第十話 赤髪の訪客 其之ニ
生まれて初めての生身の飛行であった。
男に抱えられたまま、陸離は遥か上空より、この時代の景色を見下ろしていた。
見慣れた現代の日本と、そう大きくは変わらない。
山々は雄々しく天へ聳え、川は清らかな水を湛え、悠久の時を渡るように長く流れていて、どこか澄み渡っていた。
「そういえば、お名前は……何と呼んだらいいですか?」
陸離が尋ねると、男は楽しげに目を細めた。
「俺は鬼月宝寿!好きなように呼ぶといいぞ。で、そんな君はなんていうんだ?」
「陸離です……じゃあ、宝寿様とお呼びしますね」
またしても、随分とかっこいい名前だ。陸離はつくづく、この世界に感心してしまう。
とはいえ、怪しい人物であることに変わりはない。陸離はある程度、心の距離は置いときたいと思った。
「じゃあ俺は、陸離ちゃんって呼ぶね!」
宝寿は、燦々と笑った。その笑顔は、まるですぐにでも暗雲がかかりそうな陽の光のようだった。
(それにしても、馴れ馴れしい……)
陸離は、この時代に来てから初めて、こんなタイプの人間と出会った。軽くて、明るくて、距離が近い。そして、隙も見当たらない。何を考えているのか、さっぱり見透かせない男だった。
しばらくして、宝寿の視線の先に、山の頂に建つ大きな神社が見えてきた。
朱塗りの立派な鳥居に、山の斜面を縫うように長く続く参道と階段。
その先に鎮座する、巨大な本殿。山そのものが神域となっているかのような、荘厳な佇まいであった。
――ここが、柘榴がいるとされている「丹若大社」。
「よいっしょ。着いたよー」
宝寿は陸離を抱えたまま、長い長い階段の下にある賑やかな参道へと降り立った。
これほど大きな神社ともなれば、その周りはまるで観光地のように、さまざまな土産物屋が軒を連ねている。道行く人々の声や店先から聞こえる呼び込みの声が飛び交い、参道は大勢の人で賑わっていた。
この世界に来て初めて、陸離は百々家以外の人々と触れ合った。知らない人々の声、行き交う人の気配、店先に並ぶ色とりどりの品々。そのすべてが新鮮で、陸離には実に楽しく思えた。
「宝寿様、今日は女性をお連れですか?」
若い土産物屋の店主が宝寿を見かけると、すぐさま声をかけてきた。陸離の姿を見るなり、にやりと意味ありげな笑みを浮かべる。
「いや、ちが……」
「まあ、そういうこと」
陸離が言い終わらぬうちに、宝寿が横からウィンクを飛ばして口を挟んだ。
「じゃあ、そんな宝寿様が見初めた幸運のお嬢様にはこれを差し上げましょう」
店主はそう言うと、店先から赤い柘榴の花をかたどった簪を取り出し、陸離へ差し出した。
着物を粋に着こなし、背筋をすっと伸ばしたその青年は、いかにも人当たりのよさそうな顔で、屈託のない笑みを浮かべている。堂々とした立ち姿には不思議な清々しさがあり、誰からも好かれそうな、まさに好青年といった風貌だった。
「綺麗……」
赤く透き通った硝子のような細工には、職人の心が込められているのが伝わってくる。
「僕が手ずから作ったものなんですが、丹若大社の柘榴姫にちなんだ品でして」
そう言って、青年は少し照れたように後頭部を手で掻いた。
「作ったのですか!すごい……ありがとうございます」
陸離は嬉しそうに礼を言うと、その簪を大事そうに手にした。
「じゃあ、そろそろ行きましょうかー」
宝寿は待ちきれない様子で陸離を促し、参道の天にも届きそうな大階段へと向かっていく。
「まさか、この階段を登る、なんてことは……」
目の前にそびえ立つ、果てしなく続いていそうな大階段を見上げ、陸離の顔がみるみる引きつっていく。
「……まさか、ね?」
陸離が恐る恐る宝寿の顔を見る。
「まさか!」
宝寿は、いじわるそうな顔でにやりと笑った。
そして再び陸離をひょいと抱きかかえると、ひとっ飛びで階段を飛び越え、本殿のすぐ近くにそびえる太く大きな御神木の上へ、軽々と降り立った。御神木の上からは、大きく開かれた本殿の中までよく見えた。まさに、特等席である。
「ここからはよく見えるでしょ?」
「たしかに、すごく綺麗に中まで丸見えです!」
初めて目にする外の世界に、陸離の胸は知らず知らずのうちに弾んでいた。思わず身を乗り出してしまうほど、その景色に心を奪われている。
しかし、そんな浮ついた気持ちに水を差すように、槐之介が空から本殿の真ん前へ、すっと降り立った。そのまま、慣れた足取りで本殿へ入っていく。
その姿を目で追っているうちに、陸離の胸に、じわりと緊張が込み上げてきた。
いよいよ、柘榴に会うのだ。
陸離は息を殺し、唾をひとつ飲み込んだ。
本殿の中を覗くと、そこには、豪華絢爛な唐紅の十二単を纏った、美しい女性が鎮座していた。
床に届くほど長く流れる艶やかな黒髪。白磁のように透き通った肌。整った顔立ちは、まるで絵巻物からそのまま抜け出してきた平安の姫君のようでありながら、それだけでは言い表せないほどの美しさを湛えている。
遠目から眺めているだけだというのに、その姿から滲み出る気品と圧倒的な存在感に、陸離は思わず息を呑んだ。ただ本殿にいるというよりも――まるで、この場所そのものが彼女を祀るためにあるかのようだった。
「あの方が、柘榴様ですか……?」
「御名答」
宝寿は、どこか得意げに答えた。
(なんて、美しい方……)
陸離は、言葉を失った。
比べることすら、おこがましい。
そんな圧倒的な美しさを前に、胸の奥でひそかに育てていた想いが、音もなく崩れていく。
もしかしたら。
血を分け与えたことで、槐之介の中に、少しでも自分への情が芽生えたのではないか。そんな甘い考えを抱いていた自分が、ひどく恥ずかしくなった。
陸離は、己の身の程を思い知らされたような気がした。
本殿の中で交わされる言葉までは聞こえない。
けれど、目に映るものだけは、嫌というほどはっきりと見えていた。
慣れた足取りで中へ入った槐之介が、柘榴の傍らに跪く。
いくつか言葉を交わしたあと、柘榴がゆっくりと両腕を広げた。
槐之介は、その腕の中へ導かれるように身を寄せると、彼女の着物の襟元へ手を伸ばした。
白い首筋が、唐紅の衣の間から静かに露わになる。
そして、そっと唇を寄せた。
鋭い牙が、白玉のような肌へゆっくりと沈み込んでいく。
痛みがあるはずなのに、柘榴は美しい目を閉じ、槐之介の背へ両手を添えた。
拒むこともなく。
まるで、それを待ち望んでいたかのように。
二人の姿はあまりにも自然で、陸離には、それがひどく親密なものに見えた。
まるで、何よりも深く互いを求め合っているかのように。
二人は抱き合いながら、静かに血のやり取りを続けていた。
陸離は、見てはいけないものを見てしまった気がした。
胸の奥が、ひどく冷えていく。
自分の意志だったはずなのに。
昨夜、荒々しくつけられた手首の傷が、急に惨めなものに思えてきた。
「男どもは皆、快くあの柘榴の裾元にひれ伏すもんだな」
宝寿が、この状況を面白がって横目で陸離を見ながらからかってきた。
「まあ、俺はそうじゃねぇけど」
「……そう?」
「お、おう。そりゃまあ、綺麗っちゃ綺麗だけどさ」
陸離の意外な反応に、宝寿は珍しく言葉に詰まった。
「でも、宝寿様も柘榴様から血を分けてもらっているんでしょう?」
「俺は指からしか、もらったことねえけど?」
その言葉が、陸離を再び苦い現実へと引き戻した。
指から。
けれど、先ほど目にした光景は、間違いなく首筋からだった。
その違いに、どれほどの意味があるのか、陸離には知る由もない。それでも、そこには槐之介だけに許された、特別なものがあるように思えてならなかった。
「槐之介さんが、柘榴様にとって、特別な存在ってことかな」
「まあ、そうじゃない?」
宝寿は、あっさりと陸離が聞きたくなかった答えを口にした。
その言葉が、今の陸離にはあまりにも重かった。
「あ、でも――」
宝寿は何かを思い出したように、顎へ手を添えた。
「あいつ確か、恋人もいたような気がするけどな」
何気なく放たれたその言葉が、陸離の胸を深く抉った。
――そうだ。
あんなにかっこよくて、強くて、それでいて高名な瑞獣・貔貅なのだ。
今まで誰かに想いを寄せられたことも、誰かと恋に落ちたことも、一度や二度ではないのだろう。
むしろ、色恋沙汰のひとつもなかったと考えるほうが、不自然だった。
そんな当たり前のことに、あまりに近くにいた陸離は今さら気づかされた。すでに傷だらけだった心に、さらに鋭利な刃物を突き立てられたようだった。
結局、陸離はこちらの世界でも、誰かの特別にはなれない。
その現実を思い知らされ、陸離は深い嫉妬と自己嫌悪の渦へ、静かに沈んでいった。
やがて、槐之介が丹若大社を去っていく。
その姿が見えなくなっても、陸離はしばらく御神木の上から動くことができなかった。
「……そろそろ、帰る?」
暇そうにあぐらをかいていた宝寿の声に、陸離はようやく我に返った。
「うん……」
小さく返事をしたものの、その声にあった先ほどまでの明るさは、自由気ままな春風に乗って、遥か彼方へと消えていった。
————- キリトリ線 ————-
ここまで読んでいただきまして、誠にありがとうございます!
コメント、いいね、大歓迎です!>.<
皆さまからの温かい反応を、心よりお待ちしております。
何卒よろしくお願い申し上げます!




