし、間髪入れずに迫る別の妖へ刃を振り抜く。
陸離を左腕に抱えたまま、宝寿は一歩も退かなかった。
「雑魚ばっかりじゃあ、この女は殺させねぇぜ!」
赤い光をまとった槍が夜の闇を薙ぎ払い、迫り来る妖どもを次々と弾き飛ばしていく。
だが、その数があまりにも多すぎた。
斬っても、払っても、森の奥から新たな妖が姿を現す。宝寿の額には汗が浮かび、陸離を抱く腕にも、わずかな力みが滲んでいた。
「ねえ、宝寿……!」
「んー? どうしたの、陸離ちゃん」
「この妖たちって、もしかして私を狙っている?」
「御名答。赤い血ってのは、どうにも厄介でねぇ。みんな陸離ちゃんを殺す気満々で来てるよ」
どうして、これほど大量の妖怪が自分を狙っているのか。
赤い血を持っているから――それだけなら、殺す隙などいくらでもあったはずだ。これほど大勢で追いかけてくる理由としては、どうにも腑に落ちない。それに、自分が赤い血を持っていることを知るには、あまりにも早すぎる。
何か別の理由があるのではないか。
陸離はそう考えながら、周囲の妖怪たちの動きを注意深く見ていた。
しかし、考えを巡らせる暇もなく、森の奥から、ひときわ大きな影が飛び出してきた。
鱗に覆われた巨体。大きく裂けた口。
魚のような妖が、地面を揺らしながら突進してくる。
「なんかこっちにどデカいのが来たーーー!」
陸離の悲鳴を合図に、宝寿は再び槍を構えた。
ガキィンッ!
槍が、妖の硬い鱗に食い込んだ。
「……あれ?」
抜けない。
「ちょ、まさか……抜けなくなっちゃった?!」
宝寿が力を込めて鉾を引く間にも、左右から別の妖どもが迫ってくる。
陸離を抱えたままでは、槍を捨てて逃げることさえままならない。
「……こりゃ、ちょいとマズいかもな」
宝寿から、珍しく笑みが消えた。
それを見た陸離は、怖さのあまり、思わず目をつむる。
(……槐之介、助けて)
「――壱之陣」
低く、凛とした声が夜の湖畔に響いた。
「蒼天戟ッ!」
空を裂くような轟音とともに、金色の光が夜の闇を貫いた。
まばゆい光が湖畔を照らし、迫り来ていた妖どもが一斉に切り裂かれていく。
まるで、曇天を覆う雲さえ断ち切るような一閃だった。
森の木々が大きく揺れ、湖面には無数の波紋が広がった。
怖くてつぶった目をゆっくりと開き、その光のもとをたどると、雲に姿を隠しかけた月を背に、ひとりの男が立っていた。
その手には、常に佩いている愛刀――「青天霹靂」。
淡い金色の光をまといながら、槐之介は恐ろしいほど険しい顔で湖畔を見据えている。
「……来て、くれたんだ……」
陸離の目には、かすかに涙が潤んだ。
そして宝寿は、陸離を抱いたまま、軽く口角を上げる。
「よぉ、お迎え。遅かったじゃねぇか」
槐之介は何も答えず、首をくいっと傾けるようにして、宝寿を鋭く睨みつけた。
「おいおい、そんな怖い顔すんなって」
湖畔にすっと降り立った槐之介は、宝寿に向かって一歩踏み出した。刀の柄を強く握り、その刃を抜き放とうと身構える。
「ちょっと待ってっ……!」
宝寿に何かをするつもりなのだろうか。
その異様な雰囲気に、陸離は慌てて声を上げた。
けれど、槐之介は刀を抜き放つと、そのまま宝寿の腕に向かって切りかかった。
刃が閃く。
宝寿の背後から迫っていた妖が、声を上げる間もなく斬り伏せられた。
「ったく……あっぶねぇ」
宝寿は、けろりとした顔で笑った。
しかし槐之介は、宝寿には一瞥もくれず、険しい眼差しのまま、その腕の中に抱かれた陸離へまっすぐ歩み寄ってくる。
「……」
「槐之介さん……」
近づいてきた槐之介の目に、陸離の姿が飛び込んできた。
乱れた髪。ところどころ着崩れた着物からのぞく白い肩。そして、その首筋には先ほど噛まれた痕がくっきりと残り、そのすぐ下を細く流れた血が、月明かりを受けて赤く光っている。
槐之介は、ほんの一瞬だけ目を奪われた。
普段はふざけてばかりの陸離が、今夜ばかりは妙に艶めいて見える――綺麗だ。そう思った自分に、槐之介は内心で舌打ちした。しかも、その陸離が誰の腕の中にいるのかを見れば、気分がいいはずもない。
無言のまま、槐之介は陸離をじろりと睨みつけた。
その視線に気づいた陸離は、はっとして、慌てて宝寿の腕から抜け出そうと身をよじった。
「ち、違います! 宝寿さんは私を妖怪どもから守ってくださっただけで……!」
ふーん、と鼻を鳴らし、槐之介は陸離をじっと見つめた。
「俺がいないところで、随分と仲良しやってんな」
口元には笑みすら浮かんでいる。
けれど、その目はまったく笑っていなかった。
「いや~、しっかし陸離ちゃんとのひとときは、実に濃密で忘れられそうにねぇな」
宝寿が、面白がるように、わざとらしく余計なひと言を付け加える。
(こいつ……! これじゃあとんだ勘違いされちゃう!)
陸離はむっと眉を寄せた。
バチーンっ!
湖畔に、乾いた音が高く響いた。
宝寿が何が起きたのか分からず呆然としている隙に、陸離はその腕から抜け出し、槐之介のもとへ駆け寄った。
「誤解を招くようなことを言わないでよね!」
陸離は宝寿に向かって、怒った口調で言い放つ。
「だって、本当に楽しかったもん……」
平手打ちされ、じんじんと痛む頬に手を当て、涙目でしょんぼりする宝寿。
悪戯心から口にした言葉ではあったが、それが本心でもあることは確かだった。
「……宝寿、貴様」
槐之介の声が、低く落ちた。
「えっ、俺まだ何もしてなくね?」
槐之介はかすかに首をかしげ、狼がうさぎを見るような目つきで宝寿を睨んだ。
「ひでぇ!」
宝寿が涙目で抗議する。
槐之介はそれを無視し、陸離へ視線を戻した。
「……それより、お前」
「はい?」
「そんなふしだらな格好を晒して、いつまで呑気にしてるんだ」
槐之介はそう言うと、自分の羽織を脱ぎ、陸離の肩へ乱暴にかけた。
「これでも着てろ」
「……」
「勘違いするなよ。お前が風邪なんぞ引いたら、血は飲めなくなるし、こっちは面倒が増えるんだ」
そう言って、槐之介はふいと顔を背けた。
その耳は、ほんの少しだけ赤かった。
そして、槐之介はそのまま宝寿へ向き直る。
「おっと、待て待て。今のは冗談だって」
宝寿は慌ててウィンクを飛ばし、両手を合わせて、槐之介の怒りを収めようと、いつものへらへらとした笑顔を浮かべた。
「それより、こいつらのことだ」
(話題かえやがった……)
さらりと今までの気まずさを誤魔化すように、宝寿は打って変わって真剣な眼差しを槐之介へ向けた。
そして、そのまま視線を先ほどまで妖どもが現れていた森の奥へと移す。
「お前も気づいてんだろう?常に雑魚妖怪どもの奥にあった、誰かの気配。あれは俺たちにこのおぞましい呪いをかけた張本人に違いねぇ」
前々からこのことを気にしていた槐之介の表情が、がらりと変わった。
「俺はもう、この呪いも柘榴の血もこりごりだ。さっさと呪いの元をたどって、全部終わらせちまおうぜ」
「あっ、でも陸離ちゃんの血は好きだよ~」
(また余計なことを!!)
「……まあ、それは置いといてさ」
宝寿はそう言って、手にしていた槍を肩へ担いだ。
「俺、五年前のあの日に、呪いをかけに来たやつと一戦やり合ったんだよ。そのとき、ちょっと気になるもんを見つけてな」
「気になるもの?」
「そう。で、ふと思ったんだよ。もしかしたら、呪われた奴らはみんな、何かしら手がかりを握ってんじゃねぇかって」
宝寿は、いつもの軽い調子のまま笑った。
「だったらさ、持ってるもんを全部持ち寄ってみりゃ、案外すぐ見つかるかもしれねぇだろ? 呪いをかけた張本人が」
「……」
「だから、まずはお前に聞こうと思ったんだよ。昔からの仲だしな」
その声音はいつもと変わらず軽かった。
けどその瞳には、冗談では済ませられないほどの真剣な光が宿っていた。
「それで人さらいをしたというのか。……よくも勝手な真似をしてくれたな」
「まあまあ、そう怒んなって」
宝寿は悪びれもせず、肩をすくめた。
「お前が持ってるもんと、俺が見たもん。二つ合わせりゃ、呪いをかけた奴の尻尾くらいは掴めるかもしれねぇだろ?」
「……」
「なあ、お前だって、この呪いを終わらせたいんだろ?」
槐之介は答えなかった。
そんな槐之介を見て、宝寿はふっと目を細める。
「それとも……柘榴の血がよっぽど気に入って、呪いなんざどうでもよくなっちまったか?」
「それは違う!」
以前の槐之介ならば、ここで何食わぬ顔をして「そうだ」と言い、この場をやり過ごしたかもしれない。
だが、今は違う。
どうして、こんなことが気になるのか、自分でも分からない。ただ、すぐそばにいる陸離に、そんなふうに思われるのだけは嫌だった。ほんの少しでも、勘違いされたくなかった。その理由さえ、槐之介にはまだ分からなかった。
「……俺には、お前が求めているような手がかりなど、何一つ持っていない」
さっきまで宝寿を殺す勢いで睨みつけていた槐之介は、そっと顔を逸らした。
「そんなはずなかろう。戦いを交えた相手のことについて、何もわからぬなどありえん! ましてやお前なら、きっと……とんでもねぇ手がかりのひとつやふたつ、掴んでんだろ?」
「持ってねぇもんは、どうしようもねぇだろ」
顔を逸らしたまま答える槐之介の、どこか苛立ったようにも聞こえる言葉を、宝寿はじっと聞いていた。
遠き昔から共にこの世を生き、ともに幾星霜を重ねてきた瑞獣の二人。長き年月をともに過ごし、今や大妖怪と呼ばれるまでになった二人は、互いのことを知り尽くしている。
だからこそ、宝寿は槐之介のほんの些細な変化さえ見逃さなかった。
「……お前、あの日あの時、何をしていた?」
宝寿は鋭い目つきで槐之介を問い詰めた。
(そうだ。確か五年前の、ある春の満月の日。日が沈み、辺りが暗くなった直後だったと聞いた)
「……俺は……その日……寝てた」
「は?」
「……昼から酒を飲んで……寝てた」
「…………」
「気づいたら、呪われてやがったんだ」
湖畔に、長い沈黙が落ちた。
宝寿は無言のまま槐之介を見つめていたが、やがて何かを悟ったように、深々とため息をついた。
そして、ズカズカと槐之介のもとへ歩み寄る。
「お前なぁ……」
ぽかんっ!
「痛っ!」
宝寿の拳骨が、槐之介の頭に見事に落ちた。
「五年も呪われてて、手がかりが何もねぇっていうし、いつまでも俺を避けるし、どんな秘密があるのかと思えば……昼から酒飲んで寝てただぁ?!」
「何しやがる! 痛ぇだろうが!」
「こっちが痛ぇよ!」
「俺の頭を殴っておいて、なんでお前が痛がってんだ。馬鹿か」
「俺の身にもなってくれ! ずっと心配してたんだよ!」
湖畔に、宝寿の声が響き渡った。
(宝寿、本当はもっと槐之介と仲良くしたかったのね)
陸離は、二人のやり取りを眺めながら、ふとそんなことを思った。
十年前からずっと、槐之介に避けられていた宝寿。それでも彼は、何度も昔のように笑い合える日を願い続けていたのだろう。
だからこそ、何かと理由をつけて槐之介のそばにいようとした。あの夜もまた、槐之介を守ろうと、その身を張っていた。
口では軽口ばかり叩いていても、その胸の奥では、ずっと槐之介のことを気にかけていたのだ。
そのことに気づいたとき、陸離の胸にも、春の日差しのような温かさが、そっと広がっていった。
陸離は、槐之介と宝寿の背中をぽん、と押した。
五百年もの昔から続く因縁。
赤い血を失った者たち。
そして、この世界を蝕み続ける呪い。
すべてが、まだ一本の糸のようにつながっているように思えた。
その糸を辿っていけば、きっといつか、その先にいる者へとたどり着ける。
それが、五百年前から続く因縁であろうと。
自分がこの世界へ呼び寄せられた理由であろうと。
陸離は、もう逃げるつもりはなかった。
「……私にできることなら、何だってする」
無窮の星々が、静かに夜空を埋め尽くしていた。
その下で陸離は、初めて自分自身の意志で、この世界の「悪」に立ち向かうことを決めた。
その悪が、赤い糸のもたらしたものだとは――陸離は、まだ知らなかった。




