第十二話 赤髪の訪客 其之四
いつものように柘榴のもとを訪れ、他愛のない話をして、命をつなぐ血を恵んでもらう。
そして、柘榴の血を狙って群がる低級の妖どもを蹴散らす。
それが、百々槐之介にとって十年続いた日常だった。今日もまた、何も変わらぬ一日になるはずだった。
――陸離の血を味わうまでは。
あの血が槐之介の口へ流れ込んだ瞬間、胸の奥深くにしまい込んでいた、遠い昔の記憶が蘇った。
春風が花の香りを運んでいた、あの美しい日々。
甘く、懐かしく、それでいて胸を刺すような悲しみと苦みを残す、遠い日々。
ひと時も忘れたことのない、槐之介が唯一深く愛し合った五百年前のあの人。
その面影が、確かに陸離の血の中にあった。
そんな夢のようなことがあるはずもないと槐之介は、頭ではそう分かっている。それでも、あの血の味を思い出すたび、あの匂いを感じるたび、忘れたはずのない日々が、まざまざと脳裏に蘇ってくる。
――あの頃のような、春風の匂いまで。
槐之介はその思いを胸の奥へ押し込めるように、今日もいつものように柘榴のもとへ向かった。そしていつものように、何百回、何千回と繰り返してきたその所作のまま、柘榴の裾元へ跪く。
「お待ちしておりましたわ、槐之介様」
鈴を転がすような声が響き、柘榴はいつものように美しく微笑み、黒真珠のような瞳で槐之介を見つめていた。
「……槐之介様。もしや、何かお悩みでもおありなのでしょうか?」
「え?」
顔を上げた槐之介に、柘榴はふわりと目を細める。
「いつもと少し、お顔が違うように見えますゆえ」
「……そうかな」
「ええ。わたくしには、分かります」
柘榴は静かに微笑んだ。
そこには、十の頃からともに過ごしてきた十年という歳月が育んだ、二人の濃やかな情が滲んでいた。
「近頃の妖どもは、どうにも力をつけておってなぁ。これがまた、なかなか手強いんだ」
「まあ……」
柘榴は心配そうに眉を下げた。けれどすぐに、慈しむような笑みを浮かべる。
「なれど、ご案じなさいますな。わたくしの血がございますもの」
そう言って、白い指先で自らの首筋に触れる。
「どうぞ、心ゆくまでお召し上がりになって、これまで以上にお強くなられますよう」
そして、ほんの少し頬を染め、目を伏せた。
「……そして、これまでと変わらず、これからもずっと、わたくしのことをお守りくださいね」
「……ああ」
槐之介は、それ以上何も言わなかった。
柘榴の願いを拒むことも、否定することもなかった。この十年、ずっとそうしてきたのだから。
柘榴は槐之介にだけ、首筋から血を吸うことを許した。
何もかもが黒く染まったこの世で、柘榴の赤い血は、まるで唯一の道しるべだった。その美しさも相まって、魑魅魍魎からは女神のように崇められている。誰もが欲し、誰もが憧れ、焦がれるその赤い血を、柘榴は槐之介にだけ与えていた。
けれど、それは決して気まぐれなどではなかった。
初めて槐之介に首筋から血を与えた、あの日のことを思えば、それがよくわかる。
「槐之介様は……わたくしにとって、光のようなお方にございます」
十の娘は、頬を桃色に染め、恥じらうように続けた。
「この身と槐之介様は、きっと……永遠の、血のように濃い赤い糸にて、決して切れることなく結ばれておるのでございましょうね。これからも、かわいそうなわたくしに、毎日会いにきてくださいませ。約束ですよ?」
ただ血をもらいに来ただけの槐之介には、そんなつもりなどひとかけらもなかったが、身寄りなき、まだ十の子供だった柘榴の戯言を、大人げなく突っぱねることもできなかった。
槐之介からすれば柘榴は、呪われし運命に巻き込まれた娘だった。本来ならば、妖と交わることなく、穏やかにその人生を歩んでいけたはずの幼き娘を、この十年もの間、山奥の神社に閉じ込め、毎日のように妖へ血を与えさせていた。
人間の命は短く脆い――槐之介はよく分かっている。
十年など、妖にとっては瞬きほどの歳月であっても、小さな女子である柘榴にとっては、その十年が決して短いものではない。だからこそ、残された人生があと幾ばくもないのなら、せめて彼女が望むものくらい、叶えてやりたいと思った――たとえ、それが己を求める心であったとしても。
それが、槐之介にとっての柘榴への情だった。
恋ではない。
ましてや、赤い糸などではない。
ただ、自分のせいで運命を狂わせてしまった、幼き一人の人間を哀れに思い、その短い一生に寄り添っているだけ。
だから今日も、そういうつもりでいた。
「では……いただくよ」
槐之介は柘榴の肩をそっと抱き寄せ、その白い首筋へ顔を近づけた。
牙が、いつも噛みつく首筋の跡をなぞるように、ゆっくりと肌へ食い込んでいく。
そして、いつものように血を啜った。
柘榴の温かな血が喉を満たしていく。
なのにこんな時に槐之介の脳裏に浮かんだのは、柘榴の姿ではなかった。
どこかふざけた顔に、寂しそうな瞳。
気弱な人間なのに、妖にも負けない心の強さ。
人のために、怖さを押し殺して血を差し出す優しさ。
槐之介の動きが、ほんのわずかに止まった。
あの血の味。
あの懐かしい匂い。
そして、あの声。
あの言葉。
あの健気さ。
五百年前に永遠に失った、愛しいあの人と重なってしまう。
そんなはずはない。
そんなこと、あるはずがないのに。
そんなこと、あってたまるか。
――あの時、あの人は確かに、雨に打たれたあの春の日に、赤い血にまみれて、この世で、槐之介の腕の中で息絶えたのだから。
槐之介は、ごちゃごちゃと考えることをやめ、そっと目を閉じた。
胸の奥に浮かんだ面影を振り払うように、再び柘榴の血を吸い始めた。
(帰りに、何か甘い菓子でも買ってやるか)




