第十一話 赤髪の訪客 其之三
宝寿はひゅいと陸離を抱え直すと、ひとっ飛びで丹若大社を眼下にした。
帰路につくはずだった二人だが、宝寿はそのまま帰ることなく、丹若大社からそう遠くない場所にある湖へと降り立った。
夕暮れの湖は、まるで天を映す鏡であった。沈みゆく陽が空を赤く染め、曇り空を覆っていた雲は、紅から紫へ、紫から紺へと美しい濃淡を描いている。水面にはその色が揺らめき、世界のすべてが夕陽の中へ溶けていくようだった。
「帰るん……じゃなかったんですか?」
陸離はむすっとした顔で、突然足を止めた宝寿を見上げた。
「……」
「宝寿さん……?」
「陸離ちゃんがあまりに重くてちょっと疲れちゃって、えへへ」
この美しい風景にはあまりにも似つかわしくない、身も蓋もない言葉。
むすっとしていた陸離のこめかみに、青筋がひとつ浮かび上がった。
「……じゃあ、おろして」
そんな乙女に言うべきではないようなことを平然と言ってくるくせに、宝寿の口元には、いじわるそうな笑みが浮かんでいる。言葉と表情がちっとも噛み合わないまま、宝寿はそっと陸離を降ろした。
降ろされた陸離は、目の前に広がる美しい景色と、先ほどの身も蓋もない発言との落差に、なんともいえない気まずさを覚えた。
しばし、二人の間に沈黙が落ちる。
静まり返った湖畔に、気まずい空気だけが流れていった。
「なあ、陸離ちゃん」
その気まずい空気に耐えられなくなったのか、それとも本当に疲れたのか、宝寿は湖のほとりに腰を下ろした。
「あいつが柘榴と想いを通わせてるなら、もう君の赤い血なんて必要ねえんじゃねえの?」
「……そんなことはないです。だって、私の血が必要とされてるからここにいるわけで……って、どうして私の血のことを知っているんですか!」
「ふーん」
昨晩ずっと見ていたなんて言えない宝寿は、誤魔化すように赤い髪を指先で弄った。
夕陽を受け、さらに燃えるように輝いていた宝寿の赤い髪が、陸離の瞳にはっきりと映り込んでいた。
「じゃあ試しに、俺にも少しくれてみなよ」
「意味分かんないです」
無の顔で、その不思議な申し出をきっぱり一刀両断したものの――ふと、今日のことを思い返した。
わざわざ丹若大社まで連れてきてくれて、この世界に来てから初めて、何のしがらみもなく外の世界に触れることができた。知らない景色を見て、知らない人々の声を聞いて。あの時間は、思っていた以上に楽しかった。
こんなふうにもやもやとした気持ちになってしまったのは、宝寿のせいではない。せっかく自分のために時間を使ってくれたのだ。そう思えば、ほんの少しくらいなら――彼のお願いに応えてあげてもいいかもしれない。
陸離は、そう思い直した。
「うそつきました。ひとくちならいいですよ、ひとくち」
陸離は自ら勢いよく着物の衿を緩め、首筋を晒した。
それは先ほど柘榴が見せていた姿と同じはずなのに、なぜか男前に見えてしまった。
「どうぞ」
緊張した陸離は潤んだ瞳で宝寿を見つめて、ごくり。
「……へえ」
宝寿はごくりと喉を鳴らした。
それまでの軽い笑みが消え、陸離を見つめる目が、ふと鋭さを帯びる。
宝寿の指が陸離の後頭部をなぞり、そのまま大きな手で包み込む。
ぐっと引き寄せられ、気づけば鼻先が触れそうなほどの距離に、宝寿の顔があった。
心臓の鼓動が、どくどくと速くなった陸離はそっと瞳を閉じた。
「じゃあ、遠慮なく――」
耳元に熱い吐息がかかり、陸離の心も身体もぴくりと震えた。
次の瞬間、鋭い牙が肌に触れる気配がした。
ほんの少し触れただけなのに、くすぐったいような、ぞくりとするような感覚が首筋を走る。
噛まれる――
そう思った瞬間から、実際に牙が食い込むまでのコンマ数秒が、ひどく長く感じられた。
心の準備はできていたはずなのに、陸離は緊張のあまり息をすることさえ忘れていた。
「うっ……!」
手首を噛まれた時とは比べものにならない、何十倍も、何百倍も強い痛みが、首筋から全身へ駆け抜けていく。それなのに、陸離の胸を締めつけていたのは、その痛みだけではなかった。先ほど見た光景が、何度も脳裏に蘇る。
柘榴の背に添えられた、槐之介の手。
柘榴の首筋に触れた、槐之介の唇。
あの二人の間にある、誰にも入り込めない深い繋がり。
(いや待て待て!ここで走馬灯は早いって。私、まだ死ぬつもりないから!)
陸離は力を振り絞り、宝寿の着物の衿元をぐっと掴んだ。
「もうそろそろ、ひとくち終わりますよ?」
痛みに潤んだ瞳で、陸離は力強く宝寿を睨みつけた。
それを聞いた宝寿がようやく、陸離の首から鋭い牙を抜き、指先で口元についた血を拭った。
「……陸離よ」
陸離がじっと閉じていた目を開き、顔を上げると、宝寿の身体から淡い赤い光が滲み出ているのが見えた。
「この血は……いったい、何なんだ?」
戸惑いを浮かべる宝寿を見て、陸離は無言のままだった。
「……これは、たまらんな」
宝寿は、口角に垂れた血をぺろりと舐めた。
「柘榴の血も旨かったが……これは、それどころではない」
愉しげに目を細める。
「ひと口で、これほど妖力が満ちるとはな。十倍……いや、百倍でも足りぬか」
すると、彼を包む赤い光がさらに強くなった。
「しかも、よく馴染む。まるで、初めから俺のために流れていたようだ」
宝寿は高らかに笑いながら、陸離の身体を左腕で強く抱き寄せた。その腕には、先ほどまでとは比べものにならないほどの力がこもっている。
陸離は宝寿の胸元に押しつけられたまま、首筋の痛みに耐えながら、口を尖らせて見上げた。
「これは君のために流れている血じゃないもん」
ようやく絞り出した言葉は、そんなものだった。
宝寿は一瞬、目を見開いた。
――何だ、この娘は。
まさか、そこを気にするのか。
じわりと口角が上がる。
「……そんなにあいつにべた惚れかよ」
面白い。
宝寿は、女にここまではっきり拒まれたことなど、一度もなかった。
いつだって、軽く声をかければ嬉しそうに笑われ、少し甘い言葉を囁けば頬を染められる。そんなものだと思っていた。だからこそ、目の前の陸離の反応は、妙に新鮮だった。
しかも、抱きしめられていることでも、血を吸われていることでもない。
――気にしているのは、そこなのか。
宝寿は、先ほどの言葉を思い返すと、堪えきれないように声を上げて笑った。
その笑い声が湖畔に響く中、一陣の風が吹き抜けた。水面に細かなさざ波が広がり、夕暮れの残照を映していた湖は、ゆっくりと夜の色へと染まっていく。
宝寿の赤い髪が風に煽られ、陸離の長い髪もまた、刻々と色を変える空へ向かって大きく翻った。
先ほどまで燃えるようだった空は、いつしか深い藍へと変わっていた。その藍に、ひとつ、またひとつと星が灯っていく。やがて夕日はその姿を完全に消し、二人を包むのは、星辰が燦々と輝く紺碧の夜空だけとなった。
そんな夜空の下で、宝寿の視線はいつまでも、むっとした顔で口をとんがらせた陸離のもとに留まり続けていた。そのヘンテコな姿は、一番星よりも燦々と輝いて見えた。




