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後編

格納庫の隅、出撃を待つオニグモの影。

 田上はドラム缶に腰を下ろすと、震える指で煙草「金鵄」に火をつけた。


「田上さん、また。格納庫内は禁煙だと整備班に叱られますよ」


 隣に立ったユキの表情には、射撃場にいた時の張り詰めた空気はなく、どこか年相応の幼さが混じっていた。


「……すまん。これがないと、奴らの唸り声が消えなくてな。……だが、不思議だな。お前と歩いている間だけは、自分がまだ『人間』だと思えるんだ」


 田上は短くなった煙草を揉み消し、ユキの白い手首を見た。そこには機体と感覚を共有するための痛々しい注連縄の痕が刻まれている。


「ユキ、戦が終わったら何をしたい」


 ありふれた、そして最も禁忌とされる問いに、ユキは少しだけ目を見開いた。


「……故郷の信州で、林檎を。真っ赤に実ったやつを、お腹いっぱい食べたいです。ここにあるのは、鉄の味と、藁の匂いだけですから」


「そうか。……なら、俺が全部食わせてやる。戦地手当を溜め込んでるんだ」


 ユキは「楽しみにしておきます」と、春の陽だまりのような微笑を浮かべた。


 それを見守っていた整備班の老兵が、苦笑いしながら声をかける。


「おい、ガキども。無駄話してねえで飯を食え。今日は特別に麦飯じゃねえ、銀シャリだぞ」


 それが、彼らが「人間」として笑い合った、最後の日だった。



 一九四五年度、八月。

 満州の地平を埋め尽くしたのは、ソ連の陸上戦艦『チェルノボーグ』。


 それは西洋魔術と唯物史観が歪に融合した、文字通りの「黒い神」だった。数多のヨモツイクサが、その巨体から放たれる負の熱線に焼かれ、ただの藁屑となって散っていく。


「ユキ、行くぞ。……俺を、全部使え。林檎の約束、忘れてないからな」


「はい……。あなたの魂、最後の一片まで抱きしめて参ります。――神懸かれ!」


 オニグモが泥を蹴立てて疾走する。四本の脚が大地の霊脈を掴み、祟り神の力が大気を震わせる。

 田上の精神は沸騰していた。眼球の裏まで真っ赤に染まり、全身の血管が破裂しそうなほどに浮き出る。だが、背中に感じるユキの存在だけが、彼を繋ぎ止めていた。


「田上さん、今です! ――天之尾羽張アメノオハバリ、抜刀!」


 ユキの絶叫とともに引き抜かれた巨大な霊刀が、戦場を白銀の閃光で切り裂いた。


 主砲を遥かに凌駕する霊素の斬撃は、チェルノボーグの堅牢な魔導障壁を、腐った布のように引き裂き、その中枢へと突き刺さった。


 チェルノボーグの爆発が、夜の戦場を白く照らし出した。


 最強の陸上戦艦は崩壊し、ソ連軍の進撃は停止した。数値上は、大日本帝国の完全なる勝利だった。

 沈黙したオニグモのハッチを、整備兵たちがバールでこじ開けた。


「田上! ユキ様! 生きてるか!」


 ハッチの隙間から溢れ出したのは、硝煙ではなく、むせ返るような花の香気と、一面に咲き乱れる「彼岸花」だった。


 操縦席の田上の体は、節々から藁が皮膚を突き破って生え出し、鋼鉄の装甲と癒着していた。その表情は仏像のように穏やかで、しかし瞳の光はどこにもない。


 ユキもまた、彼を抱きしめるように凍りついたまま、白磁の彫像と化していた。

 林檎を食べたいと語った唇は、一筋の灰となって、彼岸花の上に崩れ落ちた。


「……バカ野郎。林檎、食わせてやるって、言ったじゃねえか」


 老整備兵の嗚咽が、泥の上に消えた。

 彼らは救われたのではない。

 崩壊する国を繋ぎ止めるための、完璧な「人柱」として完成してしまったのだ。


 オニグモの機体には、血で書かれたような新しい神代文字が、醜くも美しく浮かび上がっていた。

 それは、明日には別の少年兵が座るであろう、呪われた玉座の印であった。

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